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インドのナグプールに(南天竜宮城)に行った話14 最終回

ナグプール滞在の後半、やっと佐々井師の仕事のお手伝い頼まれました。

仕事といいましても、佐々井師がお世話になっている日本人に対して出す便りを、佐々井師が口述して私がパソコンでタイピングするという作業でしたが。

3日か4日くらいはこの作業をしましたが、この作業中は私は佐々井師に付きっ切りで、時には休憩をはさみながら午前の遅い時間から夕方前くらいまでやっておりましたでしょうか。


佐々井師は当時長髪で後ろで髪を束ねていた私をみて、関東武士の顔だとか土方歳三みたいだとか言ってくれましたが、土方ファンである私にとっては最大の賛辞でありましたw ちなみに、私は生粋の九州っ子であります。


ここに載せていいのか悪いのかわからない話もたくさん聞きました。

「闘う仏教」に出てきた、佐々井師と懇意になった日本人女性との顛末なども聞きましたが、「闘う仏教」にはその物語のほとんどを端折って書いているみたいで、じっさいはなかなかのドラマがあったみたいです。

まあ、当然書けないですよね。 まだその女性は生きてゐるみたいですので。(当時は)

また、タイの留学時には女性関係でタイにいられなくなったと本には書いておりましたが、日本軍の進撃時旧日本軍の将校と懇意になっていたタイ人女性が、その将校と死に別れたあとも彼の軍刀を大事にもっていたのだが、佐々井師はそんな女性をみて惚れてしまったとか言っておりました。

佐々井師から聞いたのは、過去の女関係の話ばかりだったような気がします。

豪放磊落で、気性の激しいイメージがありましたが、なかなかロマンチックなんだなとその時思いました。 ロマンチックでないと、断絶したインド仏教の復興運動などに身を挺するはずがないですよね。

チェ・ゲバラもかなりのロマンチストでした。 ロマンチックであるということは、革命家の一つの大事な要素であるのだと確信します。(佐々井師は宗教家というより革命家でしょう)


私は佐々井師から


「坊さんにはならんのか」


と聞かれました。


実は私も当時坊主になりたいという気持ちが少なからずありました。 

そのことについては散々考えてきましたが、私には成れない理由があります。 ただのこだわりと言ってもいいかもしれません。

現代では事情は変わってきていると思いますが、僧侶になるというのは「出家」するということで、つまり「家」を出るということが前提です。


私は長男なのでいつか家を継がなければいけないという意識が常にあるのです。いずれ家を継ぐ予定があるのに、なにが「出家」かとなるのです。 今の日本で出家など有名無実と化している感があります。

さまざまな意見がありましょうが、私は僧侶の妻帯にはあまり賛成していないのです。

親鸞聖人のように、自身の修行の末に苦悩した挙句「人間とは何か」「人を救うとは何か」を突き詰めた末に妻をとることを選択するのと、明治政府から「今より僧侶の肉食・妻帯・蓄髪等勝手たるべし事」と布告を受けて、戒を蔑ろにし結婚をするのとはわけが違うと思うのです。

浄土真宗のように、それを是としていた宗派ならば話はわかるのですが、江戸時代までは他国の仏教僧と同じように妻帯をしなかった他宗の坊主たちが、時の権力がゆるすからといって一斉に結婚をするようになったというのは、様々な事情があるにせよ、それは間違いなく仏教界の堕落であり、ご都合主義でしょう。 

ましてや家庭などもつと、大乗仏教の義務である菩薩行がおろそかになるでしょう。 どうしても心配事が増え、菩薩の悲願である一切衆生を救うなんてできません。 

そういう事を考えると、もし私が僧侶になるとしたら結婚は絶対にできないのです。そして結婚できないのだとすれば子供も作れないので、私の家系は私で途絶える。 もし私が僧侶になるのであれば、「家」を滅ぼす覚悟がいるのです。私にはそれはできません。

佐々井師には、

「なりたいと思ったことは何度もありますが、私は本家の長男なので僧侶にはなれません」

と言いました。 

「そうか」との一言だけが帰ってきました。


佐々井師の仕事の手伝いは続きました。 


佐々井師はときどき、インド人の弟子に怒号を発して何かを命令をするのですが、声がめちゃくちゃにデカい。 部屋が揺れそうなくらい響くこともあり、呼ばれたインド人は真っ先にかけつけ、「はい, バンテージ!」といって直立不動になり命令を受けます。(バンテージとは「上人」という意味で、佐々井師のことを呼ぶときに使われます)

皆ビビりあがっていました(笑)

日本人のお客さんである私には優しかったですが、お弟子さんやインド人には結構厳しいそうです。

日本人のお弟子さんのTさんが言っていたのですが、最近はこれでもかなり丸くなったらしい、と。 昔は触れたら切れそうなほど、怖かったらしいです。

佐々井師の若いときの写真を見ると、いかにも何かに噛みつきそうな闘争心溢れた鋭い顔をしております。 

インドでは観音菩薩は通用しないのです、不動明王にならなければならないのです。佐々井師に関わると無傷ではおられないと、「破天」を書いた山際氏がいっていたそうですが、全くその通りでしょう。


私は、佐々井師の仕事の手伝いが終わったのでナグプールを出ることにしました。

最終日の朝、インドラ寺のお勤めを終え、佐々井師にお礼の挨拶をし、「バンテージ、最後何か一言いただけませんか」と尋ねました。


すると、

「春の海ひねもすのたりのたりかな、まああまり気張らずにね、ゆったり大きくやりなさいよー、ハハハー」

とニコやかに言い、私を送り出してくれました。最後まで合掌してくれ最後まで見送ってくれたのを今でも覚えております。

運転手のスレーシュさんと、菩提般若師(プラジュニャ・ボーディ)が私をナグプールの空港まで送ってくれ、この二人にもお礼のあいさつをし、またいつか会いましょうと言ってお別れをしました。 私はそれ以来ナグプールを訪れる機会を得てゐません。



飛行機でナグプールからデリーまで2時間くらいだったでしょうか

昔のバックパッカー時代なら電車でデリーまで行っていたでしょうが、もうバックパッカーを卒業したがっていた私には、インドの列車の三等席にのって数十時間も揺られて移動しようなどという気持ちが起こってきません。


デリーに着いて、かつて宿をとったことがある「パヤル」というゲストハウスに宿をとりました。

前と同じ清掃夫がまだ働いていて、懐かしく、彼と一緒に撮った写真があったのでそれを見せると喜んでおりました。

日本人もけっこうおりました。 何人か仲良くなり一緒に飯を食いに行ったり夜遅くまで話したりしましたが、やはり昔のような楽しさを覚えず、本当にバックパッカーは止め時なのだと思いました。(ただ私はこの一年後、オーストラリアのワーキングホリデーなんかに行き、まだしばらくバックパッカー的な気分を引きずっておりましたがw)

実はデリーのあとも、ダラムサラやマナリ、スピティなどの北のチベット文化圏を旅しようと思っていたのですが、もう一人でさ迷い歩くことにあまり意味を感じず、結局はデリーで数日時間を過ごし日本への航空券を買い、帰国の途についたのでした。


日本に帰ると、私がしてきた経験など意味がなかったかのように思い、数年間外国を放浪してきた経験がむしろ足枷になり大変息苦しい思いをしました。 それは今でも尾を引いているような気がします。 

さて、佐々井秀嶺師。

その後一度死にかけたらしいですが(毒を盛られたという噂も!?)、奇跡の復活を果たし、まだ元気にインドで活動をしていらっしゃる。 ブッダガヤの大菩提寺(マハーボーディテンプル)をヒンドゥー教徒から取り戻すための闘争や、マンセル遺跡の発掘調査などに暇がないそうです。 

いつか、ナグプールのディクシャブーミーで行われる大改宗式に参加したいと思っておりますが、このコロナ渦の時代に次はいつ佐々井師に会えるのでしょうか。 いつまでもお元気でいて欲しいと心から願います。

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