【世界史】メソポタミア文明

いまから5000年前の紀元前3000年、西アジアでメソポタミア文明が生まれた。「メソポタミア」とは古代ギリシア語で「二つの川の間の土地」の意味で、ティグリス川とユーフラテス川に挟まれた地域を指す(肥沃な三日月地帯)。メソポタミアという古代国家があったわけではない。文字、金属器の量産、車輪を使った乗り物、都市など、文明の基本がこのメソポタミアで生まれた。

シュメール人の都市国家

いまから5000年前の紀元前3000年、メソポタミアにシュメール人の都市国家がいくつも生まれた。

アッカド王国

紀元前2300年頃にシュメール人にとって変わってセム系のアッカド人がメソポタミアの都市国家を統一、サルゴン1世がアッカド王国を作った。

バビロニア王国

アッカド王国が衰えたあと、シュメール人の建てたウル第3王朝がメソポタミアを支配したが、その後、紀元前2000年頃、セム系のアムル人によってバビロン第1王朝(古バビロニア王国)が建国され、紀元前1700年頃のハンムラビ王のときに、メソポタミアを統一した。ハンムラビ王は「ハンムラビ法典」を制定したことでも知られる。

民族移動

紀元前2000年ごろから紀元前 1500年ごろまでは、西アジアに大きな民族移動の波が押し寄せた。インド=ヨーロッパ語族のヒッタイト人や、カッシート、ミタンニなどが西アジアに侵入し、いくつもの王国が割拠する状態になった。ヒッタイト人の文明は製鉄技術を持っており、鉄製の武具や、馬でひく鉄製の戦車など、優れた武器の生産が可能であった。

アッシリア帝国

紀元前671年、ヒッタイトの製鉄技術を取り入れたアッシリアが西アジアとエジプトを征服し、オリエントを統一、西アジア最初の世界帝国となった。これによって、メソポタミア文明とエジプト文明は一体化し、オリエント文明に統合された。しかしアッシリアによる厳しい重税や強制移住などの圧政のためにすぐに滅亡し、エジプト、小アジアのリディア、メソポタミアの新バビロニア、イラン高原のメディアと、オリエントは4つの王国に分裂した。

新バビロニアはユダ王国を滅ぼしユダ王国のヘブライ人がバビロンに強制連行された(バビロン捕囚)。またリディア王国は、世界ではじめての金属硬貨を発行した。

アケメネス朝ペルシア

分立したオリエントをアケメネス朝ペルシアが再統一した。アッシリアは重税などの圧政で人々の反感をかったが、アケメネス朝ペルシアは多民族をまとめるために宗教の自由や各民族の風習・制度を尊重するなど異民族政策をとったことで比較的長続きした。

ここまでの流れ

メソポタミアでシュメール人の都市国家がいくつか生まれ、アッカド人が統一国家を作ったが、その後はバビロニアやカッシート、ミタンニなど群雄割拠があり、アッシリアがエジプトを含めて統一、最初の世界帝国となったが、圧政により民衆の反発があり分裂、それを再統一したのがアケメネス朝ペルシア。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?