見出し画像

『対決の東国史』刊行記念鼎談 変貌する東国史を読み解く #5 

 2021年12月から刊行が始まり、おかげさまで売れ行きも好調な シリーズ『対決の東国史(全7巻)』。刊行前に収録された刊行記念鼎談を、6回に分けて特別公開いたします。
 著者である高橋秀樹・田中大喜・木下 聡の3名をお迎えし、企画のなれそめから、最新歴史研究トークまで、様々な話題が飛び交う盛沢山な内容になりました。
 今回は、第5回「上杉氏の役割」をお楽しみ下さい。

上杉氏の役割

田中 木下さんが書かれた第5巻の主役である上杉氏は、畿内とどのような関係を持っていたのですか。
木下 京都に行った上杉氏が畿内に関わっていますし、山内上杉氏は少なくとも15世紀半ばまでは畿内に所領を持っています。その後、1520〜30年ぐらいまでは京都に四条・八条上杉氏がいます。

―― 上杉氏というのは犬懸、越後、山内、扇谷と、かなり分散的なイメージがあるのですが、あれは鎌倉の地名にちなんでるのですか。

木下 居住しているという前提なのですが、当時ちゃんと全員そこに住んでいたかどうかというと、結構違ったりしています。佐介に山内がいるとか、犬懸も別に犬懸にずっといたわけではなく、ときどき拠点を変えているので、15世紀前半にそう言われていたわけではないのです。越後上杉は越後守護の越後そのままの呼称なので別にいいのですが。

―― 上杉氏は、自分たちのルーツは畿内の貴族だと思っていたのですか。

木下 一応、勧修寺(かじゆうじ)系藤原氏だと言っていますけど、本当かどうかはさておき(笑)。少なくとも名字の地の丹波国上杉荘の近くにある、八田郷(やたごう)を所領として持っていました。それよりも、足利氏の家臣という立場ですが、高(こう)氏と同じような感じで、最初はあまり足利将軍家から名前をもらっていないのです。
田中 そういえば、偏諱(へんき)を受けていませんね。
木下 基本、憲(のり)〜とか、そんなのばかりです。
田中 確かに。
木下 足利高義の娘と結婚した上杉朝定なども、名前は全然関係ないですよね。鎌倉府に来ると、公方の近臣になっていますので、扇谷上杉氏と犬懸上杉氏は名前の一字をもらうのです。扇谷のほうはたぶん氏定とか持朝とか、その辺りはもらっているのです。「持」は、持氏と義持がいるのでごっちゃなのですが。基本的に、鎌倉公方は将軍家から一字拝領して、それをそのまま家臣に与えているようなのです。ただ、山内はついぞ偏諱を受けない。高氏も一応ずっと全員、師(もろ)〜なのです、室町・戦国期まで。高氏、上杉氏というのはその辺りの感覚で、もともとの直筆臣頭(じきしんひつとう)に近いところだからか、足利家の当主から名前をもらわないという意識があったのかなと思います。
田中 直臣筆頭だからですか。
木下 はっきりとは分からないのですが。直臣でも普通に偏諱をもらっている氏族は結構いますけど、高氏と上杉氏だけもらわないというところは、何かその二つの家の意識の表れではないですかね。
高橋 やはりどこかで、うちは特別な家だという意識があるのでしょう。
田中 そういうことですよね。
木下 高氏は執事筆頭。執事の家で家臣筆頭という自意識でしょうし、上杉氏はたぶん婚姻関係を結んでいたということなのでしょうか。その辺りははっきりとは言えないのですが。
 鎌倉府と管領の上杉氏の関係というのも、管領が山内のほうだと若干京都寄りのスタンスですし、犬懸の場合は公方の近臣がスタートなので、基本的には公方寄りですよね。応永の乱で足利満兼が兵を動かそうとしたときに止めたのは、当時、関東管領ですらない山内上杉氏のほうです。
 そんな犬懸上杉氏も結局上杉禅秀(ぜんしゆう)の乱を起こすのですが、これは足利持氏との対立で、公方の代わりになる存在を担いでの挙兵です。持氏の叔父の満隆と、持氏の弟で満隆の養子になった持仲が禅秀方として挙兵しています。禅秀の失敗は単純に幕府への根回しを忘れたことですよね。さらに足利義嗣が出奔したので、余計に「こいつら駄目だ」という形になって、禅秀方を討つという形になってしまった。最初から、「持氏は退治しますが、幕府に全く二心はありません」と言っておけば、たぶん関東の乱で終わって、そのまま持氏がやられて終わりという可能性が高かったような気がするのです。少なくとも鎌倉府は、基氏はともかく、二代、三代、四代とみんな室町幕府と敵対する姿勢になってしまいます。
田中 やはりそれは、俗に言われる対抗意識ということですか。
木下 どうなんですかね。正確には分からないのですが。
田中 なぜ鎌倉公方は、あそこまで将軍にライバル心を持つのか不思議な気がします。
木下 持氏の場合は、たぶん最初はそこまでなかったのでしょうが、やはり義持が死んだ後、義教が将軍になったというのが結構大きかったと思います。
田中 やはり、自分が将軍になれるのではと期待したのでしょうか。
木下 そうではないかと思います。僧侶になっているやつを選ぶぐらいなら、俺がいるだろうと思うところがあったと思いますけど。
高橋 ちょうどその時代は家継承の正統性の主張が出てくる時代ですよね。どっちが正統かみたいな。
木下 持氏時代のことを反映した年中行事の故実(こじつ)がありますが、そこでも将軍と鎌倉公方を天子の代官という形で同列のような感じで言っていますよね。

(6回目へつづく)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?