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テレビゲームの時代の到来。

クリィミーマミ、ミンキーモモのころは、テレビゲームも出てきていて、だいぶアニメのお客さんが分散していくような印象を持っていました。ヤマト、ガンダムのような全国区の熱狂するようなアニメはもう生まれにくいような雰囲気がありました。そして私が松竹でさいごにかかわったのが「逆襲のシャア」でした。上井草のマンションに富野監督の書斎があって、そこへ遊びに行くと、富野監督が「逆襲のシャア」の絵コンテを描いていました。
「逆襲のシャア」の絵コンテは、セリフが活字になっていました。そのからくりは、秘書の方が富野監督の絵コンテのセリフや指示の部分をワープロで活字にしてプリントして、切りぬいて、絵コンテのセリフや指示の部分に張り込んでコピーして仕上げていました。
富野監督は自分は絵がヘタだとおっしゃていましたが、絵コンテの絵は十分に雰囲気が出ていて、イメージの浮かぶ絵コンテでした。

スーパーマリオブラザーズ 1985年9月発売
ドラゴンクエスト 1986年5月発売
ファンアルファンタジー 1987年12月発売

1985年ころでしょうか。ナウシカ(84年)(配収7億)が公開され、ラピュタ(86年配収6億)が公開を控えていましたが、私の上司と新橋の喫茶店で打ち合わせしていた時に、たまたま私が、宮崎監督と仕事をしたいと言ったところ、上司が、それならすぐに電話して会いに行こうということになり、私は、徳間書店に電話して、宮崎監督のスタジオである二馬力の電話番号を教えていただいたので電話して、そしたらご本人が出てアポが取れて、数日後、上司といっしょに宮崎監督の杉並区の事務所をお訪ねしました。松竹でアニメをやってほしいとお願いしたところ、それなら自分ではなく、若い監督を使ってやってほしいと言われました。それが押井守さんでした。結局押井さんにお会いすることなく私は松竹をやめましたが、のちに、2003年の東京国際映画祭で、アニメ特集を私が担当した時に、押井監督のパトレイバー2を上映しました。


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