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映画評|きみはぼくの希望「牯嶺街少年殺人事件」エドワード・ヤン

 


少年は少女にであえるか


「きみはぼくの希望だ」と訴える少年の前に数秒後、刺されてうずくまる少女がいる。自分がやったことに動転し、「立て、立つんだ、きみにはできる」とよぶ少年の声はふるえている。少女は14歳で命を終え、少年は刑務所におくられる。


台湾の夏は暑い。色をとばす夏の日差しと、夜の海のようにゆらめく藍色の闇が、まばたきのように連なっていくひと夏の期間には、つねにじっとりとした湿気がつきまとう。60年代の台湾は、反政府の疑惑がかかれば徹底して弾圧される、国民同士の監視と密告を強いる時代であった。


ボーイミーツガールのかたちをそなえた本作において、ついにボーイはガールにむきあうことができない。主人公である少年シャオスーは、少年たち、ひいては(男性の支配する)社会のなかで、自身のアイデンティティの確立に向け葛藤していく。その過程で訪れる「恋」は、少年ー男性の構築する社会への反抗・逸脱の可能性を秘めた反社会的なものとして、少女の登場により目の前をひらめいていくが、少年シャオスーは少女シャオミンに最期まで「会うこと」ができずに終わる。


思春期を迎える彼の前途を引き裂くのは、「少年―男性」のふたつの型である。ひとりめは、恋するシャオミンの恋人である不良グループのリーダー、通称ハニー。シャオミンをめぐる決闘の殺人で一時身を隠していた彼は、命をかけて女を守る(所有する)男だ。海軍セーラー姿が目をひく人望の厚い彼に、シャオスーはつよいあこがれを抱く。その後の抗争で亡くなる彼から(所有を)受け継ぐかのようにシャオミンとつきあいはじめるシャオスーにとって、「いかにハニーのようになれるか」という壁が最後まで立ちはだかる指針となる。

そんなあこがれの男ハニーと正反対の人物、シャオマーは将軍の一人息子だ。ツケで食いつなぐシャオスー一家とは天と地ほどもちがう裕福な家庭の生まれで、不良にも先生ら大人にも「権力者の息子」として一目置かれている。友人関係をつづけながらもシャオスーが彼と決裂せざるをえないのは、彼のシャオミンに対する態度である。自分の女のために命をかけるハニーに反して、シャオマーは「女」のことで「兄弟同士」が争うのはナンセンスであるとし、シャオミンへのちょっかいを責めるシャオスーに対しても、「ただの遊び」だととりあわない。少年シャオスーは、少女シャオミンをめぐるふたつの立場に引き裂かれ、彼女に「むきあう」ことができない。



監督と女優/遊戯と演技

 

物語のなかでキーとなるのが、彼らが通う学校近くの映画スタジオだ。もぐりこんでのぞき見する男性監督と女優のやりとりが、その後のシャオスーとシャオミンが至る事件を暗示するかのように現れる。

少年らと同年代のシャオミンは、病気の母と住まいを転々としながら、唯一の親戚の家にも、学校の女子クラスにも居場所がなく、多くの少年や時に成人男性に好意を向けられながらも、「誰もあてにできない」と冷めた目線で自身の過酷な状況を生き抜く少女だ。彼女は少年同士の力関係の網目のなかで「なわばりの女」「だれだれの女」など、所有の一項目と捉えられ、「なわばり外」「だれだれ以外」といたところを目撃されれば少年同士のトラブルの発生源となり、また、彼女をふくめた少女は時に、少年ら「兄弟同士」の絆が優先される関係のなかでの「お楽しみ」とされる。念願かなってシャオミンとむすばれるシャオスーは、ハニーのように彼女をめぐる少年同士の所有の争いに入っていくことを躊躇するが、シャオマーによって彼女が「あそばれている」ことを知るにつけ、凶器を手に少年同士の争いへと参入していくこととなる。
しかしそれは結果的に悲劇の形で阻止される。シャオマーとの決闘の前に、シャオミンに見つかって止められ、ラストの事件が起こるのだ。


そう考えてみれば、ラストのシャオスーとシャオミンのはちあわせは、シャオスーにとって、少年同士の所有の争いから抜け出る契機であったとともに、恋という「反」社会的な力に接近する契機でもあったように思う。それは、少年-男性の構築する社会に対し、型によらずに自らを確立する道をひらくことのできる契機でもあったはずだ。

スタジオでの男性監督と、彼に愛想をつかして去ってしまう女優のやりとりは、このラストのふたりのやりとりと呼応する。あこがれの男、ハニーになろうとし、「ぼくがハニーだ。ぼくがきみを守る」と訴えるシャオスーに対し、「わたしを変えようとしないで」と言ったシャオミン。少年の提示する物語に沿って役目を演じようとしない少女は、その直後に思い誤って刺されてしまう。

ここで少女の命を奪う刃物と対照的に浮かび上がるのが、映画中盤、拳銃の誤発砲のシーンである。ラストと対照的に、少女が少年に銃口を向けるその場面には、明らかなちがいがある。シャオミンの拳銃は、シャオスーが一人遊びでしていたガンマンのふりの真似であった。シャオミンはわらいながらシャオスーをねらうふりをし、シャオスーもわらいながらあっちへこっちへ行き来しふざけあう。怪我につながらなかった少女の拳銃と、彼女の命を奪った少年の刃物のちがい、それは「相手との遊戯」と、「相手に指示する演技」のちがいである。



懐中電灯と刀/恋のきっさき
 

シャオスーは事件の直前に訴える。「きみはぼくの希望だ」。その直後に自らの手で殺してしまった「希望」とはなんだったのか。

恋敵シャオマーをまちぶせ、刃物を留めていた彼のズボンの金具には、かつて懐中電灯がささっていた。それはシャオスーが物語の冒頭にスタジオから盗み、先生に問い詰められてもしらばっくれて持ち続けた懐中電灯である。それは不良グループの殺し合いの抗争や、父が信頼していた同級生から裏切られて受ける拷問まがいの取り調べなどから映し出される、不穏な社会の暗がりを照らす光源として、印象的に彼らの現実の台湾の夏の夜々を照らしていた。その懐中電灯はラスト、スタジオに忘れ去られ、代わりに恋人を殺してしまうことになる凶器へ変わってしまう。


シャオスーが葛藤していたのは恋人シャオミンとの関係以上に、いかに自分を確立していくかというアイデンティティの問題である。あこがれの男、ハニーになることと、彼のかつての恋人であったシャオミンとむすばれることは、シャオスーにとって共に自己確立のために乗り越えるべき壁だった。しかし、実はシャオミンはハニーのこともシャオスーのことも信用していなかったという言からわかるのは、たとえあこがれの男になれたとしても、シャオスーはシャオミンと本当の意味でむすばれることはなかったということではないだろうか。


自分ではない誰かになりきることで、恋する者と向き合うことは可能か。シャオスーは、自分が自分の目指す「男」であることをシャオミンに肯定してもらうこと、それを「希望」と呼んだ。しかしそれは「希望」ではなく、恋した相手を死に至らしめるものへと変わった。シャオスーの呼ぶ「希望」は、少年たちが殺し合いの勝ち負けによって押し付ける正しさや、シャオスーの父が受けた意図しない記述を強制する暴力と底でつうじるものである。スタジオの監督が、オーディションに呼んだシャオミンを「自然な演技」だとほめたことに怒るシャオスーの姿には、父が心を病む原因としての背景――戒厳令がしかれ虚偽の密告や収監が横行し、信頼関係がことごとくひきちぎられ、演技を真実としなくては生き残れない時代状況が重なるようだ。


冒頭とラスト、このうだるように熱い夏の日々をはさみこむように流れるのは、ラジオの受験合格者名だ。淡々とアナウンスされる「選ばれし人々」は、心を病む前の父がくりかえし息子に目指すべき方向として説いた、努力で報われる人々ばかりではないことが、この物語をとおして自明となり、残酷に響きわたる。シャオスーは懐中電灯を手放して刃物を持ったが、それでもまだそこには希望が残っていたように思う。しかしそれは「少女」シャオミンではない。希望はシャオスーのなかにあったのだ。闇にみえる社会でも、懐中電灯のように先を照らす「目」があれば、そこには希望があったはずだと思いたい。

そうして、あこがれの誰か、目指すべき誰か、選ばれし誰か、勝者である誰か、ではない、ほかのだれでもない己の目で、恋した相手と向き合えば、そこに自分を見返す「目」を発見することができたのではないか。相手の瞳からこの闇がどのように見えるのか、ふたつの異なる目があればどのように闇を照らすことができるのか。その先をまなざすことが、きっとできたのではないか。その道は、どんな闇にも対抗する力をもちえることのできる「恋」、人と人が恋したときに起こしうる社会を翻すこともできる力、その存在のきっさきを、この236分の忘れがたい映画体験のあと、確かに見た、彼らは逃してしまったけれど、それは確実にふたりのあいだに一瞬ひらめいていたと思わざるをえない。


牯嶺街少年殺人事件
エドワード・ヤン(楊徳昌)
1991年/236分/台湾
原題:[牛古]嶺街少年殺人事件 A Brighter Summer Day
配給:ビターズ・エンド
日本初公開:1992年

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