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コロナの頃な

第一章 

 早朝、走ることを習慣にしている。40を目の前にし、身体が鈍ってきた。体力維持のために始めたランニングだが、最近は走ること自体が楽しく思える。
 金華山の麓、長良川左岸を長良橋から忠節橋に向かって走る。冷えた空気の中を吐く息が白い。堤防下、よく整備されたランニングロード。早朝からすでに何人か同じように走っている人とすれ違う。
 忠節橋下で折り返せば、東を目指して走る形になり、眩しさの中、黄金色の朝日に包まれるのもこの時間このコースを走る魅力だ。身体が充分に暖まった頃、長良橋から南下し大通りを抜け脇道に入って我が寺に戻る。
 秋。境内の銀杏が色づく。 
 我が家は代々から続く寺であり、その境内に樹齢400年の大銀杏の巨木がすっくと立つ。紅葉し黄金に彩られる様は見事なものだが、落ち葉の掃除は大変である。それ以上に、実が落ちて大変だ。
 銀杏爆弾。家族では、祖母や祖父が生きていた頃からそう呼んで面白がっている。
 実際、この季節、大銀杏の下にいると、降ってきて脳天を直撃する小さな種に注意しなければならない。そして、誤って独特の匂いを放つ実を踏むことにも。
 カサカサっと音がする前触れと共に、銀杏が落ちてきて、危なっかしい。黄色い銀杏の葉を年老いた母親が、ホウキで集める。嘲笑うかのように風に吹かれてまたひらり落ちてくる。その繰り返し。
 朝日で照らされて暖まり始めた空気の中、幼児が黄色の絨毯を踏み散らして、『ばあば』と甘えた声で初老の母の足元にまとわりつく。
我が子も5歳になった。
『支度はしたの⁈』
家の玄関から、嫁が呼ぶ声がする。そろそろ幼児園に向かう時間だ。

 少し離れた郊外に、今日はひさびさに法要が入った。お勤めに出かけ経を唱えることも少なくなった。様々なものが自動化され、新時代が明けたと言われてから随分立つ。仏法会も変化し、法事や葬儀なども、最近ではネットで済まされている。お悔やみの告知は専門のサイトを通して行われ、チャットによって故人への想いが綴られる。人が死ぬということが軽くなって久しい。
 とは言え、何もかも便利にすることに人は一抹の不安があるようで、亡き人を丁寧に供養する気持ちもまだまだある。かつてよりは確実に減ったのだが、月に何度かは檀家から呼ばれ法要に出かける。
 祖父から父へ、そして、父から自分へと受け継がれた住職という職業。やがては我が子に引き継がれていくのであろう。死後の世界はいまだ解明されず、どれほど便利な世になろうとも、人には宗教が必要だということを痛感する。
 予定では午前中に葬式が入っており、経を読んでお送りさせてもらう。その家族も、他の例にもれずネットで簡素に済ませたいというのが意向だったらしい。しかし、実は私の父親が頑としてそれを許さなかった。どうやら縁のある人物らしい。その家族を説得して私を向かわせた。
 袈裟を着ると、やはり身が引き締まる。ゆっくりと落ち葉を踏む音とともに電気自動車が傍らに近づいてきて停まる。シューと、僅かな音と共にドアが開く。袈裟を着て電気自動車に乗り込むこの姿、過去と現代が混じりあう、我ながらシュールな姿だといつも思う。
 出がけに母が声を声をかけてきた。
『あなたも昔は可愛がってもらったのよ。』
 葬儀は予定通り終わった。家族はやれやれという表情で故人を見送っていたのが印象的であった。仏様の顔をあまりよく覚えていない。可愛がってもらったというが…記憶が薄い。
 昼もすぎ、小春日和で少し暖かな日差しが眩しい。寺に向かって帰路に着く。山の中腹のトンネルに向かう途中から山門に車を入れる。山門からは大銀杏と黄色がのぞく。ふと思い出す。幼き記憶がぼんやりと浮かぶ。
 この巨木に顔がついていた…。
 まさかな。幻かな。確かに幻のように、けれど印象深く思い出す。確かに顔がついていた。巨大な…。
 幼少の頃、大人が集まってあの大銀杏の周りで何かやっていたな。ボンヤリと記憶を辿る。
 なくなった祖父は絵描きだった。我が家系は血筋として、趣味に凝るところがある。父はラジコン模型の塗装に長けていて、その世界では第一人者だったらしい。自分もバイクに凝って、電動バイクのモーターをチューンナップしている。マニアからの改造依頼が途切れない。趣味を通り越して、もう一つの生業ではあるから…血筋ではある。
 家には祖父が遺した美術作品があちこちにある。本堂の壁の壁画は祖父が描いたものだという。靴下を履いた羊の絵、ウサギの人形、様々な作家の作品が飾ってあったり、無造作に置かれたりしている。子供が乗って遊ぶ犬の車のおもちゃは祖父が手作りし、私に与え、そして今は息子が使っている。
 祖父は美術団体を主宰していて、よく庫裡では人が集まり、何やら話し合っていた記憶がある。最後はいつも宴会になり参加者は呑み食いしては談笑していた。幼い自分は祖母に連れられ、大人に挨拶をし、交互に可愛がられていた。
 どうにも気になったので、蔵を改造した書斎に籠り、タブレットで昔の記憶を祖父のアーカイブに探る。紐解いてみれば、アートフォーラムというのがその集まりの名前だった。毎年、秋に寺を使って芸術のイベントを行っていたと記録にある。父の話では、今日送った故人もそのメンバーの1人だったという。
 丁寧に記録されたチラシや新聞紙のデジタル資料からは、このイベントに毎年大勢の人が訪れ、時には講演会が開かれ、賑わっていた事が読み取れる。
 この寺でだ。今からすれば、とうてい考えられない。
 年代を遡って膨大な昔の画像を探る。スクロールするたびに自分が若返り次第に幼くなっていく。年が息子と同じくらいになった頃、確かに大銀杏と一体化された黄色い巨大な顔の画像を何枚も見つけた。同時に記憶も蘇る。
 大銀杏の大きな黄色い顔は、その会の晩年に作られた作品の一つだった。巨木を囲むように、顔が造形されている。見事に黄色く色を変えた大銀杏と、やはり黄色い顔のオブジェ。そこに幼い日の自分も写っている。
 うちの大銀杏は、近隣でも最も遅く紅葉を迎える。寒くなった頃やっと色づいた黄色と、その顔面は一体となっていた。誰かがライトアップして、夜の闇に光っている姿は幻想的だ。青い目を見開いたその表情に、幼心に若干の恐怖と神秘さを感じていたことを思い出す。
 記録を見るとアートフォーラムはその頃を機に途絶えていた。当時、数年にわたってコロナという疫病が大流行し継続できなったらしい。確かに画像を見ると、夏だというのに、皆マスクをしていて時代を感じさせる。そんな光景も今ではワクチンが普及し、すっかり過去の風物と化している。
 データを眺めていて、やっと結びつく。ふと、見覚えのある顔があるのに気づく。その時初めて今日の故人のことを思い出した。
 林のおじちゃん…。
そう呼んでいた気がする。
 会が開かれる度、長身の父親に担がれながら、大人たちの宴会の場に連れられていった。広い庫裡で沢山の大人に遊んでもらった光景が頭の中に蘇る。祖父がどっしりと中心となって会を進め、祖母が料理を振る舞う。口角泡を飛ばしてアートについて議論している光景。
 飼い犬や自分がその中を駆け回り、絶えず声をかけられては、交互に可愛がられて頭を撫でられていた。笑い声や人の集まりの温度、距離の近さ、熱気が郷愁とも言える幼少の記憶とともにはっきりと蘇る。故人にもよく遊んでもらったことを思い出した。
 そんな濃密な人の集まりは、6年続いたコロナ禍以降絶えてしまった。それが今の世の中だ。私たちの世代は、モニター越しに人が集まる世代であり、そこには温度はない。
 忠節橋が架け替えられて4年。頂上に城を構える金華山や、その麓を流れる長良川の広い水面の輝きは今も変わらない。
 それから暫くして、年をまたいだ冬のある日に、突然、長身の若い男性が寺を訪ねてきた。30前後だろうか、長髪を頭の上で束ね、いかにも芸術家といった風情の彼は、すっかり葉の落ちた銀杏の木を見上げながら、言った。
「親父がやろうとしてできなかったことをやってみたいんです。」
 話によれば、彼の父親はアートフォーラムのメンバーだった。例のコロナ禍でイベントが出来なくなった年、彼の父親はアートフォーラムで、大銀杏をアートで彩るつもりだったらしい。それができなかった。その頃に結婚した父親は後に海外に渡り、そして何年かして彼が生まれた。今、父親はアーティストとして世界的に活躍しているという。
 幼少の頃、彼の父親は、自分のアーティストとしての原点はアートフォーラムの仲間と一緒に活動していたあの頃にあると聞かされていた。そして、この寺の風景、この銀杏の大木の画像をいつも見せられて育った。やがて、この寺が彼にとって大切な原風景になってきたらしい。
 外国で育った彼は日本に魅了され、帰国して父母のルーツであるこの土地に住み着こうとしている。
 そして彼自身も若いアーティストだった。不思議なことに10ほど年が離れている彼とは、妙に馬が合い話が弾んだ。庫裡に上がってもらい、書斎として使っている蔵に招き入れる。音声操作で暗い室内に壁面一杯に画像を映し出す。広いスクリーンに彼が指さすのは、彼の父親の作品や、若い頃の彼の父の姿、そして彼の母の姿も。
 暫く画像を観ながら話をしている中で、目を潤ませながら、彼が熱を込めて言った。
「アートフォーラムを復活しませんか。」
 これが、その後永く続いていくアートフォーラムの始まり…。

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