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多様性

𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす

 わが家では、家事はもっぱら私の仕事である。妻の仕事はテレワークというわけにはいかない職種なので、私が毎晩夕食を作る。日中も家事の合間に仕事をしている、という感じである。だから最近は冗談で「職業は主夫です」と言っている。ところが、先日あるアンケートに答えようとしたら、職業欄に「専業主婦」しかない。そしてそれは、既婚の女性以外は選択できませんと書かれている。これは男女差別ではないのかしら?
 雇用機会均等、女性の社会進出といった言葉は、近頃あまり聞かなくなった。社会の実態というものがだんだんわかってきて、女性の方も「こんな社会に進出してたまるか」というのが本音ということか。年収の高い夫と結婚して、家で掃除してご飯を作って待っている方がいい。女性がそう思ったとしても無理はない。実際、会社を辞めて主夫になった私からすると、申し訳ないくらい楽になった、と思う。
 特定の組織における女性の比率が、日本では圧倒的に低いことを挙げて、女性の進出が進んでいない、男女平等でない、という。しかし、私は数だけの問題ではなかろうと思う。職業によっては、男女の偏りというのは当然ある。女性の方が多い職種だってたくさんある。しかし、それを男女差別だとは誰も言わない。要するに、誰かがその仕事に就きたいと思ったときに、必要な技能や資格さえ有していれば何にも阻まれない。そうあってほしい。つまり、必要なのは「平等」ではなく「公平」である。
 昼間に夕飯の買い物に出たりすると、隣人やマンションの管理人とよくすれ違う。その度に「この人は真っ昼間から家にいて、いったい何をしているのだろう」という好奇の入り混じった目でじろじろ見られる。私はあまり気にしないが、この国で男性が「好きな生き方」をしようとすれば、ことのほか強い抵抗に遭う。機会そのものは与えられているわけだが、世間がそれを許すかどうかは、また別問題なのである。
 ところで、先ほどから私は慎重にも「妻は」という言い方をしている。最近は女房・家内・細君といった言葉もめっきり聞かなくなった。はっきり言うが、これは女性差別ではない。身内だから遜った言い方をするのであって、息子を愚息と言うのと同じである。新聞記者が自分たちのことを指して「ブンヤ」と言うが、他人から言われたら頭にくるであろう。そして言うまでもなく、問題は言葉ではない。自分が何と呼ばれようが、夫婦円満ならそれでよいではないか。
 LGBTという言葉も釈然としないものがある。男と女だけではない。だからLGBTなのに、そういう言葉を作ったことで満足してしまう。「男」「女」とラベリングするように、「LGBT」というラベルを貼ることで、問題が片付いたように錯覚してしまう。だから違和感が残る。LGBT法案をめぐっては、与党のある議員が「僕も六十数年生きてるけども、あんまりそういう人を直接知らないわけよ」と言った。それなら私だって、コロナに罹ったという人を直接知らない。
 結局、言葉は現実の代替物に過ぎない。言葉はただの言葉ですよ。そう言うと目を真っ赤にして怒る人がいる。繰り返しいうが問題は言葉ではない。実体の方である。言葉を正せば現実も直るというものではない。実体より言葉の方が偉い世の中になると、私のような男にはいささか生きづらいのである。
(二〇二一年七月)


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