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『対決の東国史』刊行記念鼎談 変貌する東国史を読み解く #4 

 2021年12月から刊行が始まり、おかげさまで売れ行きも好調な シリーズ『対決の東国史(全7巻)』。刊行前に収録された刊行記念鼎談を、6回に分けて特別公開いたします。
 著者である高橋秀樹・田中大喜・木下 聡の3名をお迎えし、企画のなれそめから、最新歴史研究トークまで、様々な話題が飛び交う盛沢山な内容になりました。
 今回は、第4回「北関東という地域世界」をお楽しみ下さい。

北関東という地域世界

―― 今回のシリーズでは、第4〜7巻になると北関東という地域が注目されてきます。北関東の武士団は、北条家得宗(とくそう)時代から、鎌倉の政権に対してはそれほど強い従属意識は持っていないのですか。

木下 鎌倉府時代だと、やはりそこまで強くないと思いますけどね。
田中 一般的に北関東は自立的だったみたいな言われ方をしますよね。
木下 反抗的な武士団もいれば、逆に彼らと対抗するために従属的になる者もいます。
高橋 両極端かもしれないな。だから鎌倉時代だって、鎌倉に普段いなくて現地を拠点とする宇都宮氏みたいな武士団は独立的な要素を持っているけど、結城氏や足利氏など普段鎌倉に住んでいるようなタイプの武士は北条氏に依存している部分が大きくて、差があるような感じがしますね。しかも南関東より規模が大きいです。
田中 結局、北条氏と仲良くなった連中が鎌倉に残っていくのでしょうか。
高橋 そうですね。源氏一門の中でも、やはり足利氏だけが最終的には特別な存在になっていく。最後まで北条氏と良い関係をつくれていたのは足利氏だけだと言ってもいい。だからこそ、次の時代に期待されるわけです。その辺は武田氏などとは全然格が違う。やはり頼朝との関係に加え、北条氏の外戚(がいせき)という立場をずっと維持してきた。四位の位を持てる武士は、北条氏のごく限られた一人か二人と足利氏だけですからね。特別な存在にいつしかなっているのでしょうね。
木下 頼朝と木曾義仲では、やはり父親の朝廷での位置とか地位が違ったから、結集力が違ったのですか。
高橋 義仲の父義賢(よしかた)は、藤原頼長(よりなが)と男色関係にあったぐらい親しいわけだったので、一概にそうとはいえません。僕は義仲と頼朝の違いは、頼朝のほうが周りの人材が優れていたことだと思います。義仲の周りには誰もいなかった。
木下 いなかったというのは少なかったということですか。
高橋 もちろん中原兼遠(かねとお)であるとか、彼を育ててくれた地元の人間はいるけれど、京都での作法とかを教えてくれるような人が周りにいなかった。頼朝はある程度そういうパイプも持ち続けていたし、人を呼んだよね。大江広元や三善康信(やすのぶ)。実は中原親能(ちかよし)という存在が一番大きいと思うけど、常に京都の知識を与えてくれる周りの人材に恵まれていた。それが義仲の京都での振る舞いと、頼朝が派遣した源範頼(のりより)や義経の振る舞いの差として明らかになってくる。中原親能が常に彼らのそばでサポートしてくれる、その違いが大きかった。それが両者の差。ほかの源氏一門も義仲と同様で、一時的には力を持ったかもしれないけど続かない。
田中 頼朝は京都で生まれ育ったという点も大きかったのでしょうか。
高橋 それも大きいと思う。
田中 関東で生まれた源義平(よしひら)は、やはり都の作法をあまり知らない感じがしますね。
高橋 頼朝だってどこまで知っていたかは分からないけれども、平治の乱までに京都の世界の中で上西門院蔵人(じようさいもんいんくろうど)という役職や右兵衛佐(うひようえのすけ)の官職を得ていたわけで、そこに自分の居場所がある人とない人というのは違いが大きいと思います。やはり天皇を中心とした貴族社会の身分秩序の中に、若いころから位置付けられていた頼朝と、無位無官の義仲とでは違う。ほかの源氏一門もそれはほぼないに等しい。

―― 頼朝は独特な政治センスで、朝廷と距離を取ろうとします。そういう政治センスというのは、やはり北条氏が関係しているのですか。

高橋 いや、頼朝が生きているうちには時政は何もしていないのです。時政はあくまで頼朝の舅(しゆうと)なので、彼の役目は頼朝に対する経済的奉仕です。婿殿に対して何かやってあげる、費用を出す。彼の役割はそれなのです。時政が京都に行って守護・地頭設置の問題を藤原経房(つねふさ)に申し入れたものだから、時政の力が高く評価されるのだけど、実際に彼が京都でやっていたのは基本的には治安維持で、伝達の役割は果たしていても交渉はほとんどしていません。交渉は藤原経房を通じて鎌倉と京都が直接やっているのであって、時政を介して交渉していたわけではないから。
田中 時政は舅として派遣されただけということですか。
高橋 うん。だって頼朝の妻の父だと『玉葉』に書いてあるように、京都の人間はそういう認識を持っている。頼朝の政治は大江広元・三善康信・中原親能という人たちの献策ではないかなと思います。常にそういう人間が鎌倉と京都にいますからね。『玉葉』を見ると、源雅頼(まさより)という貴族の家人でもあった中原親能からの情報がいかに鎌倉に入っているかが分かる。頼朝もこの親能・雅頼のルートを使って、鶴岡八幡宮で祈りをささげたという情報を京都に流して、貴族たちに「いいやつじゃん」って思わせるような情報戦略をとっているし、それが頼朝はできたのでしょうね。もちろん周りに支えてもらってだろうけど。京都の人たちも親能や広元という存在をちゃんと認識しているし、そこは大きいですよ。頼朝一人では何もできなかったかもしれないけど、周りの人材の力が大きかった。
もともと貴族の久我(こが)家に仕えていた人物が三浦義村の右筆(ゆうひつ)になっているという史料があるように、頼朝だけではなく、北条氏・三浦氏などの有力御家人もそういう存在を抱えていた。史料が残っていないからほとんど表に出てこないけれども、おそらく有力な御家人はみんなそういう家人を持っていたはずです。だからこそ、京都との交渉もそれぞれができるわけだし、ちゃんとチャンネルを持っていた。
田中 足利氏をみると、京都との交渉をつかさどっていたのは上杉氏だったと思います。今、高橋さんのお話を聞いて、確かにどの御家人にも京都との交渉をつかさどる人材がいたように思いました。
木下 上杉氏には、鎌倉末期に京都で蔵人を務めていた一族がいます。
田中 そうですよね。
高橋 やはり姻戚関係は大事です。鎌倉中期ぐらいになると有力御家人は京都と婚姻関係を結びますが、そういう目的もあるんですよね。頼朝が議奏公卿(ぎそうくぎよう)の設置や人事刷新を後白河院に求める奏状を出したとき、京都に関する細々としたことは藤原(一条)能保(よしやす)や藤原公佐(きんすけ)に相談して決めたと書かれています。能保は頼朝の姉の夫、公佐は姪の夫、こういう存在が必要なんです。南北朝や室町期に至っても同じでしょうね。
木下 小田原北条氏にしても、北条氏綱の妻は近衛なので。しかもその女性の姉妹が足利義晴の正室の慶寿院(けいじゆいん)です。その後、結局永禄ぐらいになると、北条氏はあまり京都と連絡しないのですが、そういったところはやはり残っていますね。
高橋 ほかもそうですよね。今川氏だって中御門(なかのみかど)家との婚姻関係があるわけだし。
木下 室町時代は足利将軍家が婚姻政策をしなかったので、江戸幕府と全く違うところでしょうけど。女性は全員お寺入りなので。戦国時代の一六世紀中ごろになってようやく婚姻政策を始めます。
高橋 そこに気が付いた(笑)。
木下 気が付いたというか、もう背に腹は代えられないというか、寺に入れても仕方が無いということになったのでしょう。ただ、婚姻政策をしたのは畿内近国の若狭の武田氏と三好氏です。戦国期の小田原北条氏は婚姻というよりも養子政策ですね。息子たち北条一族を全部、大石や藤田、佐野、太田氏辺りの有力な国衆のところに養子として入れていく。最後には千葉氏にも養子が入っています。
高橋 現代のわれわれからすると、婚姻と養子関係は全く別もののように見えてしまうけれど、たぶん中世の人からすると両方とも縁組なんだよね。
木下 ええ。
高橋 縁組するのが息子と娘なのか、それとも息子のやり取りなのかという違いだけで、違う家と縁を結ぶという点では、そんなに変わらないことだったのかと思います。同じような感覚で使っていたような気がしますね。
木下 感覚として、自分は他とは格が違うというのもあるかもしれませんね。やはり結婚、婚姻は基本的に同格の人を縁組みさせるか、あるいは家臣から迎えるかですので、基本的に北条氏が婚姻関係を結んでいるのは、古河公方と武田氏、今川氏ですよね。
田中 それは中世前期も変わらないですよね。
高橋 やはり婚姻にはある程度家格が関係するので。養子関係にもいろいろなバリエーションがあるから、うまく当時の人は使っていたのです。

(5回目につづく)


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