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短編小説 「みすずのバトン」

初めて小説を書いてみました。徹夜で八時間。どうぞ。

目が覚める。視界が白い。しばらくぼうっとして、周りを見渡してみると、ここがどこだか気が付いた。覚悟は十分だったはずだから、高さが足りなかったんだろうか。体がびくとも動かないから多分大事そうな骨が折れていて、一命をとりとめたといったところだろう。

失敗しちゃったな。

声も出せないし頭も動かないので、思ったことはそれだけだった。すぐに眠たくなってしまって一旦瞼を閉じることにした。


次に目が覚めると、少し周りのものが見えるようになった。白い天井と窓から差しこむ月明かり。近くの机には十月七日と表示された電子時計があった。飛び降りたのはたしか十月五日だったから、丸一日は意識がなかったということになる。あの日、私は全てが嫌になって、終わらせようとした。永遠に続くかとも思われる苦しい学校。悪いのはあの人たちなのに、逃げるしかできない自分のこともだんだん嫌いになっていった。助けてくれる人がいて、好いてくれる人もいた。それなのにその手を信じることができないほどの制御不能な自己否定が起きていた。この先に自分がその手を取って誰かを信じて笑っていられる未来が思い描けず、追い打ちをかけるように、唯一味方でいてくれたおじいちゃんが亡くなったのが数か月前。もういいか、と生きるために張り続けていた糸がぷつんと切れた。

「失礼します。日野さん、意識が戻られたようですね。」

看護師さんが入ってきた。せっかく頭が動いてきて一人で状況を整理していたい時間だったのに。

「はい。」

「明日また検査をしてみてからの判断になりますが、脳などの神経系に目立った負傷はありません。骨が折れているのとひどい出血はありましたが、幸い大事には至らず、完治することができます。状態が一旦安定したら別の部屋に移っていただきますので、まずはお休みなさってください。それでは失礼いたします。」

看護師さんは重そうなドアを素早く開けて忙しそうに出ていった。大事そうな骨が折れているという予想は正誤判定なら三角かな。完治できるんだって。お医者さんはやっぱり目に見える病気しかわかってくれないみたいだった。


好きな人がいた。全然釣り合わないことを知っていた。人気者の彼と平凡にも満たない私。性格、外見、知性、友好関係。何一つ切り取っても私は彼に及ばない。だから追うことも求めることもなく、ただ好きでいた。それだけで十分だったのに、いつからか私たちは話せる仲になって恋人になった。彼はただ一つ、文学の表現がいまいち、よくわからないと言う。私はおじいちゃんの影響もあって詩をよく読んでいて、私の感じる雨の匂いや世界の色を伝えると、彼は楽しそうに羨ましそうに話を聞いてくれていた。しかし、そうして出来上がったシナリオの結末は決まっている。自分一人に向けられる視線ならまだ耐えられたかもしれない。でも、この小さな世界の中で高校生活を送らなくてはならないのは紛れもない事実で、彼を巻き込んでしまうだろうということは目に見えていた。別れという代償をはらって彼を守ることはできたけれど、自分のことは守りきれなかった。家族には迷惑をかけたくない。共働きの両親は日々忙しそうにしていて相談できるような仲の人がいなかった私にとって、おじいちゃんは、親代わりでもあり、親友でもあった。おじいちゃんが亡くなった日の午後は風が吹いた。

それからの夏は、寒いとさえ思えた。


翌日の検査を終えて私は自分含めて六人ほどが生活することができる部屋に移された。両親は泣きながら理由を聞いてきたけれど応える気力なんてあるわけがなく、看護師さんに説得されて「ゆいちゃんには無理なくゆっくりと回復してもらいましょう。」という結論に達したようだった。限界値を超えてみてわかるのは、今の自分はまるで植物のようだということ。意志を失った人間は人間なのだろうか。

それからの私は、日々を起きて食べて寝るというサイクルで消費した。しかし、時間というものは不思議なもので何かの治癒能力を持っていて、何週間か経つとサイクルに耐えられなくなってきた私は周りの患者に興味をわかせることで飽きから脱却しようとした。この部屋には六人入れるけれど当分の間は、今日入ってきたおばあさんと私しか使わないようだった。

「はじめまして。あたし、美鈴と言います。よろしくね。」

おばあさんはテンプレートのそのままの挨拶をしてきた。

「みすず…」

「あら、金子みすゞをご存じ?」

木漏れ日みたいな微笑みをするおばあさんだった。多くを語らなくとも溢れでている優しさは、どこか私のおじいちゃんに似ていて懐かしさを感じさせた。

「苗字は全然違くて立花なのよ。でもあたし金子みすゞさんも好きだから、美鈴さんって呼んでくれたら嬉しいわ。心臓が弱くてね。もうおばあちゃんだから長くはないんだけれど、歳の離れたお友達だと思って気軽に話しかけて欲しいの。旦那さんもいなくてずっと一人で暮らしていたのよ。本当は寂しくってね。お嬢さんのお名前はゆいちゃんでいいのかしら。」

話しかけてほしいなんて言うけれど話しかけられているのはむしろ私の方で、美鈴さんの止まらない自己紹介に思わず笑ってしまった。

「はい。あっています。こちらこそ、よろしくお願いします。」

こうして、一人の自殺未遂の高校生と一人の永らえたいおばあさんは、死の砂時計を二人で見つめる友達になった。



美鈴さんと出会ってから二か月が経つと、私はストレスや記憶から自分を守るためか、学校でのことや人間関係のことなどの過去は段々と思い出せなくなっていった。一方で、美鈴さんは認知症を発症し、過去の出来事に縋りつくように同じ話を私に聞かせるようになった。安静にしていなくちゃいけないのに「行かなくてはいけない所がある。死ぬ前に絶対にいきたいの。」と頻りに言うようになった。ある日、美鈴さんは許可なく夜に外出して、道中で倒れている所を発見された。大事には至らなかったが、死の影が近づいてきているのは明らかだった。

「ごめんね。あたし多分ゆいちゃんに何度も同じことを言ったり聞いたりしちゃっているのよね。」

「気にしないでください。美鈴さんが楽しそうに話すので、同じ話だろうと何回聞いても、私は楽しい気持ちになれるんです。」

「ありがとう。そしたら今日は私の、宝物の、大好きなお話をしていいかしら。」

宝物の、大好きなお話とはなんだろうか。今までに一度もその話はされたことがなかったから驚いた。美鈴さんの昔の将来の夢や、家族のことや、一緒に暮らしていた小鳥のことは聞いているが今回はそのどれとも話の始まり方が違う。

「少し恥ずかしいわね。その、私の経験じゃなくて、小さいころに母から聞かされて以来大好きな、言うなれば恋の話よ。でもね、愛は人を人たらしめる一番のものなの。大切なものは目に見えない。時間をかけてだんだんと作り上げていくものなの。ゆいちゃんにそれを伝えたくて。」

美鈴さんは自分の生きた証を残すようにゆっくりと言葉を紡いでいった。

「この物語の主人公が彼に出会ったのは彼女が社会に出て数年たったころ。バスに乗り込んだときに風で飛ばされた帽子をキャッチしてくれてね。名前とお礼を伝えると、彼は主人公の名前をつぶやくの。」

懐かしそうに笑って言った。

「彼女らは詩が好きですぐに意気投合したわ。でも、彼女が彼について何か聞いてみたら『知らない。自分が誰なのかわからないんだ。』なんていうの。最初はからかわれているのだと思っていたけれど、どうも違うみたいでわかった。その人は病院から逃げ出してきたばかりで、何かしらの事故で以前の記憶をなくしていたのよ。」

私は面白そうな物語の始まりにわくわくした。

「彼に以前の記憶がなかろうと彼女たちには関係なかったわ。あるのは未来だけ。二人は日々の楽しいことも辛いことも乗り越えて、貧しかったけれども一つ一つの暮らしに耳を傾けることが好きだった。それだけで幸せだった。結婚するはずだったわ。」

「はずだった…?」

美鈴さんは変わらずに木漏れ日みたいな微笑みをした。

「そこに彼の婚約者が現れたのよ。彼が記憶を失くす前のね。ずっと彼のことを探していたみたい。主人公は彼のこと想っていたけれど、彼と彼の元婚約者が会うことを許したわ。でも願っていた。彼の記憶が戻らずに自分といる未来よりも、記憶が戻ったとしてもきっと彼は自分との未来を選んでくれると。」

「彼は婚約者のもとへ行ってしまったのね。」

「そうよ。彼は、本当はお偉いさんだった。記憶が戻った彼はけろっと主人公のことを忘れてしまうの。主人公は悔やんだわ。どうして彼の元へ行って『行かないで』と、もがかなかったのか。でも、愛するがゆえの別れというものはあるのよ。主人公にとっては彼がちゃんと暮らしていけるならそれでよかったの。でもね、後日談だけれど、貧しい彼女の家に届けられた物資は彼が送ったものだったみたい。主人公のことをすっかり忘れたわけではなくて、家柄の厳しい規則を守るために主人公とは縁を切らなければならなかったのよ。」

あまりすっきりしない結末に私はどう反応したらいいかわからなかった。

「あたしがこのお話が好きなのはね、前を向くということは過去と出会うことだって教えてくれるからなのよ。彼が記憶を取り戻した後で何を選択して前へ進んだか。そして、主人公の方も悔やんだ過去を乗り越えて今があるの。歴史も同じでしょう。まっすぐ前を向けるようになると過去が前から現れてくることに気づくわ。やっぱり過去を乗り越えないと先には行けないと思うの。その中でも特に、愛は人を成長させるし、人を支えることができる。

それとね、喜びや幸福を人生のすべてにする必要はないわ。悲しみや辛さを糧にして生きてもいいの。ゆいちゃん。あなたはあなたのままで、完璧にならなくていい。優しい人でいてね。優しい人は辛いけれど大丈夫。あなたの優しさに気づいた人の手を信じてみて。あなたは一人じゃないの。すてきな人に出会えるわ。人が寂しいと思うのはきっと、誰かに出会うためだから。」

その日の午後はあの日のように風が吹いた。



 美鈴さんが亡くなってから数日が経った。遺品整理のお手伝いをご家族からお願いされて、ベッドのまわりの荷物や棚の荷物を確認していた。もう夜も遅くになってしまった。引き出しを開けると古びた日記が入っていた。美鈴さんから、「私が空にいった後に見てね。」と前に言われていたことを思い出す。中身を開けると最近の記述はなく、昔に使っていたものらしかった。そして最初のページを読んで息をのんだ。

『あたしが誠さんに出会ったのはあたしが社会に出て数年たったころ。バスに乗り込んだときに風で飛ばされた帽子をキャッチしてくれた。名前とお礼を伝えると、彼は『みすず…』とつぶやいたの。』

「…誠さん?」

そして四つ折りにされた小さな紙きれを見つけて開いた。

『ゆいちゃんへ。メモの裏に書いてある場所に。』

紙切れを裏返して地図を見た私は、コートを抱えて真夜中の冬の中に飛び出した。走って、走って、走って。体が熱くなる。

「…着いた!!」

そこは私のおじいちゃんのお墓だ。ここが多分、美鈴さんが言っていた、行かなくてはいけない所、そして死ぬ前に来た所なのだろう。私はここのお墓ができてから一度しか来ることができなかった。朝日が昇り始めていて、置かれた一通の手紙が光を反射する。私は震えた指で手紙を開けた。

『ゆいちゃんへ。ずっと言えなくてごめんね。あなたにした恋の話はあたしのことで、相手はあなたのおじいさんです。あなたがあの人の孫だってことは、あなたに初めて出会ったときにすぐ気が付きました。とても慕っていたのね。あたしは正直、あの時の決断を後悔していて前に進めなかった。だけどね、今は違うわ。あなたに出会えたのだもの。私の選択には意味があったんだって思えるの。過去に縋っていたあたしは、あなたに出会えて今を精一杯生きることができたわ。私の止まった針を動かしてくれて、ありがとう。次はあなたの番。精一杯生きなさい。』

それからの冬は、目も体も心も熱かった。



春が来る。私は前に進むように、少しずつ忘れていた過去の記憶を取り戻していった。私にはお守りの言葉がある。

『私と、小鳥と、鈴と。』

手を差し伸べてくれる人と、家族と、そして彼と。

私にもう一度、人を信じる勇気を。

桜の咲く正門を抜けて、教室へ。

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