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与えられるものこそ、与えられたもの〜GIVEとかTAKEとかについて思ったこと〜

最近、周りでギバー(GIVER)とかテイカー(TAKER)といった言葉を聞く機会が増えてきました。
人と人が関われば、お互いの主観や、一歩引いてみた人の客観でいろいろな見え方がするんだろうなあと思いつつ、ちょっと私なりにGIVE&TAKEについて考えてみました。

まずは本を読む

「GIVE&TAKEといったら、この本でしょう」ということで読んでみました。

タイトルの通り“「与える人」こそ成功する時代”ということで、この本では人間をギバー、テイカー、マッチャーの3種類に分けています。

タイトルを見るとギバーが成功しそうだと思います。
しかし単に与えるだけの人は成功せず、テイカーにとられるだけとられて疲弊してしまい、奪われ続けるだけ、とのこと。(悲しすぎる)

だからちゃんと自分の自己主張をして、とられるだけじゃない人にならないといけない、というのが大雑把な趣旨です。(こういうところでもアサーティブであることは本当に大切だと思います)

と、人を3類型に分けることを思っていたら、むかーし読んだこちらの本を思い出したのでパラパラと再読。

マーケティングを教わった先生に勧められた一冊。
この本でいいたいことは、株と性産業と葬儀業という3つの仕事に関わった著者からすると、お金、セックス、死に携わるとき人間の本性が出る。その本性をとらまえて相対すれば、ギャンブルで負けることはない、と。

これはギャンブルに限らず、極限状態に追い込まれたらそれが人間の本性として出てくるから、ビジネスにも応用ができると序文に書かれています。

なるほど、たしかに巡航モードのときには仕事でいい人が、ちょっとしたトラブルに陥ったときに「ええええ〜〜〜〜」ってなること、ありますよね。そういうときに人から奪って乗り切るのか、自分が犠牲になるのかの違いがこの本からは読んでとれます。
(ただ全ての人間を◯◯症と分けることには抵抗がありますが)

でも、簡単に3分割できます?

100%ギバーな人がいないように、100%テイカーな人っているんだろうか?

いたら相当ヤバくて社会生活できていないんじゃないかな、と思ったり。
状況によってっ人はテイカーになったりギバーになったりする、そんなに損得勘定なしに。(GIVE&TAKEでいうところのマッチャーとも違う感じがする)

そんなときに藤井風さんの「帰ろう」を聞いていたら、こんな歌詞が。

与えられるものこそ、与えられたもの

藤井風「帰ろう」

人が与えられるものこそ、与えられたものというのはすごくしっくりです。

TAKEしかできない人は、与えられたものに気づいていなかったり、与えられても底が抜けていて通り過ぎてしまって不感症なのかもしれない。

そして奪うものは奪われたものなのかもしれない。
悲しいことだ。

GIVEしたおす人は、自覚、無自覚は問わずに与えられたものがたくさんある人なんでしょうね。

あの人はGIVER、あの人はTAKERと分けられる人はなんなんだろう?
与える、与えられるに敏感ということはマッチャーなのだろうか?とられることに敏感ならば隠れTAKERなのだろうか。

TAKERにやられないために枠を決める

「GIVE&TAKE」にかかれていたTAKER対策の一つ、ボランティアを年間100時間とする、というマイルールはとても納得だし実行しやすいです。

私は会社を立ち上げてから、「これはお手伝いしてあげたいなあ」、という非営利な取り組みやスタートアップ的な活動を見ると、ボランティア枠を使うようにしています。(とはいえ、幾ばくかはいただきます)

100時間/年というキャップをどう使うかは自分の裁量。
心から応援したいとおもう活動に、自分の時間的な負担がかからないくらいで行うのがちょうどいい。
100時間/年を超えたらやめればいい。

「私そういうルールなんで」といえばいい。

普通に人の考えを尊重してくれる人なら「そうなんだ」と引き下がるはず。
そこで「なんで私のために動いてくれないんだ!融通が利かない!」という時点でTAKER確定なので、リトマス試験紙代わりにもなります。

100時間と決めていれば、TAKERにとられるもの年間100時間が限度で、それを超えることはない、という安心感にもなる。

1年間の時間は365日 x 24時間=8,760時間。

100時間は人生の1%くらいを持っていかれると思えば、爪の先くらいの感覚でいられる。(それでも精神的に嫌な人もいるかもだけど)

そして「ああ、この人は奪うだけだ」と思ったら、その後、手伝わなければいい。(そういう人とはお金をもらっても一緒にいてはいけない)

与えられたものに敏感になる

結局のところ藤井風さんの歌に戻るのですが、大事なのは普段から「与えられたもの」に敏感になることかなと思います。

なにもかも“当たり前”と思ったらいけないな、と。
そう考えるとおばあちゃんが教えてくれた「ありがとうという気持ちを忘れない」はとても大切だ。

そして「ありがとう」と思ったら、だれかにそれをする。
シンプルだ。
非常にシンプルじゃないか。

奪われてばっかりだと思う前に、何を与えられて、何を与えられるだろうか?と問い直してみるのもいいかもですね。

最後に再び藤井風さんの「帰ろう」の最後の詞から。

憎み合いの果てに何が生まれるの
わたし わたしが先に 忘れよう

藤井風「帰ろう」

奪われたばっかりだ!と憎むだけでなく、忘れる、離れるが大切だなと私も思いました。(なかなか忘れられないけどね)

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