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【世界史】ローマ帝国の誕生と分裂

都市国家としてはじまったローマは王政から共和制、帝政へと移行していった。「ローマ帝国」というばあいには紀元前27年にオクタウィアヌスがアウグストゥスの称号とともにローマ皇帝として即位し、共和制から帝政に移行してからをいう。当初は元首政がとられ、共和政の伝統を尊重するとしたが、実際には皇帝独裁を行った。2世紀の五賢帝の時代には全盛期を迎え、「パクス=ロマーナ」(ローマの平和)といわれた。その後、ゲルマン人やササン朝の侵入などがあり次第に衰え、専制君主政に移行したが、395年には東西に分裂した。

王政ローマから共和制ローマへ

王政ローマ(紀元前753年〜紀元前509年)

イタリア人の一派であるラテン人がローマに定住し、伝承によると紀元前753年にロムルスがローマを建国。7代まで王政が続いたが、6代と7代の王は先住民のエトルリア人であり、国が乱れたために王を追放、王政を廃止して共和制を樹立した。

共和制ローマ(紀元前509年〜紀元前27年)

共和制といっても貴族がコンスル(執政官)をはじめ多くの官職を独占し、国の最高機関である元老院の議員として国政を行った。平民ははじめ参政権を認められていなかったが、貴族と身分闘争を行うなかで元老院にたいする拒否権をもつ護民官が設置され、平民のみで構成される平民会が設置されるなど、しだいに平民の地位が向上していった。紀元前367年にはリキニウス・セクスティウス法が制定されて定員2名のコンスルのうち1名を平民から選出することが定められ、紀元前287年のホルテンシウス法で平民会の議決が元老院の承認を経なくても国法となることが定められたことで貴族と平民との法的平等は達成し、身分闘争は終結した。

またこの時期にイタリア半島の諸都市と戦争を行い(半島統一戦争)、紀元前272年にタレントゥムを制圧してイタリア半島を統一した。

イタリア半島を統一したのちに勢力を地中海に拡大、紀元前264年から紀元前146年にわたって3度、カルタゴと衝突した(ポエニ戦争)。第1回ポエニ戦争ではシチリア島が主戦場となりローマが勝利して属州とし、第2回ポエニ戦争ではカルタゴの将軍ハンニバルに苦戦しながら辛勝、第3回ポエニ戦争でカルタゴを滅ぼし、地中海を制覇した。

これらの戦争のなかで農地は荒廃し、属州から安価な穀物が大量に入るようになり、中小農民が没落していった。一方で貴族など有力者は力を伸ばし、貧富の差が拡大した。護民官のグラックス兄弟は中小農民のために改革を行おうとしたが元老院の抵抗にあい頓挫する。

紀元前1世紀はイタリア半島の同盟市の反乱(同盟市戦争)、剣闘士スパルタクスの反乱など混乱が相次ぎ、「内乱の1世紀」と呼ばれる。こうした内乱を鎮圧していくなかで、軍隊を率いる将軍が力をつけていった。カエサル、ポンペイウス、クラッススの3人は手を組んで元老院に対抗し、政権を握った(第1回三頭政治)。その後、カエサルがガリア遠征でさらに力をつけ、ルビコン川を渡ってローマに進軍(「賽は投げられた」)、元老院と手を組んだポンペイウスを破ったことで紀元前46年に独裁官となり権力を集中させた。しかし紀元前44年、独裁に反発した共和主義者のブルートゥスによって暗殺された。このときの有名なセリフが「ブルートゥス、おまえもか」である。

カエサルの死後、彼の養子であったオクタウィアヌスが、アントニウス、レピドゥスとともに政治を行ったが(第2回三頭政治)、アントニウスがエジプトのクレオパトラと結んで東方で勢力を伸ばしたことで対立し、オクタウィアヌスがアントニウスとクレオパトラの連合軍を破り、権力を掌握した。

都市国家から出発したローマが、イタリア半島を統一し、地中海を制覇するにいたって、有力貴族や市民、属州をまとめる共和制がうまく機能しなくなってきた。こうした背景により紀元前27年、オクタウィアヌスは元老院から「アウグストゥス」(尊厳なる者)の称号を受け、ローマ皇帝となった。ローマは共和政から元首政に移行し、ローマ帝国が誕生した

帝政ローマの繁栄と分裂

元首政(紀元前27年〜284年)

ローマ皇帝となったオクタウィアヌスは、自らを最高権力者ではなく、プリンケプス(第一人者)と位置づけることで共和制の伝統を尊重したが、実際には政治・軍事における権限をほぼ独占し、事実上の皇帝独裁を行った。その後もローマ皇帝は元老院の承認によって統治を託されるという形式をとりつつも、約100年間、5代にわたって血縁者による世襲が行われた。

ルー・ウォーレスによる小説『ベン・ハー』およびそれをもとにした映画『ベン・ハー』はこの時代を描いた昨品。

ネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス=ピウス、マルクス=アウレリウス=アントニヌスの5代の皇帝を五賢帝という。

オクタウィアヌスが初代皇帝となってからこの五賢帝時代までの約200年間(紀元前27年〜180年)、ローマ帝国の政治体制は安定し、平和な時代が続いた。この時代をパクス=ロマーナ(ローマの平和)という。

映画『テルマエ・ロマエ』は五賢帝の3人目、ハドリアヌス帝の時代の話。

映画『グラディエーター』は五賢帝最後の皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌスを描いている。

平和のあとに混乱がやってくる。軍人が入れ代わり立ち代わり皇帝となり、軍人皇帝時代と呼ばれる。

専制君主制(284年〜395年)

284年に即位したディオクレティアヌスは、軍人皇帝時代を収拾するためにアウグストゥスの称号を実質的な皇帝の称号とし、建前ではなく実質的に君主制に移行した。

306年に即位したコンスタンティヌスは新都コンスタンティノープルを建設して支配の重点を東方に移した。また313年にはキリスト教を公認し、325年のニケーア公会議では教義の統一をはかった。

4世紀後半、アジア系のフン人がゲルマン人の住む東ヨーロッパに移住、また寒冷化と耕地不足もあり、ゲルマン人の諸部族がローマ帝国内へ移住した(ゲルマン人の大移動)。これにより数十万人が帝国内に移住したといわれる。

4世紀末の395年、テオドシウス帝の死後にローマ帝国は東西に分裂し、イタリア半島とその周辺を支配する西ローマ帝国と、コンスタンティノープルを中心として東地中海・バルカン半島・小アジアを支配する東ローマ帝国とが成立した。

西ローマ帝国(395年〜476年)

西ローマ帝国はゲルマン人の侵攻により衰え、476年にゲルマン人の傭兵隊長だったオドアケルによって西ローマ帝国は滅亡する。

東ローマ帝国(395年〜1453年)

東ローマ帝国は6世紀のユスティニアヌス大帝のときに最盛期を迎えるが、ギリシア化が進み、7世紀からはビザンツ帝国といわれるようになる。その後、東に隣接するササン朝との抗争で国力を失い、7世紀以降はイスラーム教勢力に圧迫されて次第にその領域を狭め、1453年、オスマン帝国によって滅ぼされた。

まとめ

体制によるざっくり区分

王政(紀元前753年〜紀元前509年)
↓ 約200年間 ロムルスが建国してから7代の王が治めた
共和制(紀元前509年〜紀元前27年)
↓ 約500年間 勢力圏をイタリア、地中海へと拡大し、カエサル登場
元首政(紀元前27年〜284年)
↓ 約300年間 オクタウィアヌス、五賢帝時代を含むパクス=ロマーナ
専制君主制(284年〜395年)
↓ 約100年間 キリスト教を公認、ゲルマン人の大移動、分裂
西ローマ帝国(395年〜476年)
↓ 約100年間 ゲルマン人により滅亡される
ここまでで約1200年間

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