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『竜とそばかすの姫』鑑賞後、細田守監督作品に対して思うこと。



2021年というのは、何て年だ!

コロナ禍で、様々なエンターテイメントが存在価値を問われる逆境の中で、庵野秀明監督はエヴァンゲリオンを完結させ、細田守監督は今までに3度用いた、インターネットという世界を題材にした新たな作品を発表する。

しかし、今回の『竜とそばかすの姫』を観た後に、手放しで称賛できず、作品鑑賞中、モヤモヤし続ける自分がいたので、その気持ちを細田守監督の過去作を振り返りながら、確認したいと思う。


細田守監督作品に初めて触れた時


細田守監督の名前を知る前に、監督が関わっていたと知らずに、あるアニメ作品を観ていた。それが細田監督作品だと知るのは、ずっと後のこと。

当時、子供向けのアニメを観る機会が多く、日曜日の朝に放映していた『おジャ魔女どれみ』を毎週観る環境にあった。
この作品、細田監督が関わっていない回も非常に出来が素晴らしく、毎回残り5分で畳み掛ける構成は見事の一言だった。
キャラクターデザインは、非常にメルヘンチックで、予定調和な展開を匂わせる造形なのだが、それに反するように、人間のセンシティブな感情のど真ん中をブスリと突いてくる。

あいこちゃんの家庭に関わる回は、毎回観る度に
「日曜の朝に扱っていいテーマなのか? これをどんな子供に届けようと思っているのだろう?」
と、子供に伝わるのか心配になる程の重いテーマに思えながらも、唸りながら観ていた記憶がある。

そんな、『おジャ魔女どれみ』でも忘れられない回があった。
それは、第40話『どれみと魔女をやめた魔女』
魔女を題材にしたアニメの根底を覆すようなこの回には、子供向けのアニメにこれ程までに思いが込められるものなのかと、衝撃を受けた作品でもあった。
妙な手触りを残したこの作品が、細田守監督の演出作品であることは、『サマーウォーズ』を手掛けた頃に知ることとなる。






『サマーウォーズ』初めての細田インパクトの瞬間

細田守監督の名前を知ったのは、『時をかける少女』を発表した時だが、それ程自分の胸に刻まれた作品にはならなかった。
もう、何度も何度も、『時をかける少女』のリメイク作品に触れていたからかもしれない。

自分の中で、内田有紀主演、ボクたちのドラマシリーズの『時をかける少女』が、原田知世版を踏襲しつつも、かなり印象に残る良作だった。
この作品を観ていて、メチャメチャ心を動かされた経験があったので、アニメ版の『時をかける少女』に触れた時には、
「こういうアプローチもあるんだ。作り手によって作品の印象ってかなり変わるもんだな」
といった、冷静な感想しか出てこなかった記憶がある。

しかし、次作になる『サマーウォーズ』には、心を撃ち抜かれた。
当時、いい年齢だったが、これからはネットの目まぐるしい発展が否応なくあるはずなので、この分野で成功できるよう挑戦していこうと構え、今思えば肩に力が入り過ぎて人生空回りの真っ只中だったが、自分の頭の中で想像していたネットの未来を具現化したOZの世界に一発でやられたのだった。
そして、設定だけが突出している訳ではなく、物語の構成、主人公の上下する気持ちの揺さぶり方、家族の形等、様々な仕掛けを施した作品の構成に持っていかれ、どうやってこんな面白い作品になるのか、展開を分析したり、主人公の気持ちの揺れ具合、物語の浮き沈みをグラフ化したりしたような気がする。

自分の作りたい作品のまさにお手本が『サマーウォーズ』だった。


『サマーウォーズ』以後の細田守監督作品


だが、『サマーウォーズ』以後の細田守監督作品には、どこか自分の気持ちにぴったりフィットしないものばかりだった。

『おおかみこどもの雨と雪』
『バケモノの子』
『未来のミライ』

どれも、自分が求めている細田守監督の作品として、どこかズレていると感じてしまう作品ばかり。
どれみと魔女をやめた魔女や、『サマーウォーズ』を観ていなければ、作品としてグッと入り込めていたかもしれない。
それぞれの作品ごとに、唸るくらいの工夫や、新たな挑戦をしていることは、痛いほど伝わって来た。
だが、どれみと魔女をやめた魔女『サマーウォーズ』2作品で受けた衝撃にも似た感覚を、『サマーウォーズ』以後の作品で感じることは無かった。


『竜とそばかすの姫』で感じた違和感


『竜とそばかすの姫』では、今までのどの作品よりも違和感を感じた。
それは、物語がつまらないということではない。
作品は音楽との親和性の高いシーンばかりで、その圧倒的な質量と受け取る映像の厚みが半端なく、スクリーンで鑑賞するに相応しいものばかりだった。
しかし、アニメ作品としての根幹の部分がゴッソリ抜け落ちている印象が拭えない。すべてが引き算の演出のように感じた。
キャラが希薄、人物描写が丁寧ではない、ストーリーが唐突等、ちぐはくな感じを受けた。

それはまるで、ドキュメンタリーの映像を観せられている様な、日常のある一部分を切り取って、ツギハギしてコラージュした様な印象が残る。
人と人とは、親密でない限り、その人の背景というものは分からない。
顔の印象や、身体つき、喋り方や持ち物等である程度想像することは出来るが、その人の身の上を時間をかけて聞かなければ、どんな生き方をしてきたのか、どんな考え方をしているのかは、パッと見だけでは判断ができない。
今回の『竜とそばかすの姫』は、そんなパッと見の日常の切り取った風景だけで、その物語を語ろうとしている印象を受けた。

アニメの根底にある『キャラを立てる』、感情移入をしやすくするために『登場人物の感情の動きを丁寧に描く』というのが、見事に削り落とされている印象を受けてならない。
そこは、分かっていながらあえてその方法論を取っているのだろう。だが、その方法で、この作品を通して、どんな新しいことを届けたかったのだろうか? 疑問に思った。
「アニメで実写映画を超える表現を模索したのか?」
色々と考えたが答えは出ない。

後、あまりにも『美女と野獣』をオマージュしすぎて、やり過ぎな感じが否めない。細田守監督の経験と力があれば、もう少しオリジナリティの高い展開に出来たように思える。

否定的な意見が並んだが、スクリーンで観るベルの数々のシーンは、圧巻のひと言だし、映画館に足を運ぶ価値に値する素晴らしいものだった。
何より子供特有の『この世界に存在することの素晴らしさを全身で表現する』という描写に関しては、『おおかみこどもの雨と雪』以上に作画の出来映えに驚きの連続だった。


この引き算の演出した作品の意図が、自分に分かる日は来るのだろうか?
必要なのは、これを観る回数なのか、それとも時間なのか、作品自体を捉えるもっと高い視点なのか?
その答えが分からず、鑑賞中鑑賞後もモヤモヤが残る作品となった。

細田守監督の新作が、ホームランかどうか確かめに行ったのに、そもそも観に行ったものが、野球で無かった件についてのまとめでした。

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