7/19

仕事から気持ち的に逃れようとするも(実際はサボっている)、何度も現実に引き戻される昨日今日だった。

今日は朝起きて、メールを見たら、予約していた資料が届いていると図書館から連絡があったので、着替えて図書館に行った。本を一冊返して、二冊借りた。これ以外にも、すでに二冊借りているので、今四冊借りていることになる。新しく借りたのは、レイモンド・カーヴァー(訳:村上春樹)『ウルトラマリン』とルイ・カストロ(訳:国安真奈)『ボサノヴァの歴史』。他に本を詮索することなく、カウンターで受け取ったらすぐに図書館を後にした。そのまま喫茶店に行って、『ウルトラマリン』を少し読んだ。『ボサノヴァの歴史』は思っていたよりも大分長くて、少し気後れしている。

レイモンド・カーヴァーは、大学生の時に一冊借りて読んだことがある。その本に収録されていた一編の詩もしくは短編小説から、どこにでもあるような何の変哲もない街角をイメージしたことだけが記憶に残っている。内容そのものはあまり覚えていない。
『ウルトラマリン』はまだ少し読んだだけだが、いくつか印象深いものがあり、特に「循環」が好きだった。血液の循環が止められ、麻痺したことで、自らの身体から切り離された腕の感覚を取り戻す。ぐるぐると回る思いが必ず同じ場所に戻ることに気づく。この身体と思いの循環が、重なっている。そして同じ場所に戻ってくるだけではなく、そこからさらにもう一つ新たな脈が生じていることに物語の主体が気づく、その感覚にどきりとさせられた。新しい脈は決してポジティブなものではなく、その先には深海のように暗く冷たい何かが待ち受けているように感じた。
そのほかの詩も含めて、全体的にあまり明るいものではないけれども、悲愴感あふれるものではなく、あくまでも冷静に淡々と語られているので、読んでいるこちらまで気分を深く沈めてしまう、ということはない。

昨日は友人の家に遊びに行き、楽しく過ごしたのだが、その途中で、人気俳優が突然亡くなったニュースが流れてきた。決して彼のファンではなく、顔と名前を知っている程度ではあったけれど、「若くして自殺」という事実があまりにもショッキングだった。彼ほどに売れていても、「究極の選択」を行うほどの大きな絶望がこの世にはある、と思い知らされているようで、仕事の小さなつまづきで苦しんでいる自分なんかではきっとそれに太刀打ちできないのだろう、と思い、陰鬱な気持ちになった。
今日になっても、彼の顔と死が一緒に脳裏に浮かんで、苦しかった。きっと大なり小なり悩みを抱えている人にとって、このニュースは悪い方向に大きく響いたのではないか。
こうしたニュースは、自殺のプロパガンダになる。この世には大きな絶望があるということ。そして自殺はその対処方法として有効であるということ。「こんなに苦しいなら、いっそ消えてしまった方が楽になる。」頭の中だけに留まっていたこうした考えを、実際に行動にうつさせてしまう。あまりにも危険だ。自殺があまりにも普遍的な方法になりすぎているこの日本社会において、今回のような報道は、こうした状況をよりさらに悪化させる。
彼がなぜ自死を選んだのかは調べない。非難するつもりも全くない。今はとにかく、絶望に向かって昂ぶってしまった自分の気持ちを落ち着けなければならない。

最後に、この二日間の締めくくり、ではないが、昨日リアルタイムで見そびれたcero presents "Outdoors"を見た。とても良かった。この昂ぶった気持ちを落ち着けるのによく効いた。
ただベストはceroではなく、古川麦だった。新曲の「灯火」は、背後に流れる河の音が、曲を力強くサポートしていたし、彼の声もそれに乗って、画面越しのこちらまで深く良く届いた。ライブ映像が終了した後も、何回も繰り返し見た。
『Poly Life Multi Soul』に収録されている「遡行」「Waters」も良かった(というかPLMSはアルバムとしてめちゃくちゃ好きだ)。曲として、どちらもラストにリフレインされるフレーズが好きで、
「はるか川上の光を見よ」(「遡行」)
「同じ場所にいながら異層に生きるものたち」(「Waters」)
このフレーズを聞いている時、強烈な心象風景が立ち現れる。前者については、聴きながら、自分が今生きている時代から、歴史という大河の源流、太古に思いを馳せる。後者では、自分と同時代の中で異なるレイヤーに生きているもの、同じ社会に属しながらまだ自分から見えていないものは何か、そういったことを考える。「歴史」という横軸と「同時代の社会」という縦軸。『Obscure Ride』よりも語られる世界のスケールが大きくなりつつも、『Obscure Ride』に現れている自らの周囲に対するミクロな観察眼も両方持ち合わせている。そうしたマクロとミクロの行き来によって、『Poly Life Multi Soul』の世界はより複雑でありつつ、聞いているこちら側の気持ちが、タイムトラベルや遊ぶことのできる隙間も数多く存在しているのだと思う。
ceroがよくラストや終盤で演奏する「街の報せ」は、まずもうタイトルが良い。レイドバックしたビートと、それに巧妙に絡んだシンセサイザーが、穏やかな日曜日の昼下がり、間延びしているようで、あっという間に過ぎ去るあの時間を思い出させる。そこで行われる人々の生活。街に積み重ねられたそうした営みは、街の雰囲気となって、街に出てこいよと言わんばかりに自分を誘ってくる。
自分がこの街に生きているということ。引いては、この社会に生きているということ。「街の報せ」は、この曲を聞いている自分の生活は一体どこに立脚したものなのか、ということに気づかせてくれる。

昼間は、何かから逃げるような形で1~2時間散歩し続けたが、重く淀んだ気分を打破するようなものは何も起こらなかった。しかし、良い形で二日間を締めくくれたことは良かった。

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