『天気の子』の正しくなさに、モヤっとするー思想のない映画

2020年3月3日、『天気の子』にモヤっとして書き出した夜半。

(ネタバレ注意/Spoiler alert/English below)
新海監督「“正しくない物語”を作りたいという気持ちが強かったんです。世界を救わない物語を作りたい、と。ただ、正しくないゆえに、ちゃんと楽しんで見ていただけるかという不安はぬぐい切れなかったんですが、振り返ってみれば、賛否両論の部分も含めて楽しんでもらえたんじゃないかという手応えがあります」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200302-00000041-mantan-ent

『天気の子』は映像は綺麗だけど私にとって、とてもモヤモヤする映画。
まず、料理も飲み物も、黙って作って黙ってサーブしてるのは覚えている限り全部、女性。陽菜が帆高や他の男性を立てて自分の意見や生存への意思を表に出さない様子にも、疲れてきてしまう。
最後まで、彼女が自分の意思で立ち帰っていくところが見えず、結局男性から見た女性像に終わっているから。日本のこの世界ではまだそれがナチュラルかもしれないけれど、私はもうそれを見ているのがしんどくなってきてしまった。
それは物語の要の一つである彼と彼女のコミュニケーションが、本当に成立しているように感じられずに終わるという意味でもあり。日本のジェンダーギャップのままで女性が社会的に「正しい」選択をすると自己犠牲になる、というとてもわかりやすい構図でもある。
その上で男の穂高の方は、なぜ彼がその正しくなさに走っていくのかの、伏線やバックグラウンドがよく判らないまま。「正しくない」のは全く構わない。でも背景の判らない「正しくなさ」が、例え世界が崩壊しても美しいというのは、今の日本を見ているようでおっかない。
ジェンダーギャップ、貧困、性的搾取、子供が守られない社会。そうした重層の中、空気を読むように「正しくなさ」を選んでいるようで、さらにそれを美しく描かれたらモヤモヤするしかなくなる。
『君の名は。』は3.11へのオマージュとして、全国で劇場公開できるレベルではできるだけのことをやってくれたのもあって、好きだった。
でも『天気の子』は反社会的なレジスタンスを見せているようでそうではない。
そして、社会がある種の「正しくなさ」へ狂っていく感触は正しく描けている。これが賛否両論ありつつ今の日本で受けることを狙って作ったなら正解だろうけど、生きる力を感じさせてくれるものではなかった。


そして、2020年4月16日。

「自分を含めてほとんどの人は実際にはありえない空想の現実として捉えたと思うんだけど」

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『天気の子』の度重なる異常気象や東京が海に沈む姿を現実的な気候変動と結びつけず、ありえない空想として捉えていた人がかなりいることにびっくりした。
もしかすると日本人の多くはこの未知のウイルスによる感染症も、多くの人は「ありえない現実」として捉えていたのだろうか。
むしろ私の方が少数派なんだろうか。

でもその現実が、今世界に、日本にやってきた。
今気づくのは、『天気の子』にも、それがある程度違和感なく受け止められる日本にも、思想がないということ。

この映画はジェンダー論の部分では、全くしっかり間違っている。というか、ない。
彼女が風俗で生活費を稼ごうとするシーンは現代日本の病理には違いないけれど、それを描く時に思想がないので、観る人に「生活に困ったらそういう道もあるのか」ぐらいに捉えられかねない。
彼が拳銃を持ち、それをぶっ放す時、その思想が読み取れない。それでは「正しくないかどうか」すら、実は描けていない。
そうして、ジェンダーを含めて思想がないので、結局、登場人物がなぜその時そうしたのか、空っぽになっている。
空っぽの日本の、魂がどこかに抜け出した人々を描けている。

今やってきている映画のような現実を、自分の生きる意思や思想なしでゆこうとすると、この映画のような、はっきりしないけど何故かそうなる、よくわからないまま自分や誰かが死ぬけど耐える、という更なる地獄が待っている。
思想や思考、イデオロギー、宗教、それは古いようで人間が絶えず生み出してきた物語、ナラティブだ。それがあるから社会や身近な人間関係がどうなるか予想がついて、ある程度安定した生活を送ることができる。

例えばコロナについて、私がどの情報に対して自分の思考として何をしてきたかを振り返れば、12月末に中国で発生した情報が入った時点から中国行きのビジネスは断ることに決め、2月後半には日本からの客人たちと会うのを一ヶ月以上やめることを知人たちに伝え、2月の末から少しずつ早めにソーシャルディスタンシングを始め、どの国にいれば生き残れるかを今もじっと見ている。
その情報収拾や判断のベースには、未知のウイルスの症状や後遺症が全くわからないこと、現代社会では政府に知らされる前にあっという間に自分に感染しかねないこと、大国間の戦争が非現実的になった今、ウイルスや病、死との戦いが人類を待っている、という認識がある。
それが私をコロナから何段も守ってくれている。

だから、気候変動、男女の平等、人が現代と未来をもっと幸せに生きるためのあらゆるナラティブを、もしくは日本の貧困や政治や東京の本当のリアルとそれに対する本当に人間的な態度を、放棄しない芸術を私は求める。

今、バイト先も行く学校も、安心していられる家や家族もなくした学生が、
仕事も来月の生活費も家もなくなりつつある風俗嬢や日雇い労働者が、
コロナと医療崩壊の最前線の医療従事者が、
欲している正しさとは何だろうか?

絶対の正しさはなくてもいい、むしろ恐ろしい。
でも芸術や語り、物語やメディアを通して人々が満足して生きていけるナラティブを作ろうとしていかなければ、今起きていることを理解するための土台、枠組みすらなくしてしまう。

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