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小説「あの日に帰りたい。          ~機動戦士ガンダムも若かった~ 」

 千葉県安房(あわ)郡安房町。
 ここは房総半島の南の方に位置する棚田の広がる山間の町だ。
 阿部祐樹(あべゆうき)は小学六年生。地元の町立安房北部小学校へ通っている。
 棚田のてっぺんに鎮座する雑木林に囲まれた小学校だ。
 児童たちは雑木林で、夏はカブトムシやセミ、クワガタを捕り、秋はドングリや栗を拾い、冬から春にかけては秘密基地作りに忙しく、子供時代を存分に謳歌していた。
 鉄筋の二階建て新校舎が五年前に建てられたが、その裏の昭和二十年代に建てられた木造校舎もまだ使っている。
 木造校舎の前後の二棟にはさまれた中庭に小ぶりな噴水があるが、そこの池にはよく低学年の児童が落ちていた。祐樹も一年生のころに仰向けにいちど落ちた。
 木造校舎の赤い瓦屋根は校歌に歌われるほど地元の人たちに親しまれているが、二、三年後にはここも鉄筋校舎に建て替わるということで、年輩の卒業生たちを中心に反対運動が起こっている。
 祐樹は千九百七十九年に始まったテレビアニメ「機動戦士ガンダム」の熱烈なファンである。「機動戦士ガンダム」は少し大人向けなのか、それまでの超合金ロボットが売れるタイプの子供向けロボットアニメではなかった。祐樹は保育園のころから漫画やアニメが好きで、とくにSFっぽいのが大好きだったので「ガンダム」にはまった。
 祐樹は、小学三年生の時に、将来は漫画家になると決めて、ノートにオリジナル漫画を描き続けてきた。新人賞への投稿もいずれはしようと日夜構想を練っている。しかし、ケント紙に表紙から描き始めるのがいけなかったみたいで、いつも表紙を描くとそこで満足してしまい、本編を描き続けるモチベーションを失った。そのため、これまでに最後まで漫画を描き切ったことはいちどもない。そういえば最近読んだ「漫画の描き方」の本に、表紙は最後に描くのがコツ、とあった。早く教えてよ、と祐樹は思った。
 千九百八十年十二月、その年の暮れは、祐樹にとっていつもの年末と少し違っていた。
 十二月十日発売のアニメ専門誌「アニメージュ」千九百八十一年一月号に、「二月二十二日に新宿アルタ前広場に『ガンダム』ファンは集まれ」とあったのだ。ちなみに、このころアニメ雑誌と言えば、アニメージュ、OUT、アニメックが三大誌で、OUTに連載されている「ガンダム」の富野監督をモデルにしたパロディ漫画を祐樹は読みたかったが、お小遣いが足りないのでアニメージュだけ買ってOUTを我慢した。
「おまえ新宿へ行くのか?」と秋彦。
 祐樹と同じクラスに少し太めのいじめっ子のやつがいるのだが、一時間目の国語のあとに声をかけてきた。秋彦とは幼馴染みで、お互い赤ん坊のころからの知り合いだ。もちろん保育園も一緒。赤ん坊のころからいじめっ子だった。いじめっ子だが、祐樹はいじめられたことはない。秋彦がほかの子をいじめているのをよく目撃した。秋彦のいじめをとめて、よくケンカになった。秋彦は毎度、何とかキーックを繰り出してきたが、祐樹はブルース・リーよろしくカンフーっぽい技で防御した。
「行くつもりだよ」
 祐樹は答えた。
「おまえ、ガンダムのどこがいいんだよ」
「スケールが大きいだろ。だって、地球の周回軌道上のコロニーのひとつが独立宣言して、地球連邦軍と戦うんだよ。
 それにロボットのことをロボットとは言わないんだ。モビルスーツって言うんだよ。かっこいいよね。しかも宇宙空間にミノフスキー粒子をまかれたら、レーダーは使えないんだぞ。すごいだろ。
 えっとそれから、人類が宇宙に進出したことで新たな能力が覚醒した新人類のニュータイプも登場して・・・」
「わかった、わかった。
 うちのにいちゃんもガンダムが大好きだっていうんだけど、おれにはピンとこないな。ロケットパンチも飛ばないし」
「坊やだな」
「なにっ」
 秋彦が祐樹のシャツの襟をつかんでしめあげてきた。
「や、やめろ・・・」
「もういちど言ってみろ」
「く、くるしい」
「なにやってんだ、おまえたち」
 担任の浦山先生がとめに入った。お相撲さんみたいに大きい先生だ。
「祐樹がおれのこと、坊やだって言ったんだ」
「坊やだろ、どう見たって。まだ生えてないだろ、おまえ」と先生。秋彦が顔を赤くして、
「だ、だってだって」
 祐樹は、帰宅すると録画してあった「機動戦士ガンダム」の第三話を見始めた。
 このビデオデッキは、ソニー製のベータマックスJ1だ。十七万円したが、父親が買ってくれた。大卒の初任給が十一万円くらいの時代だ。祐樹の実家はガソリンスタンドを経営していたので少し裕福だった。父親が知り合いの電気屋に定価より値引きさせたらしい。
 ビデオカセットテープがぐわっしゃーんとか大きな音を立てて、シルバー・メタリック塗装の鋼鉄の箱の上から飛び出してくる。世界に誇るソニーの大発明だ。カセットが上から出てくるので、デッキの上に物は置けない。そこが少し不便だった。そこで二十インチの木製家具調ブラウン管テレビの上に置いていた。重厚長大なしろものだった。
 祐樹は店を手伝うからと、ねだってねだって二か月がかりで父親を口説いて買ってもらった。
「機動戦士ガンダム」のテレビシリーズは、全部で四十三話ある。本当は五十二話までの予定だったものが、視聴率が悪くて、九話を残して打ち切りになったのだ。録画したのは人気が出てきたころの再放送分だ。
 実は、本放送の時、祐樹は第一話を見逃した。毎週土曜日の夕方五時三十分のアニメの枠は、それまで大型のロボットが活躍する子供っぽいアニメが多かったので、ガンダムのデザインを見たときにどうせ同じだろうとあまり気にかけていなかったのだ。放送局が、東京キー局でなく、名古屋のテレビ局発だったので、祐樹は少しなめていた。ちなみに安房町では、UHF局の千葉中央テレビでの放映だった。家の屋根にアンテナを立てていたので風が強い日は画質が乱れた。
『そういえば、「宇宙戦艦ヤマト」も千九百七十四年に大阪局から始まったときは、カルピス劇場「アルプスの少女ハイジ」の裏だったよな。それがあっという間に全国区になるんだから、地方局をなめたらあかん』祐樹は独りごちた。
 秋彦の兄の春彦が、「すごいアニメだ。ルーカス、スピルバーグの実写を超えた」とか大騒ぎして祐樹に電話してきたので、それから見始めた。
 確かに第二話で頭をガツンとやられた。第一話を見逃したのをものすごく悔やんだ。
 その日から、祐樹はソニーのベータマックスがほしくてほしくてたまらなくなった。
 春彦がベータマックスの旧式の中古を持っていたので、だいぶあとになってだが、春彦の家で第一話を見せてもらった。
 月の裏側のサイド3に位置するスペースコロニーのひとつである「ジオン公国」が放ったモビルスーツ・ザクの軍団が地球連邦のスペースコロニーへ侵入して奇襲攻撃をかけるオープニングに、祐樹はしびれてしびれてしびれまくった。
「もうこれはお子ちゃまアニメではない」祐樹と春彦はとび上がって両手でハイタッチした。
 祐樹は結局、全四十三話をもう三巡くらい見たと思う。見るのに忙しくて店の手伝いはしていない。
 第三話には、主人公メカのガンダムとこれに搭乗する主人公のアムロ少年はすでに登場している。しかし、主人公ではないが、第二話で登場した独立宣言をしたコロニー「ジオン公国」のシャア少佐のことが祐樹は気になって仕方がなかった。
 シャア少佐はアムロ少年よりだいぶ年上で二十歳。春彦と同い年だが、春彦に比べ圧倒的に大人な感じでかっこいい。彼の搭乗する敵メカのモビルスーツが赤い色のザクというやつで、祐樹は、このメカが主人公メカのガンダムより気に入ってしまって、画用紙に何度も模写した。色鉛筆で赤色に塗って、自分の机の前に貼ってある。シャア少佐が搭乗する専用ザクは、他の量産型ザクが緑色に塗られているのに対し、ひときわ目立って特別感を醸していた。
 モビルスーツは、従来の巨大ロボットアニメと異なり、高さが十七、八メートルほどで、パイロットが搭乗するが、機体を着る感覚、スーツそのままだ。主人公メカのガンダムはスポンサーの意向なのか、赤と青と白と黄色の信号みたいな色で塗られて子供っぽいが、敵メカのザクとかドムとかは緑や紫など、渋くて大人っぽい。子供は本当は大人っぽいのが好きなのだ。作り手が敵メカのほうにやりたい放題情熱を傾けたに違いない。
「おにいちゃん、ご飯だよ」
「わかった、今いいとこなのにな」
 階下から妹の留美子が声をかけてきた。
 留美子は小学二年生だ。ときどきいっしょに「機動戦士ガンダム」の録画を見る。けっこう詳しい。
 留美子は祐樹よりずっと子供なのに、
「シャア少佐、いいよね」
 生意気なことを言う。
「認めたくないものだな、自分自身の未熟さというものを」
「やめろ、留美子」
 留美子を追いかけて祐樹は階段からころげ落ちそうになった。
 夜六時。阿部家の夕食の時間。
 子供とおばあちゃんはこの時間が夕食タイムだ。
 父親と母親は、店を閉めた九時過ぎに晩御飯だ。
 アルバイトのおにいさんが七時に帰るので、そのあとは閉店まで両親二人で店番をする。
 母親は、夕食の支度をしたあとで、店のほうへ行ってしまう。
 ガソリンスタンドは、家の前にあった。コンクリートの高い塀で住居と仕切られていた。
 二十年前に祐樹の祖父が始めたガソリンスタンドはだいぶ老朽化して、店舗のコンクリートの壁はいたるところで塗料が剥げていた。だがガソリンの計量機だけは銀行から借金して、最近、手動式から電動式に切り替えた。おかげで給油が楽になったそうだ。
「お母さん、二月に新宿へ行きたいんだけど。日曜だからいいよね。
 アニメのイベントなんだ。全国からファンが集まりそうで、すごくすごく重要なイベントなんだ」
「お小遣いがほしいということ?」
「まあ、そうだけど、交通費と食事代とおやつ代と」
「お父さんにも相談しとくね」
「私も行く」
「だめだよ、留美子は。ちびっこが行くとこじゃない」
「留美子はあたしとお留守番しようね」
 八十歳のおばあちゃんがもごもご言う。入れ歯を制作中で、前歯がない。
「私もよくよく運のない女だな」残念そうな留美子。
「やめろ、少佐っぽくやるの」
 次の日、教室で、秋彦が、
「うちのにいちゃんが、新宿のイベントに行くって言ってたぞ」
「そうだろ、大事な大事なファンの集まりなんだぞ」
「おれにはわからないな。ロケットパンチも飛ばないし、ライダーキーックもないし」
「坊やを卒業すればわかるさ」
「なにっ」
 秋彦がつかみかかろうとするが、
「見せてもらおうか。おまえの性能とやらを」
「何言ってんのか、わかんない」
 秋彦は争う気力がなくなってしまった。
「にいちゃんが、遊びに来いと言ってたぞ。ガンダムの話がしたいって」
「うん、わかった。クラスじゃ話ができるやつがいないし、な」
 祐樹は、この日、学校帰りに春彦の家に寄った。
 春彦の家は、棚田地帯の斜面のふもとにある。
 入り口に立派な漆喰壁の長屋門を構える大コメ農家だ。木造の大きな屋敷だ。
 夕焼けの中、ひゅうと山から吹き下ろす北風が稲の刈られた田んぼから泥土のにおいを運んできた。
 長屋門をくぐると、納屋の前で秋田犬が吠えていた。太い鎖につながれているが、こんなのに噛まれたらと思うと恐ろしい。『たまには散歩してやれ』秋田犬はうんこまみれで吠えていた。
「にいちゃん、連れてきたぞ」
 秋彦は、二階の春彦へ声をかけた。
「おう、祐樹、久しぶり」
 春彦が、しばらく前に見た時より、ひと回り大きくなっていた。作業でもしていたのかオイルまみれの白のつなぎ姿だ。髪はもじゃもじゃで不精髭を生やしていた。
「春ちゃん、太った?」
「おう、毎日、ガンダムの録画ばっかり見てるからな。からだ動かしてないもんな」
 春彦は、昨年の春に鴨川の短期大学へ入学したが、既成のサークルには入っておらず、ひとりアニメクラブを自宅でやっているそうだ。
 いちどSFアニメサークルを覗いたものの、「宇宙戦艦ヤマト」のファンばっかしで話が合わないので、入部しなかったそうだ。
「にいちゃん、あとはごゆっくり」
 秋彦は一階の茶の間でテレビを見るそうだ。バラエティらしい。
 鶴太郎の「小森のおばけちゃま」の物まねの声が聞こえてくる。「あはは、あはは」秋彦が笑い転げておなかが痛そう。
「おまえ行くだろ、新宿のイベント」
「行きまーす。ぜったい」
 春彦が、アニメージュの記事を手に取りながら、
「全国からガンダムファンが集まるらしいぜ。
 えーと、午前中が、新宿ピカデリー劇場で、お気に入りのキャラクターに扮した仮装大会で、十二時から、新宿駅東口アルタ前広場で、監督、スタッフ、声優の挨拶とアルタの巨大電光掲示板を使って抽選会があるぜ。映画の主題歌「砂の十字架」を歌う、やしきたかじんの生歌披露もあるって。
 ところで、やしきたかじんって、だれだ。作詞作曲・谷村新司、ってのもひっかかるなあ。ガンダムのイメージに合わないと思うけどなあ。どうせ、配給会社の松竹がタイアップとか言って変な要求出したんだろ。制作会社の日本サンライズもなんで言うこときいちゃうんだろね。広場で行う『アニメ新世紀宣言』ってのが、いったい何を宣言するのかな。富野監督が原稿書くとしたら、きっと難しい言い回しなんだろね。俺には理解不能だったりして」
 二階の春彦の部屋はアニメ部屋だ。六畳の和室の壁は、アニメ誌の付録を貼り付けたんだろう、ガンダムのキャラクターでいっぱいだ。
 本棚には、ガンダムのプラモデル「ガンプラ」が十体ほど並んでいる。
RX-78ガンダム、MS-06Sシャア少佐専用ザク、MS-06量産型ザク、MS-07ドム・・・この型式番号というやつが工業製品みたいでリアル感満載だ。それにしても敵のモビルスーツが多い。
 シャア少佐のポスターと彼の愛機「赤い彗星 ザク」のポスターの間に、なぜか春彦が高校の修学旅行で訪れた奈良や京都の長三角のペナントが見えていた。端がはがれてペラペラしていた。
 小ぶりな折り畳み式の座卓をはさんで、祐樹と春彦は向かい合って座った。春彦が、缶のペブシコーラを出してくれた。春彦はコカコーラは飲まないそうだ。ペプシのほうが大人の味がするんだそうだ。『こだわるなあ』
「テレビシリーズをまとめた映画『機動戦士ガンダム』第一部の公開が、えーと三月十四日の土曜日だよな。テレビシリーズを再編集して十六ミリから三十五ミリにブローアップして、そこへ安彦さんの新作描きおろしカットも加えて、とあるぞ。安彦さんの新作が多いといいなあ。安彦さんの線は美しいよなあ。テレビシリーズの時に一回倒れているから、オール新作は無理かなあ。見たいけどな。第一部公開ってことは、三部作か四部作ってこともあるかな。
 えへへ、なんかすごい楽しみになってきた」
 ガンダムの話をしているときの春彦はうれしくてしょうがないといった感じで、全身から笑みがこぼれている。ペプシを飲みながらしゃべるので、炭酸の泡が祐樹の顔に飛んできた。『汚ねえなあ』
「春ちゃんは、仮装大会に出るの?」
「いやあ、予選があるらしいので、俺はいいや。それに俺、人前に出るの苦手なんだ。小学校の学芸会もぜんぶ休んじゃったしな。お昼のイベントには絶対行くけどな。おまえも一緒に行くだろ?」
「行く、行く」
「そしたら、前の日に出発するぞ。きっと道が混むからな」
「え」
「夜中の出発だ」
「夜中、電車ないよ」
「大丈夫さ、俺、去年の夏休みに車の免許とったんだ。乗せてってやるよ。
 表にあったろ、日産サニーの中古車。千四百CCだけどよく走るぜ」
「お父さんが許してくれるかな」
「やっぱ、まだ坊やだな。こんなイベント、一生に一度しかないと思うよ。 危険を冒す価値があるぞ」
 夜中の出発と聞いて、祐樹は迷った。
『やっぱり次の日の朝、一人で行くかな。だって夜中の出発なんて、両親が許すわけないもん』
 一月も半ばをすぎた。
 すっかり正月気分も抜けて、祐樹は、小学校卒業まであとわずか、毎日、小学校のまとめの勉強に励むつもり、だったが、新宿のイベントの予習だとか言い訳を考えて毎日「ガンダム」のビデオを見続けた。何巡したかしれない。セリフもそらで言えるくらいだ。
 祐樹は三月に卒業して、地元でただひとつの町立中学校に入学する。安房中学校には、北部と中部と南部の小学校からそれぞれ生徒が集まってくる。合わせて二百人くらいなので、初めて五クラスできるらしい。ちなみに中学校は中部地区にある。
『ガンダム好きもいるのかな。
 中部のやつらは、同じド田舎のくせに少し都会面をするらしい。たしかに中部地区は、安房町の中では人口が集中しているので都会と言えば都会かな。文房具屋があるしな。いろんな小売店が入った「デパート安房」もあるし。お母さんが、去年のクリスマスに、デパート安房の肉屋でアイスのチョコレートケーキを買ってきた。おいしかったな。肉屋が何でケーキを売るのか知らないけれど。
 それより、中学生になると男は頭を丸刈りにしないといけないらしい。しかも自転車通学のときは、黄色い横線の入った白いヘルメットをかぶるらしい。工事現場じゃないんだから、ふざけんな。坊主頭でヘルメットで学生服で白の運動靴、そんなのダサすぎて想像したくない。
 東京へ行くときもその格好で行けと先生が言うらしい。
 そんなダサい奴、スペースコロニーにはいないぞ。ママチャリじゃなくて、ぼくはほんとはモビルスーツに乗って中学へ行きたいんだ』
・・・祐樹の心の声はまだまだ続く。
 鴨川の私立を目指すクラスメイトも数人いたが、祐樹はとくに勉強が好きなわけでもないので、そのままなんとなく公立に行くことにしていた。
 最近は、アニメーターもいいな、とか、アニメのシナリオライターもいいな、とかとにかく自分の才能があるかどうかはさておき、大人になっても面白いことしかしたくない、なんて思っている。
『お父さんは、やっぱりぼくに店を継がせたいのかな。
 大学の工学部へ行けとか言っている。工学部へ行って車の修理でも習うのかな。どうせなら、自分はモビルスーツの開発をやりたいぞ』
 祐樹は「アニメージュ2月号」を近所の郵便局で買った。
 なんで郵便局で買うかというと、地元には本屋がなく、簡易郵便局のおばさんが、軽自動車で鴨川の本屋で仕入れてきてくれるのだ。棚田しかない安房町にコンビニなんかもちろんない。ニュースでしか見たことない。
 祐樹は、毎週月曜日、郵便局の前で、学校帰りにおばさんの帰還を待ちわびた。
 大工見習の青年と、親戚の四年生のまーくんと、スナック「リビエラ」のママら、漫画好きの常連数人で待っていた。
 祐樹は、月刊誌のアニメージュと、週刊の少年ジャンプを購読していた。
アニメージュは五百九十円。少年ジャンプは百七十円。新品の雑誌のページを開いた時のインクのにおいが大好きだ。東京のにおいがした。
 ちなみにジャンプの連載漫画では、SFギャグマンガ「Dr.スランプ」が好きだった。
 絵がうまい。こんなにうまい人は、大友克洋以来だ。作者は愛知県にいるらしい。東京にいなくても漫画家をやれる時代が来たようだ。「んちゃ」
アニメージュ2月号には、「まもなくガンダムのイベント」の大きな広告が出ていた。
 ガンダムの特集も組まれていた。富野喜幸監督と作画監督の安彦良和さんとメカデザイナーの大河原邦男さんのインタビューがのっていた。こんなに大きな特集は、祐樹の記憶では、「宇宙戦艦ヤマト」以来だと思う。
 きっと全国から多くのファンが押し寄せるに違いない、でも地元では春彦以外のファンに会ったことがない、本当に人気があるんだろうか。ちょっと不安もよぎったが、祐樹は自分を信じることにした。
 二月に入った。
 寒さも一段と厳しくなり、千葉の山間部は朝など零下になることもあった。
 小学校までは徒歩で十五分。近所の十人ほどで集団登下校をする。棚田の中腹にある祐樹のスタンド前が集合場所になっていた。
 小学校は棚田のてっぺんにある。みんなが歩きながら吐く息は真っ白だ。道端の溝に今朝は氷が張っている。
 祐樹は登下校の時にいつもその時代の流行歌を口ずさんでいた。このころ流行っていたのは久保田早紀の「異邦人」だ。
 ♪ちょっとふり向いてみただけの異邦人♫
 祐樹のランドセルは、シール跡でベタベタネバネバだった。ガンダムのシール跡はないが、一年のときに流行ったあれ、三年の時に流行ったあれ、その時代ごとに流行ったアニメのシールをべたべた貼ってきた。
「にいちゃんが呼んでるぞ」
 二時間目の算数のあとで、秋彦が声をかけてきた。
「車を見てほしいって。ザク、ザクって叫んでた」
 その日、祐樹は、学校帰りに春彦の家に寄り道した。ここから祐樹の家までは徒歩で十分ほどだ。
 棚田の緩斜面のふもとに建つ、大きな「ぽつんと一軒家」が見えてきた。
 夕陽を浴びて墨一色となった屋敷のシルエットがくっきりと美しかった。
 納屋の前で秋田犬が吠えていた。菊次郎の名に似合わず、あいかわらずうんこまみれだった。『散歩してやれよ』
 広い中庭の一角に、トタン屋根のガレージがあり、その前で春彦が立っていた。白のつなぎがペンキまみれになっていた。
「おう、待ってたぞ」
「車を見てほしいって?」
「おう、俺のザクを見てくれ」
 ザクと呼ばれた中古車のサニーは、全体が赤色に塗装されていた。車の周囲にペンキの空の缶が三つほど転がっていた。千四百CC・四ドアセダンの「赤い彗星」が完成していた。
 どうやら自分で塗ったらしい。あちこちに塗りむらがあった。
「俺のこと、今後は少佐と呼んでくれ」
「すごいね、少佐専用ザクだね」
「いよいよ来週だな。ザクで新宿へ出発だあ」
 用意はすっかり整っていた。
 が。車でいっしょに行けそうにないことを、祐樹はこの日、春彦に言えなかった。
 二月二十一日になった。今日は土曜日で明日は日曜日、「新宿のイベント」の日だ。
 学校は半ドンで午後になれば好きなだけ明日の支度ができるのに、祐樹は朝からそわそわしていた。
 どうしよ、どうしよ。
 まだ、車で行けないことを春彦に言っていなかった。
「おにいちゃん、私も行くからね」と留美子。
「だめだめ、すっごい混むからね、迷子になるぞ」
「実は、あんまりファンはいないってうわさもあるよ」
「そんなことない」
「私のまわりにファンはひとりもいないよ。『キャンディ♡キャンディ』のファンはいっぱいいるけどね」
 夜になった。
 晩御飯をいつものように六時半に済ませ、祐樹は部屋にこもって明日の支度を始めた。
『お小遣いはお母さんからもらったし、おばあちゃんからもお菓子代を少しもらったし、ズボンのポケットに財布を押し込んで、と。先がはみ出して、なんか落ちそうだな。ひょっとしたら安彦さんのサインがもらえるかもしれないので、黒のナップサックにガンダムのポスターを丸めて二本左右に差し込んで、これをしょったらまるでガンダムのビームサーベルのようだね。サイン用の黒いマジックペンも一本入れて、あとは、人混みで汗をかくかもしれないので着替えのTシャツを一枚、そんなところかな。ちなみにTシャツにはザクの絵をマジックペンで自分で描いた。あんまり似てないけど、ま、いいや。
 あっと、マフラーと手袋と、そして朝食のあんぱんも入れとかなきゃ。電車の中で食べるのだ。そして水筒と、念のために人混みでけがした時の救急絆創膏と、もちろん地図も。朝早いから懐中電灯も。あとは寝るだけだな』
 祐樹はゆっくり風呂に浸かって、明日のことを夢想した。
『五時半に起きて、六時十五分の安房駅の始発に乗って、木更津で乗り換えて内房線で新宿を目指すのだ。昼開始だけど、少し早めに着くくらいでちょうどだな』
 そんなことをぐるぐる考えていたら、いつのまにか風呂の中で眠ってしまった。
 風呂水を少し飲んだ。
 九時に布団に入ったが、興奮してなかなか眠れずにいた。
 それでも、うとうとし始めた深夜零時を回ったころか。窓ガラスにコンコン、何かが当たる音がして祐樹は目を覚ました。
「猫かな、うるさいな」
 祐樹はカーテンをあけて外を眺めた。
 いた。ガソリンスタンドの前に、あのサニーが。
 ロープが張ってあるので、ガソリンスタンドの敷地には入ってこなかったが、スタンドの前の街道沿いにサニーが停まっていた。街灯だけで暗くはあったが、赤色に輝くあのモビルスーツ・ザクだった。ハザードランプが点滅していた。
 祐樹の家は、ガソリンスタンドの真裏にある。同じ敷地にある二階建ての鉄筋造りだ。スタンドの塀と倉庫の間に通路があって、家の玄関へ続いている。
 春彦が、通路のあたりから紙つぶてを祐樹の部屋の窓に投げつけていた。
白いつなぎの上にジージャンをはおり、靴下にサンダルのいでたちだった。 少し寒そう。
 祐樹がサッシ窓を開ける。
「来たぞ。降りて来いよ」
「えっ、だめだよ」
 祐樹は「しーっ」とやるつもりで口に人差し指をあてた。
「行くぞ。約束だろ。武士に二言はないぞ。富野監督も言ってるぞ」
「そんなこと言ってたかな。それにうちは商人だし」
「いいから、早く降りて来い」
「でもどうやって」
「となりの倉庫に飛び移って、そこの非常階段で降りて来い」
 これ以上騒ぐと家族が起きてくると思い、仕方なく、祐樹は、大急ぎで着替えた。赤いチェックのシャツに厚めのネイビーのジャンパーをはおり、下は、ジーンズで白い運動靴のいでたちだ。靴はたまたま洗ってベランダに干してあった。
 祐樹はナップサックをしょって二階のベランダから隣の倉庫の外階段に飛び移り、階段を降りた。
「用意してるじゃないか」
「一人で明日行くつもりだった」
「一緒に行くって、約束だろ」
「そうだぞ。ひとりで、させるかぁ!」
 振り向くと、そこに留美子がいた。
 小さな真っ赤なナップサックをしょっている。白いとっくりセーターに厚手の赤いジャンパーをはおり、下はジーンズで赤い運動靴。祐樹に似た格好だ。
「なんだ、おまえ」
「おにいちゃんだけ行くのはずるいよ。そんなことだと思って玄関でしずかに待ってたよ」
 騒ぎが聞こえたのか、一階の電気がついた。
「うわ、まずい」
 祐樹は留美子を抱えて走った。
 サニーのうしろに乗り込んだ。
「さあ、出っぱーつ」と春彦。
「るみこ、行きまーす」と留美子。
 助手席に知らない女の人が乗っていた。
「あたし、玉枝。よろしくねっ」
「玉枝は、俺のともだち。まだ恋人じゃないよ」
「面白そうだからついてきた」
 玉枝は春彦がサニーを買った中古車販売店の事務員だそうだ。
 爪をのばしていて、茶髪でロン毛で、イケイケな感じだった。ピンク色のミニのワンピースで、黒の革ジャンをはおっていた。
 祐樹が後ろを振り向いた。
 スタンドの前に人が立っているのが見えた。パジャマ姿の父親だった。
『怒ってるだろうな。でももう、後戻りはできない、ええい、一生に一度のことだ』
 祐樹は覚悟を決めた。
「おにいちゃん、大丈夫だよ。一応、ママに行ってきますって、ちゃぶ台に手紙を置いといた」
「ああ、おまえは、ほんとに」
 祐樹は頭を掻きむしったが、抜け目ない妹をたくましくも思った。サニーはひた走った。新宿を目指して。
 安房中央林道に入った。山道が続く。舗装が悪く、ところどころに穴ぼこがあって、そのたびに車が悲鳴を上げた。
 車の悲鳴と同時に祐樹たちも悲鳴を上げた。クッションがいまいちで、振動が直接伝わってきた。
「痛いよ、もっとていねいに走ってよ」と祐樹。
「がまんしろ、千葉は道路が良くないんだ」と春彦。
 二月の冷え切った山からの風がびゅうと車を襲う。
 暖房装置は音ばかり派手で、いまひとつ効きが悪い。足元から冷えてきた。
 林道から上総(かずさ)広域農道へ抜けた。
 田んぼや畑がひたすら続く。南の空に月が見えた。空気が澄んでいる。
 犬の遠吠えが聞こえてきた。遠吠えが連鎖して、あちこちからおこる吠え声がカーンと冷え切った夜空にひびく。よく声のとおる犬もいて。美声に酔っているのかな。ひょっとしてオオカミが混ざっているのかも。
 少し欠けているが、ほぼまん丸の月が暗い夜道をこうこうと照らしていた。
『ぼくらを応援してくれている』祐樹はそんな気持ちになった。
 林道や農道を北西に向かって走ること二時間、ようやく海が見えてきた。東京湾だ。
 木更津を抜け海岸線にそってさらに北上する。祐樹が窓の外を見る。月が追いかけてきた。
 東京まで続く京葉道路は、それまでの道と比べればはるかに舗装がよいので、ドライブは快適だ。
 春彦がカーステレオでガンダムの主題歌「翔べ!ガンダム」を延々とかけつづける。カセットテープがだいぶすり減っているみたいで、音が時々かすれた。
 春彦が口ずさむ。
「祐樹、おまえも一緒に歌え」
 春彦と祐樹と留美子が歌った。玉枝は歌詞を知らないみたいで、窓ガラスを少しおろして煙草を吸っていた。
 中古のサニーは順調に走った。
 かに見えた。が、袖ケ浦を抜けたあたりから、急にスピードが落ちてきた。
「山道でなんか踏んづけたかな」
 車がゆっくりと停まる。
 春彦は車の外に出て、タイヤを眺めた。四本のタイヤを順に指で押してみる。
「右の前輪から少し空気が漏れてるな。パンクだ。道理でハンドルを取られると思った。あぶねえ、あぶねえ。交換するから、少し待ってろ」
 春彦は、車を路肩に寄せた。ハザードランプを点滅させる。
 そして後ろのトランクをあけて、交換用のタイヤとジャッキを取り出した。
 祐樹たちも車を降りた。
 京葉道路はこんな夜中もけっこう車が行きかう。千葉県の幹線道路といった感じだ。
「おにいちゃん、おしっこ」と留美子。
「しょうがないなあ」
 祐樹は留美子の手を引いて道路わきに広がる田んぼの方へ降りて行った。「おにいちゃんだって、したいんじゃない」
 用を足して車に戻ると、春彦がジャッキで車を上げて、タイヤ交換の真っ最中だった。
 そばで玉枝がしゃがんでその様子を見ている。煙草をくゆらせている。煙が、通り過ぎる車の風を受けてそのたびに右へ左へなびいている。かなりのヘビースモーカーだ。いつも吸っている。
 ワンピースの胸元が大きく開いて谷間がのぞいていた。玉枝は春彦より少し年上に見えた。
 タイヤ交換を終え、サニーは走りを再開した。
「三十分ロスったな」と春彦。
「気分を盛り上げるぞ」
 みんなで「翔べ!ガンダム」を歌った。
 ♪も、え、あ、が、れ、もえあがれ・・・♬
 助手席の窓からたばこの煙をたなびかせながら、サニーはひたすら走りつづけた。煙を吐いて進む「デゴイチ」機関車のごとく。
 午前四時。
 月はだいぶ西の空へ傾いていた。
「もうすぐ江戸川を越えるぞ。東京は目前だ」
 春彦が叫んだ。
 三百メートルほど先に、江戸川にかかる大きな橋が現れた。
 千葉と東京を区切る国境線とも言える市川大橋だ。前年に完成したばかりだ。
 江戸川は満々と水をたたえ、悠然と流れていた。
「俺たち安房の独立軍は、地球連邦の陣地へこれから突っ込むぞ。
 みんな、覚悟はいいか」
 春彦がやけに元気だ。調子が出てきたみたいだ。
 ガタンゴトン、ガタンゴトン、サニーが市川大橋の鉄橋を渡っていく。
 途中まできたところで、サニーのボンネットから白い煙があがった。
 スピードが落ちる。
「おいおい、俺の赤い彗星、しっかりしろ」
 うしろの車がクラクションを鳴らす。大型トラックだ。
 ヘッドライトをチカチカさせている。
「やべえ」
 祐樹が首を引っ込める。
 玉枝が助手席の窓をあけて顔を出し、うしろのトラックの運ちゃんに挨拶した。
「ごめんねえ」
 ウインクしたかどうか知らないが、トラックがパッシングをやめて、ゆっくりサニーのあとをついてきた。
 トラックの後ろには十台ほどの車が従った。おとなしく。
 白い蒸気を吐き出しながら、時速三キロのスピードでサニーは十分かけて橋を抜けた。そして道の端に車を寄せた。
 玉枝がトラックの運転手に手を振って見送った。
「ありがとね」
 トラックは「プ」と一声クラクションを鳴らして去った。
 トラックの後に車が十台ほど続いた。大型トラックも二、三台見かけた。脇に停めたサニーを降りて、春彦はボンネットをあけた。
 白い蒸気が勢いよく噴き上がった。
「わ、オーバーヒートだな。
 祐樹、ごめん。車はだめだ。JAFを呼ぶわ。悪いけど、おまえたち、先に行ってくれ」
「え」と祐樹。
「悪いな、ポンコツだけどこのサニーは俺の宝なんだ。
 赤い彗星を置いてくわけにはいかないだろ。直ったら追いかけるよ。
 今日、アニメの新時代が始まる。きっと全国から集まるぞ。おまえが目撃するんだ」
 祐樹は春彦から肩を押された。
 玉枝が、うしろからやってきた大型トラックに向けて手を上げ、停車させた。手練れのヒッチハイカーみたいだ。側面が開閉するウイングタイプの大型十トントラックだった。
 運転手に何やら話しかけている。
 それから祐樹の方へ駆けてきて、
「勝鬨(かちどき)まで乗せてってくれるって」
 祐樹は、留美子の手を引いて、うしろを振り向き振り向きしながら、トラックの助手席へ乗り込んだ。運転席の位置が高いので祐樹が先に昇って留美子を引っ張り上げた。
「元気でね」
 玉枝がにこやかに手を振っていた。
「あんた、ダサいねえ」
 春彦に向けて玉枝が愚痴るのが見えた。
 玉枝と春彦の姿が遠ざかっていった。
「ありがとう」
 祐樹と留美子は、勝鬨橋の手前で降ろされた。あたりはまだ暗い。
 祐樹の腕時計が、午前五時を指していた。父親からもらったお古の腕時計だ。
 ここに電車の駅はない。勝鬨橋を渡って銀座まで行かないと。
「俺はここからちょっと戻って倉庫へ行くんで悪いな。じゃ、気をつけて」
 頭にタオルで鉢巻きをしたおじさんはやさしく言った。
 真冬の寒さが身に染みる。時折吹き寄せる北風が祐樹と留美子の身体を硬直させた。
 ナップサックからそれぞれマフラーを取り出し、ふたりは首に巻き付けた。毛糸の手袋もはめた。
 祐樹がナップサックにしまっていた地図を広げ、懐中電灯で照らす。
「新宿までは、直線で十キロくらいか。早く電車に乗りたいなあ」と祐樹。
 ここから勝鬨橋をわたって銀座で地下鉄に乗って、いよいよ目標の新宿だ。
「おにいちゃん、おなかすいた」
 祐樹はナップサックから電車で食べるはずだったあんぱんを一個取り出した。
「半分あげる」
 留美子が受け取ったあんぱんを半分に割って祐樹によこした。
「おいしいね。おにいちゃん」
「ほんとだ。甘いのがおなかにしみるよ」
 ふたりは仲良くあんぱんをかじりながら歩を進めた。
 車道と鉄の防護柵で仕切られた勝鬨橋の歩道を歩く。橋の外は海へ続く大きな隅田川。街灯に照らされ、どおどおと、ゆっくりゆっくり静かに流れていた。
 留美子が、「翔べ!ガンダム」を鼻歌で歌い始めた。
 祐樹もつられて歌いだす。
 ♬機動戦士 ガンダム ガンダム♪
 ふたりは「翔べ!ガンダム」を合唱した。途中から大声になったが誰も聞いていない。車はけっこう行きかうが、人はほとんど歩いていないのだ。橋の真ん中で酔っ払いのおじさんがひとり川に向かって吐いているくらいだ。
 勝鬨橋を抜け、築地を過ぎて、銀座に到着した。
 午前五時三十分。街灯で街は明るいが、人通りは少ない。
 四丁目交差点の三越デパートの前までやってきた。店頭のライオン像にもたれて二人はしばし休憩をとる。
 ナップサックから水筒を取り出して、二人はおのおの飲んだ。ただの水道水だ。
「おいしいね」
「うん、おいしい」
 ライオン像から振動が伝わってきた。
 地下鉄が動き始めているようだ。
 カラスが数羽、そこかしこのビルの前に置かれたごみの袋をつついている。くわぁくわぁ、というカラスの鳴き声が上空でビル群にこだまする。
 空はまだ暗い。
 ふたりは地下鉄へ続く階段を下りた。
「ごめん、留美子」
「なに?」
「おにいちゃん、どうやら田んぼで財布落としたらしい」
 地下鉄銀座線の切符売り場の前で、一銭もお金がないことが判明した。
 留美子がポケットの中をさぐると、百円玉が一枚出てきた。初乗り運賃は八十円だ。
「これじゃ二人で乗れないね」
「新宿まで歩こう。お昼のイベントだから間に合うよ。山で鍛えてるから大丈夫だ。帰りは何とかなるさ」
「認めたくないものだな、自分自身の過ちというものを」
「今、言うな」
 二人は歩き始めた。
 日比谷に出た。晴海通りを祝田橋で右折、内堀通りを進み、皇居を左に見ながら二重橋前、大手門を過ぎて竹橋方向へ進む。お濠では、ずんぐりした可愛らしいヒドリガモが二羽、ぷかぷかと心地よさそうに浮かんでいるのが見えた。寒くないのだろうか。
 東の空が白み始めた。
 午前六時三十分。毎日新聞社の社屋の前にやってきたあたりで、
「おにいちゃん、足が痛い」
 祐樹がしゃがんで留美子の足を見てやる。
「右のかかとの皮がむけてる」
 祐樹が留美子のかかとにナップサックに入れてあった救急絆創膏を貼り付けた。
 九段下を抜けて靖国神社を右に見て、靖国通りを市ヶ谷駅までやってきた。空がだいぶ明るくなってきた。
 祐樹の腕時計が午前七時三十分を指していた。ずっと歩き詰めだ。
 留美子の歩みがかなり遅くなってきた。
「おにいちゃん」
「どうした」
「つかれた」
 市ヶ谷駅を抜けてお濠を渡ると、正面にコンビニが見えた。二十四時間営業を始めたセブンイレブンだ。
 オレンジと緑、赤の三本線の看板が、明るく輝き、遠くからでもよく目立つ。
 砂漠にオアシス発見。
 ふたりはセブンイレブンに立ち寄り、トイレを借りた。
 留美子の百円で、あったかくてあまーい缶のミルクコーヒーを買って二人で分けて飲んだ。
 店内はけっこう混んでいた。
「今日、シャア少佐の声優もくるんだぞ」
「おれ、抽選で映画の予告編を当てたいな」
「やしきたかじん、ってどう?」
「新世紀宣言を川村万梨阿と永野護が読み上げるんだって」
「誰だ、その二人?」
 ガンダムのファンが集まっていた。
 小学生はいない。みんな高校生か大学生に見えた。
 ただ、全員が祐樹と同じようにナップサックをしょって丸めたポスターの先を二本出してビームサーベルの様にしていた。アニメージュを大事そうに抱えている少年もいる。
 これならすぐにファンだとわかる。初対面でも。
 午前七時五十分。祐樹と留美子は店を出た。
 空がすっかり明るい。今日はよい天気になりそうだ。
 朝の空気は澄んで、きーんと祐樹と留美子の頬を刺した。
 吐く息は真っ白だ。
 二人は首に巻いたマフラーをきつくしめた。
 午前八時十分。靖国通りを西に進んで、陸上自衛隊市ヶ谷駐とん地の前までやってきた。
 正門の前に門番が二人立っていた。祐樹と目が合ったが、祐樹はすぐに視線をそらした。
 急な登り坂を前に留美子の歩く速度がかなり落ちてきた。
「おにいちゃん」
「どうした」
「足が痛い」
 祐樹が留美子の右足のかかとを見てやる。
 救急絆創膏に血がにじんでいた。
「これじゃ歩けないな」
「おにいちゃん」
「だめだ。おまえを置いてけないよ」
 祐樹はしゃがんだ。そして背を留美子に向けた。
「おんぶだ。ここに乗って」
 留美子はいやがっていたが、祐樹がしつこく勧めたので、祐樹の背中におんぶしてもらうことになった。
 祐樹は留美子を背負って歩いた。祐樹はいつだったか戦争映画で見たシーンを思い出した。
 留美子は祐樹のナップサックを背負った。その中には自分のナップサックが入っている。
 突き出ている二本のビームサーベルを留美子はつかんだ。左右の手に一本ずつ。
「♪親亀の背中に子亀を乗せて♬」と留美子。
「やめろ、変な歌」
 先ほどコンビニにいた高校生や大学生の集団に抜かれた。彼らも新宿を目指しているのだ。みんな、やってきたときはひとりでも、コンビニを出たときにはみんな友達、になったのかも。
 日差しはまぶしいが、空気は相変わらず真冬の冷たさだ。
 祐樹は合羽坂下のきつい勾配を一歩一歩フーフー言いながら登り、午前八時三十分に住吉町を抜けて、ようやく新宿五丁目までやってきた。祐樹は留美子の体温と自分が発した熱とが合わさって背中にべっとりと汗をかいた。
四つ角を左に曲がり、明治通りに出て、午前九時、ついに新宿三丁目の交差点が見えてきた。
 手前右側に伊勢丹新宿店。その向かいに丸井新宿店だ。伊勢丹新宿店は石造りで重厚、戦前の建物だ。一方、丸井新宿店は戦後のビルで、のっぺりして味気ない。
 祐樹は留美子を背負ったまま、立ち止まった。疲れのせいか、膝がガクガクする。背中から留美子の寝息が聞こえてきた。
 祐樹が顔を上げると、
『うそだろ』
 伊勢丹からアルタ前広場に向かって新宿通りは、こんなに朝早くから人、人、人でぎっしり埋まっていた。ナップサックや「ガンダム」の資料本を詰め込んだ大きなバッグを抱えた少年たちであふれていた。
 小学生は見当たらない。中学生、高校生、大学生のおにいさんたちでいっぱいだ。
 チェックのシャツにジーンズ、ジャンパー姿が多い。白TシャツにフライトジャケットのMB・1をはおったおしゃれな奴もいる。女の子も少ないがいることはいる。
『とてもアルタ前広場までたどり着けないな』
 目前に地下鉄の駅が口をあけていた。
 祐樹は、勘が働いて、地下へもぐることにした。ほかにも勘が働いたファンたちが続いた。
 丸井新宿店の横から新宿三丁目の地下へ降りた。幸い、地下道は新宿駅まで続いているように見えた。人もけっこう行きかってはいるが。
『行ける、行ける、行ける』
 祐樹は人をかきわけかきわけ営団地下鉄丸ノ内線の新宿駅へたどり着いた。駅の壁に案内図があった。
『よし、国鉄側に上がるぞ。その上はアルタ前広場だ』
 祐樹は、留美子をおぶったまま、地下道を左に折れ、傾斜を上り、国鉄の新宿駅東口側に出た。
 しばらく進んで右に折れそのまま行くと、前方右側に地上へ上がる階段が見えてきた。
 しかし、階段の下まではたどり着けたものの、そこから上はぎっしり人で埋まっていた。
 ここはステージの裏側になるはずだ。
『だめだ。昼のイベントなのにもう集まってきてる』
 電車が到着するたびに、祐樹の後ろへファンたちが押し寄せる。
 頭上から聞きおぼえのある声が聞こえてきた。
「みんな、押したらだめだ。ここでけが人が出たら、明日のアニメはない。アニメファンがちゃんとしてるところを世間に見せてやろうじゃないか。戦いとは常に先を読んで行うものだ」
 富野監督の声だった。動揺することなく静かにファンたちに語りかける力強い言葉だった。
 祐樹はラジオの番組で富野監督の声を聞いたことがあった。話し方に特徴があるのですぐにわかった。シャア少佐にしゃべりかたが似ているのだ。
「見たい、見たい、見たい」
 背中で留美子が騒ぎ出した。
「おにいちゃん、見たいよ」
 留美子が背中でバタバタやっている。
「いてえな、くそ」
 祐樹は、馬力を出して、自分より十センチも二十センチも高い人波をこじあけて階段を一段一段上っていった。
「やめろよ、ちび」という怒号も聞こえたが、そんなの無視した。
『武士に二言はない。ぼくは見るためにやってきたんだ』
 ぐいぐいこじあけて、まるで未来へ向かって運命を切り拓くかのように、祐樹は進んだ。
 背中では留美子がビームサーベルを両手に一本ずつ握って、ばっさばっさと正面の敵を薙ぎ払っていた。
 そして。
 地上へ出た。
 目がくらむほどのまぶしい光を浴びた。それは朝日ではない。
 祐樹は目を細めて正面を見上げた。
 そこには、あの富野監督の背中が見えた。
 大きなしっかりした背中だった。
 広場をぎっしり埋めつくしたファンたちに向けて熱いメッセージを投げていた。
 全身がこうごうしく輝いていた。
『ニュータイプだ』
 祐樹は心でつぶやいた。

 早いもので、あれから四十年以上が経過した。
 しかし、祐樹にはあの日のことを昨日のことのように思い出すことができる。
 あの日、結局、春彦は来なかった。
 まだ携帯のない時代。JAFに電話しようと公衆電話BOXを見つけたまではよかったが、悪いことに、春彦はJAFの会費を滞納していたらしく、手続きにかなり手間取ったらしい。
 玉枝から「ダサい」とか言われ続けて傷ついて、地元へ帰還後、春彦は玉枝と別れたらしい。春彦は自分から別れたと言っていたが、どうやら春彦のほうが捨てられたのだ。
 祐樹はと言えば、帰りの電車賃をアルタ広場前の新宿駅東口交番で借りて、留美子といっしょに無事に帰還した。強襲揚陸艦ホワイトベースとはいかないが、黄色い車体の総武線に乗って。
 祐樹は、父親から頭にげんこつをおみまいされたが、そのあとに母親から痛いほど抱きしめられた。
 あれからすぐにおばあちゃんが死に、千九百八十一年の十二月に春彦も死んだ。
 春彦は、車の改造が好きだったが、ブレーキを自分でいじってしまったらしく、赤いサニーは、田んぼの農道の十字路で、クリスマスの日にトラクターと正面衝突して大破した。
 春彦は、その年の夏に公開された「機動戦士ガンダムⅡ 哀・戦士」は見ることができたが、結局、三部作の最終章「機動戦士ガンダムⅢ めぐりあい宇宙」を見ることなく、彗星のごとくこの世を去った。弟の秋彦のほうは今も元気だ。実家を継いでコメ農家をやっている。
 祐樹の父親は、五年前に他界した。全世界を襲ったコロナウイルスに罹患して肺塞栓であっけなく死んだ。
 父親は、スタンドを継いでほしかったようだが、祐樹は、せっかく大学の工学部を出て、自動車会社で車のデザインを担当しているので、そのままにしてもらった。
 実家のガソリンスタンドは、人手に渡り、家も売って、今は千葉県の浦安で、母親と妻と中学生の娘の一家四人で暮らしている。
 祐樹の夢は、今でも本物の「モビルスーツ」を作ることだ。家族は浦安のテーマパークの方が好きらしいが。
 今日は春の日曜日、祐樹は久しぶりに新宿へやってきた。
 白くなった髪を七三に分け、白のポロシャツに紺のジャケット姿だ。すっかり日曜日のお父さんだ。
 街は昼前からかなりの人、人、人で混み合っていた。
 アルタ前広場にやってきた。正面のアルタのスクリーンは、今では大型のLEDビジョンに代わっている。
 あの日は、まだLEDではなく、電球が灯る大型の電光掲示板だった。
 ファンが集まりすぎて、誰が数えたかは知らないが、次の日の朝刊各紙には、新宿に二万人集まったとあった。さすがに全国からではなかったが、千葉、埼玉、神奈川あたりの東京を取り巻く近県からかなりの子供たちが集まったそうだ。
 インターネットもスマホもない時代。アニメージュ、OUT、アニメックの三大アニメ雑誌と新聞広告だけの情報を頼りに、二万人が集まった。
 アルタ前広場だけでなく、新宿駅の地下道まで子供たちであふれ、新宿通りは新宿三丁目の伊勢丹あたりまでぎっしりとガンダムのファンで埋めつくされた。
 あの日は、歩行者天国が昼の十二時からだったが、数時間も前からアルタ前広場は身動きとれないほどになっていた。
 富野監督の呼びかけが功を奏したのか、子供たちは整然とならび、騒ぎを起こすことはなかった。幸い、けが人も出なかった。
 うわさでは、当日立ち会った配給興行会社・松竹の役員が、イベント終了後に新宿警察署へ呼び出しを受けたとか。松竹の宣伝担当が「二千人のファンの集まり」で届けていたらしく、「二度とやるな」と釘を刺されたそうだ。「機動戦士ガンダム」の人気のほどはもちろんだが、アニメという宝物が日本にはあるよ、というアピールが全国へ向けて発信された貴重な日となったことは間違いない。
 監督、スタッフ、声優の挨拶、そして主題歌発表、抽選会。抽選券は集まったファンに次々と配られたが、全員に行きわたったとも思えない。広場はおしくらまんじゅう状態で騒然となっていたし、そのためにイベントは予定より二時間半も前倒しで午前九時半から開始された。
 新宿ピカデリー劇場の仮装大会はそんなことやってる場合じゃないと、さっさと終わったらしい。
 アルタの画面に当選番号が点灯する。ファンのみんなは、列を乱すことなく、整然と並んで賞品を受け取っていた。富野監督や安彦さんや大河原さんや、声優の古谷徹さんたちから賞品を渡されたときの少年たちの目は、きらきらと輝いていた。
 やしきたかじんの生歌は、少し場違いだったが、かなりうまかった。
 スタッフ、声優のサイン入りのポスター、映画予告編の三十五ミリ生フィルム、映画で使用したセル原画・・・これらの賞品は今思い出すだけでも足が震える。祐樹は抽選には当たらなかったが、あの日そのものが宝物になった。この日を境に、「ガンダム」の人気は不動のものとなり、四十年にわたりシリーズ化されて今日を迎えている。
 テレビシリーズのスポンサーだった玩具メーカーのクローバーは、視聴率の不振もあってシリーズ終了後に倒産したが、超合金の金型を押さえた浅草の老舗玩具メーカーのバンダイがその後、プラモデル化に踏み切り、ファンの間で「ガンプラ」と呼ばれて人気を博し今日まで生産が続いている。
 余談だが、あの日、「私たちは、アニメによって拓かれる私たちの時代と、アニメ新世紀の幕開けをここに宣言する」と「アニメ新世紀宣言」の宣言文を読み上げた二人は、その後、結婚したらしい。
「待った?」
 アルタの画面を見上げていた祐樹は後ろを振り向いた。
 妹の留美子だ。薄いコートをはおっている。留美子も髪がだいぶ白くなった。
 留美子は埼玉県の老舗の豆腐屋に嫁いだ。
 今日は、伊勢丹の地下食料品売り場で「ザク豆腐」を売り出すので見に来てくれと頼まれていた。
 留美子の旦那が開発したのだ。留美子もそうだが、旦那も相当な「ガンダム」オタクらしい。ちなみに四十年前に「オタク」という言葉はまだなかった。
「俺はどうしてもあの緑色の豆腐は苦手だな」
「評判いいよ」と留美子。
 留美子には息子が二人いるが、兄が店を継いでいる。
「行こ」
 左に紀伊国屋書店、右に高野フルーツ店を見ながら、二人は新宿三丁目の伊勢丹へ向けて歩き出した。
 立ち止まり、
「おんぶしよか」と祐樹。
「やめてよ」
 留美子が苦笑しながら祐樹の背中を押した。 
                         〈了〉                

 

 

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