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進化論は弱肉強食ではない

𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす

 キリンの首はなぜ長いか。それは、高いところの葉に届くように、首が長く進化したからだ。これは、自然選択を説明する例え話として、きわめてよく用いられるエピソードである。しかし、最新の研究は、これとは別の可能性を指摘している。それによると、キリンの祖先には、非常に分厚い頸椎骨と、ヘルメットのようなヘッドギアがあった。これは、求愛やライバル撃退のために、首どうしを強く打ちつけて格闘していたためだと考えられている。じつは、このようにして首の骨が強化されたことが、首そのものを長くさせることを後押ししたのではないか。もちろん、首が長くなったことは、エサを獲得するための生存競争の中で、他の生物よりも有利に働いた可能性はある。だが、この発見はキリンの首の進化が、単一の原因によって生じたものではないことを示唆している。
 似たような話はほかにもある。哺乳類のオスは、なぜ精巣が外に出ているのか。これは精巣下降といって、胎生期から出生期にかけて、精巣が陰嚢に下降してくるためである。精巣下降がなぜ起こるかについては、さまざまな説明がある。もっとも一般的な説明としては、精子を作り出すのに最適な温度は、体温より1~2℃低いためだとされている。だが、私は話が逆ではないかと疑っている。精巣が下降したために、精子は低い温度に適応したのではないか。実際、哺乳類でもクジラやゾウでは、精巣下降が見られない。
 進化論が説明するのは、「生存する者は適者だ」という前提である。だがそれは、「適応した者だけが生存できる」という意味ではない。適者生存とは、「生存している者=適応している者」と見なしましょう、ということにすぎない。キリンは首を長くしようと努力したから生き残れたのではない。どうして生き残れたかはわからないが、とりあえず彼らは生存しており、首が長いという彼らの特徴は、彼らの棲息環境とマッチしている。そう説明しているだけである。
 ところが、この適者生存というアイディアは、誤解とともに、一部の人々にとって非常に都合のよい説として流布している。すなわち、社会は弱肉強食のサバイバルゲームであり、生存のためには常に努力し続けなければならない。競争に負けた者は滅びるしかなく、弱者や負け組の救済は一切不要。これは上昇志向が強く、ただいま現在成功している者にとっては、たいへん便利な論法である。いわゆる「社会ダーウイニズム」である。
 もちろん私は、成功するための努力を否定しない。しかし、その成功が、本当に努力だけによるものかどうかは、じつはよくわからないのである。なぜなら、進化も人生もただ一回きりの現象なので、物理法則のように真偽を立証することはできないからである。自然選択は生物の進化だけでなく社会の仕組みにいたるまで、あまりにも多くの説明に使うことができてしまうため、その魅力に抗い難いのである。
 たとえば、努力して英語が話せるようになった。私はその努力はたいへん立派だと思う。しかし、その人が英語ができるようになったのは、100%努力のおかげか。アインシュタインは英語が苦手だった。アメリカに亡命して英語で生活はしていたが、難しい議論になるとすぐにドイツ語に戻ってしまったという。アインシュタインほどの天才でも、英語が話せなかったのである。それは、アインシュタインの努力が足りなかったせいなのだろうか。
 適者生存は、生物間の優劣や序列を裏付けるものではない。生物の進化を左右するのは偶然である。それがダーウインの説であり、科学的な意味での進化論である。適応しようと努力した者が生存できるというわけではなく、適応した者が優れているとか、生き残れなかった者が劣っているということでもない。そいつが生き延びたから、あるいは勝ち残ったから、誰も文句が言えないだけである。日本語にはこれ言いあらわすぴったりの諺がある。すなわち、「勝てば官軍」である。
 成功できない人間は、努力が足りないのか、それとも運が悪いのか。それはわからない。しかし、社会ダーウイニズムのような誤った学説によって彼らを糾弾することは、差別や対立しか生まないだろう。結局のところ、自己責任論者たちが弱者を嫌うのは、彼らのことが気に入らないという私的な感情を、偽装された科学でコーティングしているに過ぎない。
(二〇二三年三月)


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