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「リア充」は爆発じゃなくて目指すものだよね、今の時代

現実生活(リアル)が充実している様子、または人を「リア充」と呼びます。

主に、非リア充な人が、リア充を揶揄するニュアンスで使われます。

ん、「揶揄(やゆ)」って漢字は難しいね。

キーボードでは打てるけど、手で書けと言われたら書けません。
憂鬱、魑魅魍魎、躊躇なども同じく。

揶揄は「からかう」とか「茶化す」という意味です。

おっと、今回考える言葉は、揶揄じゃなくて「リア充」でした。

本来、リア充は良いことなのに、特にネットの世界では自虐や妬み、嫉妬などネガティブな文脈で語られることが多い言葉ですよね。

リア充爆発しろ

「リア充」という言葉は、2006年頃から、ネットの世界で広まりました。

ウィキペディアによると、2011年には女子中高生ケータイ流行語大賞の金賞に選ばれたそうですよ。

中でも「リア充爆発しろ」は有名なフレーズですね。

リア充爆発しろ」とは、近年、意味が変わりつつあるが、リアルが充実しているリア充(特に恋愛方面で)な人に対し、嫉妬と羨望を込めて一方的に非難するセリフ。

ピクシブ百科事典より抜粋

ピクシブ百科事典によると、近年は少し意味が変わりつつある、と書かれていますが、以下のような変化だそうです。

※元々は一般人、性嫌悪の人などが、街中でイチャ付くDQNカップル、騒がしいウェイ系を非難する叱咤、突っ込みのニュアンスだったのだが、「リア充」という言葉の意味の変化(偏見)、嗜好の多様化により、カップル、幸せな人全体を批判する言葉に変わってしまった。

ピクシブ百科事典より抜粋

ピクシブ百科事典にも書かれていますが、「罪のないリア充達からしてみれば言われなき中傷」ですよね。
ネタとしてのみ使うべし。

最近は変化が? 時代の出来事を振り返り

「リア充爆発しろ」は、もう古い言葉として、最近はあまり使われないみたいですね。

「リア充」自体は、死語とまでは言いませんが、すでに一般に定着した言葉になっています。もはや流行語とは言わないのでしょう。

2010年代から現在までを、ザッと振り返ってみます。

【災害】
「リア充」がケータイ流行語大賞となった2011年は、「東日本大震災」が発生した年です。
大地震だけではなく、巨大津波と原子力発電所の爆発まで引き起こした天災は、その後の日本に、長期間にわたり大きなインパクトを与えます。

【デバイス】
その頃から、スマートフォンの普及が始まります。
スマホ普及率は、2010年には4%ほどだったのが、2011年に20%を超え、その後は右肩上がりで急激に伸び、今では誰もが持っています。
あらゆることが、手のひらで完結するようになりました。

【働き方】
2015年に起きた電通社員の過労自殺は、働き方改革を大きく後押ししました。これは改善とは言えず、長時間労働を是正しても、精神疾患は増加の一途です。
ただ、その頃から副業やフリーランスのように、働き方が多様化したのは確かでしょう。

【環境・価値観】
「SDGs」の取り組みが始まり、急激に認知されたのもこの頃(2015~)。
意味はよく分からなくても、環境や貧困の問題が「何か変わり始めたぞ」と気付いた人も多いのでは。
時を同じくして、「LGBTQ」(性的マイノリティ)も広く認知されるようになりました。

【パンデミック】
そして極めつけが2020年のコロナ禍
世界中で、それまでの人々の生活様式が破壊されました。
ウェーイなパリピは街から消え、在宅勤務を歓迎する人が続出。
強制的に「リモート」が一般的なものになり、場所と移動の意義が急激に低くなりました。


・・とまあ、主に人々の生き方や価値観に影響を与えそうな出来事を並べてみました。見落としがあってもご勘弁を。

こう見ると、「リア充」と東日本大震災の2011年から現在まで、世の中は大きく変わってきたことに気付きます。

「リア充」の意味も変わってきた

上記のピクシブ百科事典によると、「幸せそうな人」全般を批判する意味で使われる、とのこと。

例えば下記のようなことかな。

・友人が多い
・恋人がいる
・あたたかい家庭がある
・仕事が順調
・休日に遊びや旅行を楽しむ
・マイホーム持ち

確かにね。
事象だけを見ると、幸福で充実してそうに見えます。

ちょっと意地悪な視点で見ると、本当にそうかな?とも思えます。
平成後期~令和の時代において、上のような”リアルが充実した”状況は、昭和の価値観を引っ張っている気がしませんか。

実情は、夫婦仲は冷め、子育てと教育に悩み、家のローンに追われ、長時間労働を辞めるわけにいかず、休日はヘトヘトかもしれません。

すべては、「リアル」だ

「リア充」という言葉の流行は、フェイスブックやツイッター、インスタグラムなどのSNSが日本で普及し始めた時期と一致します。

以降、「ネット」と「リアル」という境界線が、どんどん曖昧になってきているように感じます。

たとえリアルで会わなくても、SNSで強く結ばれている心の友がいれば、「リア充ではない」と言い切ることに違和感があります。

そして価値観の変化。

・結婚してる人が幸せそうに見えないし、1人が気楽
・就職してないけど、生きる程度のお金はある
・日頃会う友はいないけど、札幌と沖縄に同志がいる
・推しが推せている間はチョー幸せ
・来月は東南アジアに住みます

例に無理があるかもしれませんが、こんな感じで暮らしている人は、かつては(恋人/友/家/金など)持っているのが幸せと言われていたものを持っていなくても、十分にリアルが充実している、と言えまいか。

誰もがネットとともに生きている時代、「ネットでは~」「リアルでは~」という区別は意味をなさなくなっています。

では、「リアルが充実」の定義とは何だろう?

・イヤなことを我慢してやることはなく、
・好きなことをして生きる

今、考えつくのはこれかな、と思います。

恋人や友達やお金などは、今や単なるオプションに過ぎません。
あってもいいけど、なくても困らない。必要な人だけどうぞ、という。

そして、「充実」の意味も変わってきてて、必ずしも生産的、活動的じゃなくてもいいと思うのだ。

「1日中ボーッと海を見ていた」「日だまりで漫画読んだ」「昼まで寝てた」なども、本人が充実したと思えばそれでOK。

もはや、ネットも含めてすべてがリアルなのだから、わざわざ「リアルが」と付けなくてもいい。

リア充の条件は、変わった。
他人を揶揄するのではなく、日々「自分の充実」を目指しましょう。

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