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石ころ

𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす

 人は何のために生きているのか。じつは、あらかじめ意味を持って生まれてくる人間は一人もいない。その意味では、人間は石ころと同じである。
 自分は会社にとって必要な人間だと言ったところで、その会社がなくなれば意味はないし、いくら世の中に貢献していると言ったって、明治維新や終戦のように世の中の方がガラッと変わってしまうこともある。石だって一定の大きさと重さがあれば漬物石にはなるが、それも漬物あっての話である。意味は後から与えられる。
 自負、自尊心、プライド、そうした一切のものは、みずからの属性を頼ることによって形成されている。どこどこの会社に勤めているとか、年収がいくらだとか、誰それと知り合いだとか、どのくらい有名だとか……。しかし、みずからの生をぎりぎりのところで支えているのは、裸のままの存在である。「属性の自負」から「存在の自恃」へ。
 人間を、人間であるという理由で愛せなければ、やがて文字通り彼らを抹殺しようということになるだろう。カート・ヴォネガットはそう書いた。彼は戦争や貧困を念頭に置いていたのかもしれないが、日本ではまさに「生きている意味がない」という理由で十九人が殺された。
 石ころがあると、「誰がこんなところに置いたのか」とか「つまづいたらどうするんだ」などと文句を言う。野山に行けば石ころなんかいくらでも転がっているのに、どうしてただの石がそんなに気に入らないのか。われわれは傲慢にも、つねに意味を与えずにはいられない。これは文明人の病理である。
(二〇二〇年五月)


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