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【散文】魂の暗夜について

黙想において、私たちは暗夜を経験します。
光に導かれて歩み出した求道者が、光の見えない暗闇を経験するのです。

観想修道会であるカルメル会の16世紀の聖人に、十字架の聖ヨハネという人物がいました。
十字架の聖ヨハネは聖人であるとともに、詩人でした。
この聖人は、「魂の暗夜」ということを書いています。

暗き夜に 
炎と燃える、愛の心のたえがたく
おお、恵まれし、そのときよ
気づかるることもなく、出づ
すでに、わが家は、静まりたれば
闇にまぎれて 恐れなく
それとは見えぬ姿にて
かくれし梯子をのぼりゆき
おお 恵まれし そのときよ
暗闇に 身をば かくして
すでに わが家は 静まりたれば
恵まれし その夜に
気づかるるなく 忍びゆく
目にふるる ものとてもなく
導く光は ただひとつ
心に燃ゆる そが光

十字架の聖ヨハネ 『暗夜』より

キリスト教の伝統の中では、霊性の段階には次の三つがあります。
1、浄化
2、照明
3、一致

暗夜とはこの霊性のたどる過程のうち、浄化の段階のことであり、聖性にたどり着くために通らねばならない剥奪や欠如であると捉えられています。

瞑想をしていると、意識の境界がなくなってゆき、自我活動が停止するといったことが起こります。これはしばしば不安や恐怖を生じさせます。心が暗いものに覆われたように感じられます。しかしこれは、通過儀礼のようなものです。
魂の暗夜は、疎外感や絶望感を生じさせることもあるでしょう。しかし、暗夜は霊性の道において正しい過程を踏んでいることの証明でもあります。
中世ヨーロッパの古典的な瞑想の手引き書の中にも、「未知の暗雲」といったことが書かれていて、魂の暗夜と同じ意味合いで語られています。

近年では、あのマザー・テレサでさえも、暗夜を経験していたことが知られています。
『私の魂の神の場所は空白です。私のうちに神はいません。』
というメモが見つかっています。
マザーは神の愛を渇望していました。それなのに。いいえ、それ故にといった方がいいでしょう。最初はかなりセンセーショナルに報じられたようですが、私にはむしろ、人間的な葛藤を抱える姿は親しみをもって感じられました。

心理学者のユングは、師であったフロイトと袂を分かった後で、深刻な精神の危機を経験しています。その時期に錬金術からインスピレーションを受けて、この精神の危機のことを錬金術の「黒化(ニグレド)」の段階と重ねています。
ユングはこの状態を、自我が影(シャドウ)に直面した結果であると考えました。人格のうち、抑圧されたもの、嫌悪されたもの、認められなかったものが浮上してくる時期だと捉えたのです。

錬金術では「黒よりも黒い黒」という表現で表されています。神秘家たちは黒化という魂の暗夜を通って、浄化されてゆくのです。

ここで、もう一度、十字架の聖ヨハネの暗夜に戻ってみましょう。

霊魂が偉大なことに達しようとするならば、観想の暗夜がまず、霊魂のうちの程度の低いものを無に帰し、滅ぼし尽くしてしまい、霊魂を闇と渇きと苦悩と空虚のうちに置くことが、何よりも適当不可欠なことである。というのも、霊魂に与えられる光は、自然界のあらゆる光を超越する最も高い神的な光であって、自然的には理性の中に入れないからである。

十字架の聖ヨハネ 『暗夜』より

意識変容のプロセスとしての暗夜の意味を、十字架の聖ヨハネは詩的な表現を用いて私たちに語りかけています。彼自身が暗夜を体験し、同じように暗闇に迷い苦しむ人の心に寄り添ってくれているかのようです。


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