「見るべきは、これ!」

独断と偏見の美術展リポート2
「生誕100年 山下清展 百年目の大回想」

 6月24日から9月10日まで、新宿のSOMPO美術館で「生誕100年 山下清展 百年目の大回想」が行われている。山下清といえば、やはり芦屋雁之助が山下清に扮した「裸の大将放浪記」が、我々の世代では欠かせない印象。他にも小林桂樹や渥美清、塚地武雅が演じている作品もある。つまり当たり狂言だったわけ。
 もちろん画家としての山下清の作品もすばらしいが、どちらかといえば本人の素朴な性格や自由気ままな旅、それを支える周りの人々の優しさがドラマとして受けるのだろう。人の良さそうな、小太り体型の俳優さんが、熱演したシーンは覚えている。しかし、私はそのドラマ自体は好きではなかった。山下に扮した主人公の、あまりに強調される吃音が嫌だったから。これは少しオーバー過ぎるといった声もあったらしい。もちろん笑えるポイント、ギャグとして使ったのではないと信じたいが‥

《チラシ》

貼り絵に出会い、才能が開花する

 さて中に入ると、エレベーターで4階へ。誕生から絵に巡り合う過程がよくわかる。3歳の時の病気により吃音と発達障害のために、普通の学校でいじめられて養護施設「八幡学園」へ。ここでちぎり絵に出会い、絵の楽しさや没頭できる作業にのめり込んだのだろう。昆虫や学園の生活、行事など、施設での生活(遠足や身体検査など)が記録のように残っているのは微笑ましくもある。細かくちぎった色紙や貼り合わせていく独自の貼り絵は、何と当時の西洋画の大家である安井曾太郎や梅原龍三郎らにも評価されたらしい。

 その中に、人物二人だけを大きく捉えたものがある。《ともだち》と題される作品は、右の丸刈りのような男の子は山下自身、左は女の子のようだ。心配そうに「だいじょうぶ」と優しく言葉をかけているようにも見える。どのようなシチュエーションか、なぜこのような作品になったかは、わからない。でも、幼い時から障害のためいじめられた山下だから、友達を気遣い、声をかけることもあったのだろう。とても温かい、良い絵だなと思う。

《ともだち》

放浪の画家の誕生

 単調な学園生活に飽きたことと、兵隊になりたくないとの理由で施設を脱走した清は、放浪の旅に。1940年から55年まで放浪を繰り返し、一時期施設や実家に戻って絵を仕上げるものの、完成するとまたブラリと出かけて行った。あの有名なリュックサック(展示もあった)姿で。しかし、ドラマと違って旅先ではデッサンのみ。絵を仕上げることはしなかったという。しっかりとその風景を記憶しては、帰ってから一気に仕上げた。この記憶力の凄まじさは、軽度の知的障害と結びつけ、サヴァン症候群だったのではないかと考える海外の研究者もいる。

《遠足》


《長岡の花火》

 いやー、ほんま細かい!これでどのくらいの時間がかかったのかわからないが、放浪先で大まかな構図と細かな部分、色合いを頭の中に入れて、帰ってくるとその記憶をたどりながら全集中で絵に仕上げた。何という脅威的な集中力だろう!

メディアに登場し、一躍時代の寵児に

 新聞記事で取り上げられ一躍有名になった山下は、放浪先で見つかり東京に戻される。ここからは有名画家先生ということで、絵の依頼もあるだろうし、取材旅行など忙しい日々を過ごすことになる。ヨーロッパへの取材旅行や、1964年の東京オリンピックの開会式と緻密な作品を残している。この頃はペン画が多くなっている。技術的にも表現的にも、もはや円熟味を増した画業といえるだろう。

《ハイデルベルグの古城》
《東京オリンピック》

49歳という若さで逝去

 最後は「東海道五十三次」をテーマに取材や制作に取り組んでいたが、その途中に眼底出血で中断し、療養生活を余儀なくされた。療養中も制作を続け、「東海道五十三次」は完成したが、1971年脳溢血で逝去。なんと49歳という若さ、惜しまれる死であった。

 晩年、「日本のゴッホ」などとマスコミで持ち上げられ、多くの作品を残した山下は最後まで楽しんで絵を描いていたのだろうか。自分のためよりも周りが喜ぶから、仕事として約束したから、そんな気持ちで描いていたのではないか。
《ともだち》を描いていた八幡学園の頃は、自分が興味を持ったものを自由に描くことができた。その頃が、一番楽しんでいたような気がする。

《群鶏》鮮やかな油彩の作品


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