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ある日の外出

「どこに行きたい?」
 翔太に訊くと、遊園地、と答えが返ってきた。どうせ行くなら、人込みを避けてゆっくりと楽しみたい。そんな思いで平日を狙ったはずが、来てみると、この混み具合だ。どのテーブル席にも人がいる。それも翔太と同じ園児くらいの子供がたくさん。七月も終わりに近い。ひと足早い夏休みに入った幼稚園や学校があるのかもしれない。
「もっとぐるぐるしたかったのに」
 翔太がハンドルをまわす仕草をしながら言った。いつもなら目立ってしまう元気な声も、ここでは声や物音や音楽に馴染んで気にする必要がない。
「あれ以上まわされたら、お母さんの目がまわっちゃうから」
 そう言うと、洋子はくすりと笑った。このレストランに入る前に、三人でコーヒーカップに乗った。ゴーカートは車を思いだすからと嫌がっていたが、同じ乗り物でも見た目が違うコーヒーカップなら大丈夫だったようで、翔太は最初から最後まで壊れたおもちゃのように笑いながらハンドルをまわしていた。
「ここを出たら、次はどうしようか」
 そう訊いて、僕はアイスコーヒーを飲んだ。
「二時過ぎにショーがあるって聞いたけど」
「ジェットコースターがいい!」
 口のまわりにバニラアイスをべったりつけた翔太が答えた。
 昔から、僕はジェットコースターが苦手だった。それが子供用の高低差の少ない、スピードが遅いものだとしても。ジェットコースターに乗った僕と翔太のシートベルトを、スタッフが確認した。翔太が待ちきれないと訴えるように体を固定する黒いシートベルトを叩いた。僕の手は、すでに汗ばんでいた。
 こんな僕がジェットコースターに乗ろうと決めたのは、この歳になって苦手を克服しようと思い立ったわけではなく、息子の前で父の威厳を保とうと努めた結果でもなく、今日が記念日だからだった。翔太が僕と洋子の前に帰ってきてから一年になる、その記念日だ。
 スタッフのアナウンスに合わせて、ジェットコースターが動きはじめた。よりによって、僕たちは先頭だった。赤い新幹線のような丸みのある車体がゆるやかな坂を上っていく。足元から恐怖をあおるように、がたがたと鈍い音がする。僕の隣で、翔太が興奮した声を出していた。
 これで喜んでくれるのなら。そう自分に言い聞かせたけれど、いざ坂を下りはじめると、その言葉がすっ飛んで、頭の中がまっ白になった。
 お化け屋敷、大きく揺れる海賊船、メリーゴーランド、レールの上をゆっくりと走る蒸気機関車、レーザーでエイリアンを撃ち落とす宇宙船。次はあれ、次はこれ、と指さす翔太は生き生きとしている。ここに来てからずっとそうだ。陽射しが強くなって蒸し暑さが増しても、その元気さは変わらない。
 まるで、元気のかたまりだ。僕はベンチに座って、トイレに向かう洋子と翔太を見送った。その元気のかたまりも、一度は砕けてしまったのだ。今では信じられないけれど。
 僕はベンチの背にだらりともたれた。あの日も、この空と同じ、夕方の訪れを感じさせない明るい空だった。僕と洋子と翔太の三人で幼稚園の運動会から帰っていたときに、突然、車が歩道に突っ込んできた。思いだしたくないのに、そう思うほど、ふいに生々しく過ぎってしまう。
 聞きなれた声がして、僕はベンチから体を起こした。人込みの中でも、二人を簡単に見つけられる。長い黒髪と白いワンピース、短い黒髪と緑色のTシャツ。洋子と翔太が手をつないで、こっちに向かっている。あの事故で、翔太は死んだ。死んだはずなのに、帰ってきた。一年前、寝室のベッドで眠る僕と洋子の間に裸の翔太が眠っていた。僕と洋子は困惑した。失ったはずの宝物が、急に戻ってきたのだから。
「そろそろいい時間だし、次で最後にしようか。なにがいい?」
「ジェットコースター!」
 翔太の答えに、僕は苦笑した。またあれに乗るのかと思うと、げんなりしてしまう。
「ジェットコースターには乗っただろう。だから、あれはどうだ?」
 僕は園内の奥にある観覧車を指さした。
「えー、ジェットコースターがいい」
「よく見て、あんな高いところまで行くのよ? もしかしたらウルトラマンと同じ高さになれるかもしれないのに」
「えっ、ウルトラマン!」
 洋子の言葉が魔法のように効いたのか、翔太の大きな瞳が輝いた。
「じゃあ、あれにする!」
 翔太の返事を聞いて、僕は大きくうなずいた。
 最後のアトラクションとして選ばれやすいのか、観覧車の前には列ができていた。陽射しが落ち着いた薄墨色の空に、赤と白のゴンドラ。ゆっくりとまわる雪の結晶のような鉄骨。
 ゴンドラの中は冷房のおかげで涼しかった。それでも、窓ガラスには太陽の熱がしっかりと残っていた。
「夢みたいね」
「なにが?」
「こうやって、三人でいられることが」
 僕の問いに、洋子がそう答えた。翔太は窓ガラスに額をつけて、静かに外を見ていた。
「こんな日は、もう二度と来ないって、そう思っていたから」
「僕もさ。翔太が帰ってくるなんて夢にも思わなかったし、あのときはびっくりしたよ」
「私は、それを二回も経験したんだから」
 洋子は遠い日を思いだしたように、くすりと笑った。
 翔太が戻る半年前に、僕はこの世界に戻ってきた。僕はあの交通事故で、翔太と一緒に死んでいる。もちろん、それを知ったのは、この世界に戻ってからだった。僕が覚えているのは、車と衝突した瞬間の痛みと衝撃、そこからは風の音すら聞こえない暗闇が続いて、気づくと、自宅の寝室のベッドで横になっていた。洋子は僕の隣で眠っていた。何が、どうなっているのか、僕は混乱するばかりで、洋子なら何か知っているかもしれないと思って起こしてみると、僕を見るなり、ほとんど悲鳴のような声を出して驚いていた。当然だ。死んだはずの夫が隣にいたのだから。ただ、驚いたのは僕も同じだった。洋子に教えてもらうまで、自分が死んだ存在なのだとは考えもしなかったのだから。
「あの日、僕に気づいて、幽霊だと思った?」
「ええ。でも、すぐに違うってわかった」
 僕の問いに答えるように、洋子が腰を浮かせて、めくれていたらしい僕のワイシャツの襟を直した。もし僕が幽霊だったら触れられないはずだから。それが洋子の答えだった。たしかに僕と翔太には肉体がある。車に轢かれて潰れたはずの体には傷跡すらなかった。肌にはぬくもりがあって、心臓も動いている。死ぬ前と何一つ変わらない。だから幽霊じゃない、というのが、洋子の主張だった。
「もし僕たちが幽霊じゃないなら、なんだと思う?」
「幽霊じゃないなら、私が見ている夢なのかもしれない」
 洋子は座席に腰を下ろして、僕の質問にそう答えた。
「もし夢なら、いつかさめちゃうね」
「だったら幻がいい。幻なら夢と違って、目が覚めてもそのままだから」
「どうだろう。幻は幻で、いつか消えてしまいそうだけど」
「どうしてそんな悲しいことを言うの?」
 洋子は泣く前の子供のような目で僕を見た。
「怖いんだ。またいつ自分がいなくなるのか、わからないから。こんなこと、死ぬ前まで考えもしなかったのに」
 そう答えて、僕は苦笑した。この世界は洋子が見ている夢なのかもしれないし、僕と翔太だけが幽霊か幻なのかもしれない。僕と翔太がどういう存在なのか、その答えは考えれば考えるほどわからなくて、まるで僕たちがこの世界にいてはいけない存在なのだと、そう告げられているように思えて嫌になってしまう。
「だから今は、三人が一緒にいる、その事実だけがあればいい。その事実があれば、少なくとも、三人でいる間はほっとしていられるから。なっ?」
 そう言って、僕は翔太の頭をなでた。翔太の短くて艶のある髪は、触れるだけで壊れてしまいそうなくらいなめらかだった。
「えっ、なに?」
 翔太が不思議そうに振り向いた。どうやら景色に夢中で聞こえなかったらしい。
「いや、なんでもない」
 僕が笑って答えると、翔太は怪訝そうに首をかしげて外を眺めはじめた。
 ゴンドラから下りると、園内には明かりが灯っていた。うす暗い空気はほんのりと冷たくて、声や物音や音楽が心なしか遠くに聞こえた。
「今日はどうだった?」
 僕は翔太に訊いた。僕と洋子の間で手をつないだ翔太は満面の笑みで僕を見上げた。
「楽しかった!」
「そっか。じゃあ、またみんなで来ような」
「うん!」
 翔太が嬉しそうにうなずいた。その姿を、洋子は微笑んで見守っている。僕たちはつないだ手を大きく振りながら、人通りがまばらになった園内を駅に向かって歩いた。〈了〉

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