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スタートアップを起業してから四年間の振り返り #2

はじめに

こんにちは、株式会社アクシオンテクノロジーズの代表取締役の吉田拓史です。2021年8月いっぱいでスタートアップを開始してから4年が経過しますので、4年間の振り返りをしようと思います。

今回は第1回の続きで、プロジェクトを運営し始めた〜2017年9月頃の状況を振り返っています。プロジェクトの立ち上がりやシェアハウスでの楽しい日々の振り返り、そして投資家やIT企業の使者で構成された呉越同舟チームができるまでの顛末について思い出してみましょう。

6. シェアハウスから引っ越し

起業に伴い、引っ越しをすることになった。2015年5月に日本に帰ってきて、一時的に埼玉県の実家に住んだが、実家には色々課題があり、その後は、たまプラーザのシェアハウスに住んでいた。職場の渋谷には東急田園都市線で一本でたどり着くことができたが、田園都市線があんなに混むものだとは知らなかった。

そのシェアハウスはもともと企業の寮を改造したものらしく、部屋数は100を超える大所帯だった。40%の部屋は主に欧州からの留学生のために貸されており、残り20%が日本で就労している外国人、残りが日本人というような構成だった。

留学生は3ヶ月に一度程度の周期で入れ替わった。彼らは基本的には大学進学の合間に日本に「語学留学」の名目で来日してモラトリアムを享受する人たちだったため、高い頻度で共有スペースでパーティをやっていた。

モラトリアム軍団のパワーは凄まじく、若いときにしか爆発し得ない理不尽さを撒き散らすこともしばしばあり、ちょっとついていけないなと思うこともしばしばあったが、当時は僕も元気いっぱいで、夜遅くまで酒を飲んだり、騒いだり、なんだりかんだりをしていた。

IT企業に務めている外国人ソフトウェアエンジニアのグループは僕にたくさんのことを教えてくれた。インド人、フィリピン人、インドネシア人、同性愛者のフランス人と多種多様で妻や子どもを母国においてきている人もいた。彼らはモラトリアム軍団の数倍大人で人生経験に富んでいるので、話が面白かった。彼らと話していると日本のIT企業の待遇はあまり良くないらしく、彼らが不満に思っていることがわかった。職場の日本人が国際性が欠けており、意思決定から外国人エンジニアを排除したがる傾向があるというようなことも聞いた。「もし僕が会社をやればそういうことにはならないのではないか」と僕は思った。

シェアハウスには欧米人とは一線を引いている日本人オンリーのグループがあったが、こことも仲良くやっていた。よくある奇妙なしきたりを作るのが好きな人や、縄張り意識に囚われ、サル山の頂点に居ないと不快になってしまう人が含まれていたので、適当な距離を置くことにした。

今では誰とも話さないまま1日を終えることのある僕だが、当時はシェアハウスのフットサル大会を主催していて、コートを予約するときには、住人数十人にしらみ潰しに声をかけて勧誘するというようなことをしていた。

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(フロンタウンさぎぬまでフットサル後の記念撮影。わからりづらいですが非常に国際色豊かなメンバーです)

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(神奈川県川崎市宮前区鷺沼のカフェでの記念撮影。わからりづらいですが非常に国際色豊かなメンバーです)

フットサルを終えると、そのまま横浜に遊びに行って、飲酒状態でみなとみらいのジェットコースターに乗ろうとしたら、バレて退出を求められた、という青春具合だった。僕はすでに30歳を超えており、仕事ではみなさんもそうだと思うが、どうしようもなく不快な思いをさせられることも多かった時期だったが、僕は恐ろしいほど頑強性に溢れていて、こころは子どものままだった。

僕は2010〜2015年の間をインドネシアで過ごしたことで、2010年以前の人間関係とは断裂ができていたので、居住空間を生かして人と知り合えるシェアハウスは願ったり叶ったりだった。

インドネシアにいたときも規模は小さいものの学生寮とアパートメントの中間のようなところに住んでいた。今振り返ってみると、この後、事務所に一人暮らし、その後の実家暮らしを経て僕の社交性はかなり低下し、若々しさが薄れたのだが(もちろん加齢もある)、それは居住環境のせいだろう。コロナが一巡したら、いまでも学生寮のような所で暮らしてもいいと僕は思っている(どっかのIT会社が同居者に忍者を仕込まなければの話だが)。人とのインタラクションで人生の幸福感は違う印象がある。

シェアハウスに住んでいたもう一つの理由は、お金を節約することだった。僕は前職に勤める前から少し働いたら起業しようと決めていた。
ここまで読むと、遊び暮らしていた印象かもしれないが、どちらかと言うと、2年間ずっと勉強をしていたという方が正しい。

体調管理にも力を入れていた。土日には、たまプラーザから町田、横浜、川崎に約20キロのジョギングをしていた。特に横浜はお気に入りの街で、ジョギングの後は地元の人しか行かないであろう伊勢佐木町の銭湯に入るのがルーティンだった。日曜日の夕方は、ヤクザの兄弟と一緒になることがしばしばあり、相撲取りがそうするように舎弟が兄貴のすべてを洗ってあげているのを、目が合わないように見るのが、自分の社会学的興味を満たしてくれた。

7. 新宿の新居

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(新宿のマンションでの仕事風景)

移り住んだのは新宿だった。投資家から”派遣”されてきた動画製作者が、動画撮影のためのスタジオになるマンションが必要だと話したため、色々探した。後で詳しく説明するが、当時すでに僕の周りはベンチャー業界に繋がりがある人や、もともとの知り合いが投資家やIT企業がコンタクトを受けて彼らの「代理人」となった人でいっぱいになっていた。彼らの信じる神話として、事務所は都心に構えるべきだ、というものがあり、何度も吹き込んでくるので、まあ素直にのんでみることにした。

不透明性の大家である不動産屋と僕の相性はすこぶる悪く、数業者乗り換えながら、渋谷区と新宿区をくまなく探し、港区も少し探したが、都心に近く安い住居がある一角が、新宿の繁華街から新宿御苑を見て、その真裏となる千駄ヶ谷駅付近だった。

新居は丸ノ内線の新宿御苑と四谷三丁目の中間らへんで、新宿区大京町という場所だった。千駄ヶ谷駅からも近く徒歩5分の位置にあった。そこを事務所兼自宅とした。昼の間はそこで作業し、引き出しの中にしまった布団を出してそこで寝た。

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(新宿のマンションへの引っ越し直後の様子)

近所の代々木体育館にはジムが併設されているのだが、設備は素晴らしく、値段はかなり安かった。千駄ヶ谷駅の裏側はそうでもないが、そこから代々木、原宿、渋谷とつながる一角は多くの富裕層が住んでいる地域だ。そういう富裕層が安くていい公共のジムやプール、体育施設を享受できるのだ。世の中は全然フェアにできていない。

移り住んだ当初は新居での暮らしを非常に楽しんでいた。立地がよく、自転車があれば東京の枢要な場所はどこでもいくことができた。仕事で人に合うときも自転車で行くことができたし、都内で人とお酒を飲んだ後に電車で帰宅するのもあっという間だった。

もちろん仕事は獅子奮迅のごとくやっていたが、それ以外の時間は観光者のような気分で暮らしていた。例えば、海外で5年過ごした僕にとって、新宿歌舞伎町は興味の尽きない街だった。コロナが起きる前、歌舞伎町は外国人観光客の主要な行き先だったが、その理由が僕にはよく分かる。あの街はいろいろなものが混ざり合い、普通の人とアウトローの人々が交差している。多様性があり、流動性が高く、人の回転が早い。酎ハイを飲みながら街を観察するだけでも非常に楽しかった。インターネットには面白い人がいて、歌舞伎町周辺のヤクザのシマを図解し、そのヤクザごとにどのような「状況」があるかを解説してくれている人が居た。それで予習して事務所やヤクザマンション、彼らが経営する商業施設を見学するというようなこともしていた。

こういうアウトローへの興味は長い間自分の中にあったものだった。佐藤優の著書にロシアの政治情勢を知るためにマフィアからも情報を取得していたとの記述があったことから、僕もインドネシアでの取材活動にそれを応用してみると、インドネシア社会の多くのことを学ぶことができた。例えば、テレビで有名な地元環境NPOの代表が環境保全を強く訴えていたのだが、そいつが見知った顔だったので、驚愕したことがある。そいつはジャカルタで最も勢力の強いプレマン(チンピラ、ヤクザの意)の幹部だった。様々な社会正義を訴える市民団体の一部は、ヤクザの隠れ蓑になっていたのだが、そいつは大胆不敵にもテレビ出演して環境保護を訴えていた。環境保護を盾に様々な場所に顔を出し「いろいろなお金稼ぎ」ができるのは簡単に想像がつく。

そいつの親分は、極貧の身から廃品回収業者で身を立てた典型的なアウトローなのだが、とあるイスラム政党のジャカルタ支部を買収し、とんでもない不祥事を起こした後でも、支部長の椅子に座り続けた。その政党が与党入りするためにそれまで所属した政党連合を離脱しようとしたとき、当時の大統領にいくつも利権を潰された親分は、政党内で反対を続け、その政党が隠し持っていたずるい議決手段を行使するまで、与党入りを防ぎ続けるほどの権勢を持っていた。その親分は僕を相当警戒していて、高級車が並んでいた彼の豪邸を訪れたとき、彼はずっと僕を脅かし続けた。

このように様々なアウトローと相まみえてきたわけだ。日本で言う山口組の司忍のような人の家にお邪魔になり飯をごちそうになったし、さまざまな人種(インドネシアは300くらいの民族からなる)を基盤とするマフィアをコンプリートしようともしていた(流石に時間が足りなかった)。

それから「将棋会館詣で」もちょっとした楽しみだった。北参道にOKストアという非常に繁盛しているスーパーマーケットがあったのだが、その通り道に将棋会館があった。AbemaTVで将棋を観た後「今日あそこで対局が行われていたのか」とそこを通るのはミーハー心をくすぐった。千駄ヶ谷のカフェでは、渡辺明名人が対面に座る行幸が起きたし、千駄ヶ谷駅では対局後で疲れているふうな木村一基九段ともすれ違った。ミーハー活動には最適な環境だった。

8. 動画製作は楽しかった

さて、ベンチャーキャピタルからの出資を得るためだけに動画製作を始めたかのような話をしたが、実際には僕はそれを楽しんでいた。

新宿のマンションにはグリーンバックを設置し、ソニーの業務用4Kビデオカメラ「PXW z150」、ソニーのピンマイク「UWP-D21 KB」等のテレビ番組撮影レベルの機材を揃えた。

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映像の編集自体も時間はかかるものの楽しかった。もともとポップ音楽の製作経験があったからだ。音の収録についてはむしろ映像の人より詳しいし、時間をどう編集するか、という観点は音楽と一緒だ。動画の構成を考えるのと、新聞記事や小説の構成を考えることには共通点があった。

大学生のときはこのような音楽を作っていた。

僕の宅録歴はタスカムのマルチトラックレコーダーからスタートし、最終的にMac BookとAbleton Live 7という2010年代から定番化した手法へと進化した。大学卒業後インドネシアに渡って以降途絶えていた。

Ableton Liveの編集画面がこのような感じ。

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で、アドビの映像編集ソフトPremiere Proの編集画面はこのような感じ。

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両方とも、素材を構成し、シーケンスでコンテンツの順序を定める作業手順を踏む。だから、僕は比較的滑らかに動画編集の世界にも着地した。

で、動画編集者の力を借りながらこのような動画を作った。

この動画に関してはほぼ独力で作った。

だから、楽しみながらやっていた。

9. 忍者だらけのチーム

さて、先に少しだけ触れたが、当時のプロジェクトの人間関係は目眩がするほど複雑だった。様々な勢力が何とか僕を自陣に取り込もうとし、様々な忍者を挿し込んだためである。

たくさんの人間が入り乱れたが、主要な登場人物を紹介しよう。とある投資家と関係を持ち、最初に送り込まれてきたビデオクリエイターA、別の投資家筋と関係を持つビデオクリエイターB、さらに別の投資家とIT企業のグループと関係を持つ元VCアソシエイト(最下位の職位)、最終的にベンチャー村の走狗となった古くからの友人、それから大量のモブ勢だ。これらの背後には投資家やIT企業がいるようだった。

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自分としてはこれらを競争させ、その背後にいる投資家やIT企業の中から、もっとも利害関係が一致するものと組めばいいか、くらいに考えていた。幸運なことに僕はサラリーマン時代から、背後関係が複雑な人、敵、人の足を引っ張るのをライフワークにしている人、パワハラ野郎、脳筋、面従腹背の人等、多様な人種と仕事をするのに慣れていた。とても難しい状況を切り抜けてきた。今回の難しい状況だってうまく扱えるだろうと過信していた。実際にはこれは大きな過ちだったことがわかってくる。

一つの重大なコストは、これらの紐付き軍団が、それぞれ異なる政治を持ち込むことだった。彼らには色々貢献してもらい感謝しているが、彼らは彼らの目論見があって協力してくれたわけだ。投資家やIT企業の命を受けているわけで、投資の際にそこに居合わせて、キャピタル・ゲインできゃっほいしようとしているため、縄張りの形成に力を注ぐことも多かった。自分としては投資家の影響力の無力化を図ろうとしたが、基本的に僕には余り信用がなく、難しかった。彼らは僕を理解しようとはせず、ただ「投資家や大企業がそういうから美味しい話になる」ということですり寄ってきているわけであり、扱いに苦しんだ。

彼らが縄張りを作るため色々僕との関係づくりに奔走するわけだが、こっちは彼らの背後にいる人達の意図や性質を探るために彼らとのコミュニケーションの時間を利用していた。彼らは他の投資家の対抗馬を押しのけるため、色々策を弄するわけで、これをうまく調整するのが、バカバカしいコストでありストレスだった。

10. 「ハンター試験」の使者への対応コスト

また、当時は様々な方面からのたくさんの使者があり、その対応も過酷だった。使者はそれぞれが「オマエを試してやるぞ」的なことを繰り広げるのだが、そのひとつひとつが恐ろしいほどに冗長で、独りよがりで、的外れだった。

例えば「ハンター試験」が徹夜麻雀だったことがあった。これは非常にタフだった。僕の目が正しければ、対面のこのために呼ばれた仕事人風のやつがイカサマをして、親の四暗刻をアガった。黒川検事長と同様のレートで、チップやらなんやらがガッツリついたルールだった。このせいで終始ピリピリしながら打たなくてはいけなかったが、僕はハンター試験をしっかりやり遂げた。夜が明けるころにはイカサマ四暗刻が炸裂したにかかわらず、ほぼ僕の一人浮きだった。

この一人の使者への対応は麻雀だけではなく何度も必要とされた。そして、使者はそいつだけではなく、無数のプレーヤーの命を受けたやつが湧いてくるのだった。

使者はそれぞれ完全に独立しているわけではなく、共通した「儀式」を課す傾向があった。例えば、お酒を飲んだ後、タバコを吸うかを試すのは非常に多く行われた試験だった。こういうイニシエーションを通じて、起業家にその人が潜在的な投資対象であることを暗示し、精神的優位性を取るのが目的のようだった。それから、使者が共通した儀式を行うことで、共謀関係を示し「一対多」であることを知らせようともしているだろう。

確かにこれは平均的な日本人には効きそうな戦略だ。新入社員試験とその後の調教によって、会社にとって都合のいい人格を形成するのと似て、都合よくコントロールできるよう起業家を調教しているのだろう。

問題は、僕が完全に外れ値だったことだ。僕は使者たちが自己満足気味の「ハンター試験ごっこ」をやるのを冷ややかな目で見ていたし、なんなら心中で火山が爆発していた。「このひとたちは時間を無駄にするのが大好きみたいだ」と僕は思っていた。

また、重要な疑問が立ち上がっていた。それは「このようなやり方で起業家の資質をうまく図ることができるのか」というものだ。使者のやり方は、僕の目からは神秘的に移った。依頼主から質問リストのようなものを与えられているのだろうが、期待されている回答があるようで、誰もが依頼主の期待に答えようとしてそれを引き出そうとしている。僕が話した言葉は文化やバックグラウンドの違いもあるだろうが、ものすごい独特な解釈が行われ、ずっと壁にピンポン玉を打ち付けている状態だ。

しかし、もっと大事なことがある。それは僕が彼らとその背後にいる人たちを信用していなかったことだ。僕は性悪説の世界に長く居たせいか、人を手放しで信頼するということがない。信頼に依拠しないシステム(トラストレス、ゼロトラスト)こそが素晴らしいものだという考えを持っている。

このため、使者の質問に対して、ダミーの情報を沢山混ぜることにした。質問の内容によってははぐらかし、答えもしなかった。このような戦略には、不確実な世界の中で生き抜くためには様々な利点がある。

ただし、このときはマズい方向に作用した。界隈の人たちは使者が持ち帰った情報をお互いに突合することで、基本的に僕がどうしようもない馬鹿だとみて、他の量産型起業家をそうしているように操り人形にできると確信したようだった。

ここにはもう一つ別のファクターが関係しているだろう。僕は、時間や労力のような貴重な資源を自分がどう見えるかに全く割かないことにしている。なぜなら、それは無駄だからだ。羽生善治や藤井聡太、芝野虎丸のような類まれな知性をその見てくれから判定することはできるだろうか。アラン・チューリング、アルベルト・アインシュタイン、リチャード・ファインマンのように科学の天才にも特に人からどう見えるか気にしていない人は多いだろう。黒澤明、北野武、クリストファー・ノーラン、クエンティン・タランティーノ、村上隆のような僕の好きな芸術家にも「普通の人」はいない。類まれな成果と「普通」からの逸脱には深い相関があるように思える。凡人の僕は、少しでも資源を有効活用することにしていて、それは普通の人から見た目を気にしない、ということだ。

どこの会社や組織にも「会議室の王様」というものが存在する。会議室の中で生まれがちな集団思考において、平凡な人間の群衆から支持される王者のことだ。でも、その人は群衆のダイナミズムから生まれただけであって、世界にインパクトを引き起こすような力はもちろんない。「人からどう見えるか」の差の生まれづらい競争の中で偶然選ばれたぼんくらに過ぎないのだ。日本のIT業界とベンチャー業界はそういう自分たちに都合のいいぼんくらを血眼になって探している印象がある。

使者に対しての対応が引き起こした意図しない副作用は他にもあった。乙のような一部の連中は僕が非常に冷静で怒りずらい性格であることも知り、「こいつには何をやっても怒られることはない。何をやってもいいだろう」という結論に至ったようなのだ。そう、彼らは4年間、非常にひどいことを続けざまにやってくれたが、それはエスカレートの一途を辿ることになるのだ。最悪だ、最悪だ、最悪だ。

実のところ、僕が怒らないのは、多くの場合物事は怒って得にならないからだ。特に日本社会では不条理に対して抗議したり、明確に誤っているルールを変えようとする、正当な怒りについても、儒教的な、ムラ的な、あるいは権威主義的な世界観によって罰せられやすい。インドネシアから帰ってきたときは非常に苦労し、「この社会に順応できるのか」と絶望したものだった。だから、特に日本では怒らないで、現行の社会が暗黙の了解としているラインで終えて、時間を効率的に使うよう心がけている。

また多くの場合、怒ることよりももっと利得をもたらしやすい選択肢を見つけることができるものだ。だから、心中ブチギレていても態度にはでないようにしている。ベンチャー村との関わり合いではしばしば心中ブチギレることがあったが、何らかの形で共通の利得を見つけることができる可能性があるため、ニコニコしたり、キレないだけなのだ。

そしていまやベンチャー村、特に乙というIT企業のキレないことを正当化する利得を見つけることが難しくなったので、こうやって率直な気持ちを書いているわけだ。むしろ、僕が彼らに対してどのようなポジションをとっているのか、どれだけブチギレているかを世界に明示した方が得なので、このブログシリーズでは、彼らの荒行の数々を陽の目に当てる努力をしていくことになるだろう。そして、それは多分、このブログシリーズでは尽きないので、最終的には製作チームを組織して、より機動的に展開していくことになるだろう。

さて、話が横道にそれてしまったが、整理すると、使者一人に付き数段階のプロセスがある。そして、使者は無数に湧いてくる。使者は、謎の儀式を繰り返す。だから無限に時間を食い、僕は何度もブチきれる。そういうことだ。

僕は昼から夜にかけてニュースサイトを運営し、同時に動画を作っている。そのスキマ時間にこのような馬鹿げた事がずっと起こっていた。頭がおかしくなりそうだった。

(次回に続く)

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