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【柳下さん死なないで】赤い車と、身体性の拡張について

このあいだ、すごい豪雨の日に東京に行った。

東京駅日本橋口のスターバックスで熱いコーヒーと平べったいクッキーを買い、紙袋に提げて外へと続くドアを開けると、横殴りで雨が降っている。柳下さんが車で迎えに来てくれていると言うが、あまりにすごい勢いだったので、先がよく見えない。目を凝らして見ると、すぐ近くに赤くて小さな車が停まっていることがわかった。前に友人のSNSで見たことがあったので、「あ、柳下さんの車だ」と思い、傘をさして身を縮こまらせながら、猛然と降る雨の中を車に向かって駆けていった。

その車は本当に小さくて、ドアが前方にひとつしかなく、車体も低い。開けようとしたもののどうやって開けるかわからず(ひっぱっても開かないのだ)、こんこんと窓をノックした。すると運転手にいた柳下さんが助手席に身を乗り出し、中からドアを開けてくれた。その後もわたしは助手席側のドアを開けることが一切できなかったので、多分中からしか開けられないのだと思う。それが壊れているからなのか、そういう仕様なのかはわからない。

車の中に乗り込むと、柳下さんは「おかえり」と言った。わたしの家は京都にあり、東京は仕事で来るところだから、実際には「おかえり」ではないのだが、そう言われるとここにも自分の居場所があるのかなという気持ちになる。「ただいま」と照れて返しながら、それをごまかすためにコーヒーとクッキー半分を渡した。

まずコーヒーを置く場所がこの車にはなかった。
「ごめんね。こいつ、コーヒーを置く場所がないんだ。ここにこうやって置いておこうか」
そう言って柳下さんは、運転席と助手席の間に、スタバで紙袋にコーヒーを入れるときにもらった、カップを自立させる箱みたいなもの(名前がわからない)を置いた。そこに自分のコーヒーを置き、がこんがこんとギアを入れながら、車を発進させた。

わたしは、コーヒーがこぼれてしまわないようにとっさに自立箱を押さえる。そしてシートベルトをしなきゃと思い、肩のあたりを空いている手でさぐったのだが、そこにはシートベルトらしきものは何もなかった。
「シートベルト、ないの?」
そう尋ねると柳下さんは、
「そう、ないんだよ。こいつは、道路法が改正される前に走っていた車だからね」
と言う。それがいつのことなのかわたしにはまったくわからないが、すごく昔だということはわかった(今調べたら1965年。50年以上も前だ)。

「この車、どうしたの?」
「先輩から譲ってもらったんだ。いいでしょう?」
嬉しそうに柳下さんが言う。「いいね」とわたしは返したが、正直なところ車のことはよくわからない。車種名はおろか、スズキだったかスバルだったか、メーカーの名前すらわからないのだ。ただ、その車は小さく、赤く、古く、乗り込むとガソリンの匂いがした。冷暖房はなくて、「エンジンがあったまると、その熱で中もあったかくなるよ!」と柳下さんが言った。夏は窓を開けるんだと思う。

走り出した車は、子供の頃デパートの屋上で乗ったゴーカートみたいだった。「わ、動いた動いた」と思わずわたしは言った。地面のアスファルトの感じが、すぐお尻に伝わってくる。柳下さんはギアをこまめに入れ替えながら、東京の道路を立派に進み始めた。

大雨で、外は寒かったので、フロントガラスの全面が曇っている。片方だけしか動かないワイパーが外側から必死に窓を拭き、中側からは柳下さんがこまめにタオルで湿気を拭いた。助手席のほうのワイパーは、びくっびくっと痙攣するだけで瀕死の状態だ。だからわたしは目の前の景色が一切見えず、ものすごく不安だった。

こんなに古い車でも、ちゃんと車検は通っているらしい。フロントガラスの左上に貼られたシールを見て、「車検、通っているんだね」と呟くと、「そうなんだ、すごいでしょう?」と柳下さんは自慢そうに言う。「うん、すごいね」と答えて、あとはじっとしていた。動いたり喋ったりしたら、この車がどうにかなってしまいそうな気がして。

緊張しているわたしの横で、柳下さんは音楽をかける。とてもいい音が聴こえてきたので「カーステレオがあるの?」と驚いて聴いたら、フロントポケットの中を指差された。Bluetoothのスピーカーが入っているのだ。それはそうだよな、と自分の愚かさを呪う。

柳下さんは運転がうまい。これまでにもカーシェアリングの車にいろいろ乗せてもらってそう思っていたが、今回の件で改めてそう思った。この雨の中、東京駅周辺の道を、まだ手に入れて間もないこの古い車で走れる人は、どれくらいいるんだろう。しかも、しきりに運転席の窓を拭きながら。

以前、柳下さんにこんな話をしたことがある。一概には言えないが、女性にとっての「物」と、男性にとっての「物」は、少し違う意味合いを持つ気がする、と。
服を例にとってみると、女性はいかに自分の外見の魅力を引き出せるかを重視するような気がする。服は女性本人の魅力を引き出すものであり、体に寄り添い、より良い方向へと導くものだ。服は女性に取り込まれ、吸収される。一体化するイメージ。
それに対し、男性はなんだか武器っぽい。防寒がどうの、ポケットの数がどうの、軽量性がどうのと、機能を重要視する人が多いような気がする。だから男性の場合、服を吸収するのではなく、服を装備する、というイメージに近い。がしゃん、と音をたてて、武器が体に装備される感じ。

その話をしたのも車の中でだった。柳下さんは、「おもしろいね、わかる気がする」と言った。「君の言う『男性』が求めているのは、身体性の拡張なのかもしれないね」と。

「武器とか乗り物とか機械とか、男の子が好きなものはすべからくそう言えるかもしれない。身体性を拡張し、できなかったことをできるようにしてくれるもの。速く走れたり、空を飛べたり、難解な数式を瞬時に計算できたりするのって、最高でしょう?」

ふうーん、とわたしは言った。
「あれ? あまりわからない?」と柳下さんが笑う。

「いや、価値があるのだろうなというのはわかるけど、わたしはそれをあまり求めていないのだと思う。速く走れなくても、空を飛なくても、それが人間なんだから……と諦めている感じかな? そうしたいと思うことすら、多分しない。おこがましくて」
「興味深いね」と柳下さんが言った。
「世界が女性ばっかりだったら戦争は起こるのか問題、だね」

赤い車に乗りながら、そのときの話を思い出した。
柳下さんは今、50年以上前の車に乗って、2019年の東京の街を走っている。手や足を目一杯使いながら機械を動かし、時間を超えて、空間を移動する。
わたしは自分が今どこにいるのか、よくわからなくなった。50年前の東京はどんなだったんだろう。まだわたしが生まれていない、柳下さんだって生まれていない頃の東京は。

すっかり黙り込んだわたしを、柳下さんが「大丈夫?」と気遣う。
わたしはその顔を見ながら、「この人はなんでもできると思っているのだろうな」と思った。決して呆れたり非難しているのではなく、ただ感嘆すべきこととして驚いていた。だから「おかえり」なんて言うのだ。この人は、どこだって自分のホームにしてしまう。それだってひとつの身体性の拡張だ。

柳下さんが操縦するハンドルを見つめながら、「身体性の拡張かぁ」と思う。多分わたしが諦めているだけで、その気になればできることってたくさんあるのだろう。そして世界は、それを諦めなかった人たちのおかげで進歩している。

なんだかしみじみしながら車を降りると、コートの裾がびしょびしょになっていて驚いた。車のドアに挟まって、ずっと外に出ていたらしい。
柳下さんがそれを見ておかしそうに笑った。
「君は本当に、相変わらずだねえ」
彼のその言葉にも、呆れたり非難したりの響きは含まれていない。感嘆すべきこととして、びしょぬれになっているわたしのコートを眺めている。

柳下さんは「あ、そのままちょっと待って!」と言ってもうひとつの「身体性の拡張」であるカメラを取り出した。そして、まるでめずらしいものでも見るように、ばしゃばしゃとわたしの写真を撮るのだった。


https://www.instagram.com/p/B4DDZHVj7g2/

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【告知】
そんな柳下さんと、トークイベントをします。

10月に出た長編小説『戦争と五人の女』、初の刊行記念イベントです。
京都四条烏丸にあるハミングバードブックシェルフさんにて、担当編集の柳下さんと、ハミング店長の山下さんと3人でお話します。

この小説がどういうふうにできたのかや、ふたりで立ち上げた出版社・文鳥社についてなど、いろいろな話を交えながら、まだお読みでない方にも何かを持ち帰っていただけるような時間にできたらなと思います。

京都で出版記念イベントをさせていただくのは、これが初めて。
自分の住んでいる街だからこそ、とてもどきどきします。

絶賛受付中。きっと楽しい時間になるので、ぜひ遊びに来てください。

□ 内容
+ テーマ「土門蘭・柳下恭平による対談トークイベント、サイン会」
12/8(日) 17:00(開場16:30〜)
 
+対象:対象書籍をお持ちの方(当日購入可。他店で既に書籍購入の方も可。)『戦争と五人の女』文鳥社2,200円(税別)
 
+申込方法:店頭、もしくはお電話(075-746-5666)かメール(bookordie@hummingbird-bookshelf.net)にてお申し込みください。

+定員:40名

+場所:HummingBird Bookshelf 四条烏丸店 店内
 
※申し込み時、整理券をお渡しいたします。整理券と書籍をご持参の上、ご参加ください。サイン会はイベント申し込み時の整理券番号順となります。
※メールでのお申し込みの際は、件名「イベント申し込み」、本文「お名前」「ご連絡先」「参加人数」を記入してください。こちらからの返信をもって受付完了と致します。3日いないを目処に返信致します。万が一、返信がない場合は、お電話でご連絡いただきますようお願い致します。
※サイン会のみのご参加はできません。

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