勉強を楽しくする方法60〜勉強を面白くする力がなぜ重要なのか〜

勉強を面白くする力がある人には、やがて学びの複利効果が訪れる。
これは、2次関数の曲線のように、ある日を境に爆発的に学びの効率があがっていくことを意味する。

学びの原動力は情熱であり、学びの武器は知識である。
情熱という炎を燃やし続け、知識という武器を磨き、増やしていく。
ある日、両者が相互作用とレバレッジを利かせて、24時間体制で自分の人生の続く限り、爆発的な学びの成果を生産し続ける。

こういうことが起こってくるのである。

そして、この学びの複利を起こしていくためには、勉強を楽しいものにして、寝ても覚めても勉強にハマっていくしかない。

勉強はやらされるものではない。
勉強は没頭するものだ。
人からやめるように頼まれても、頑としてやってしまうもの。
あるいは、勉強を遊びだとかゲームだと考えている人。
そういう人は、勉強に対して熱がある。
勉強が好きでたまらない。
努力では断じてなく、もっての他というレベルで没頭するものなのだ。

そして、圧倒的な量を稼ぐことにより、これが質に転化していく。
何を聞いても学べるし、話す相手の興味を刺激する質問が自然に湧いてきて、相手からより重要度の高い情報を聞き出すこともできるだろう。

あるいは、現代の世界情勢を知りたいと思ったとしよう。
そのために、ニュースをやみくもに見ても続かない。
興味もないし、面白くないからだ。

お金は一発でその世界の全貌を明らかにするのに役立つ。
たとえば、世界の企業の財務状況を調べる術を知っていれば、その企業が毎年持続的に利益を上げているかどうかを調べることができる。

もし、その利益を確保している企業であれば、少々の不景気をものともせず、長期債務をしてでも新しいことにチャレンジしていくこともできるだろう。

そして、持続的な競争力を確保するためには、消費者にとって独占的といってもいいほどの商品を私たちに提供してくれているはずなのだ。

たとえば、コカ・コーラはソフトドリンクの世界では押しもおされもせぬ存在であろう。

この企業は、私たちに部活で汗を流した時には、アクエリアスなど素晴らしいスポーツドリンクを提供してくれたし、クリスマスパーティの時にはコーラがどれだけ美味しかったことか、誰でも実感が持てるはずである。

それがファンタでも、なっちゃんでもいいけれど。

企業はもちろん、利潤を追求しているのだが、私たちの生活に快適さや満足をもたらしてくれているのだ。

どこかの怪しい企業の飲み物を飲むより、しっかりブランドが確立されたソフトドリンクを私たちの多くが飲んでいる。

安心して、美味しく、である。

こんなコカ・コーラ社が少々景気が傾いたりしても、私たちはこの企業の飲み物を飲まなくなるだろうか?

たとえば、爽健美茶やジョージアなどを飲まないという風に。
清涼飲料水は需要がそう簡単に無くならない分野であり、この分野で寡占状態にあることは圧倒的に優位なわけである。

そして、このコカ・コーラ社の本社はアメリカのジョージア州アトランタにある*ワールド・オブ・コカ・コーラ*という観光スポットになっている。

こういう時に、すかさずGoogleの地図検索と画像検索で正確な位置とインパクトを味わってみよう。

どうだろうか。
このようにお金をもとに身近な商品のリサーチを積み重ねるだけで、金銭が私たちの生活に強く密着しており、お金をたどるだけで、企業の息遣いや情熱、誠意が感じられてくる。

企業が抱く私たちの商品が世界中に行き渡るようにという願望の底には金を儲けようという利潤追求だけでなく、良心の力が働いていることを知る。

そして、アメリカという国の様々な場所や商品、ひいては世界中の都市の今の姿とムンムンとしたエネルギーを感じることができるはずである。

不思議なことが、ここにある。

この豊かな日本に勉強ができて、テストで高得点が取れて、処理能力の高い人はごまんといる。

日本人が本気になって、その能力を十二分に発揮しさえすれば、日本再興戦略とよばれるものすら絵に描いた餅では終わらないと、私は思っている。

しかし、なぜか多くの人がその能力を仕事にのみ用いて、日常生活では使おうとしない。

そういう人にとって大抵、仕事とはやらされているものなのだ。

逆に言えば、意欲、情熱、向上心といったものに正直になることを良しとしない。

大人はそういうことをしないものと、しているように見受けられる。
子供は楽しさに夢中になり、夢を抱く存在だとされている。

それを大人で発揮できるかが、勝負の決め手になると私は思っている。

ここは価値観の差であり、勝ち負けの差ではないと言われれば、その通りだ。

しかし、その気になって取り組めば、大成功するだろうという人が多くいるのにもかかわらず、興味がない、あるいは関係ないということで全くやらないことで、大成功できる可能性を自ら放棄してしまっている人が多い。

みなさんの周りにいないだろうか?

あるいは、この文章を読んでくれている人でも、そういう人はきっといることだろう。

私は、すごくそれを実感する。
自分の周囲の人でも、その人が本気でやる機会があれば、たとえば災害など、その人の身に降りかかってきて、取り組まざるを得ない事情が起こったならば、おそらくその人たちのほとんどはハイパフォーマンスを挙げることができるのだろう、と思うのだ。

しかし、興味がないということだけで、触れず、近寄らず、一生全く関わらず、存在すら知らずに人生を終えてゆく。

それをその人が選択して、選んでいないならまだいいと思う。
しかし、本当に「知らない」だけなのだ。

実はその人の才能を発揮できたかもしれない、にも関わらず、である。

こう思うにつけ、勉強を楽しくするだけで、勉強が興味を刺激してくれるというのは、とてもありがたいことではないだろうか。

勉強が苦にならなければ、自分がやりたいと思ったことは勉強をすることでなんでも面白くできてしまうからだ。

人生が好転しない多くの人にとって、問題なのは、その人に処理能力が低いということでは無いだろう。

その人が情熱や楽しさというエンジンを使って、物事に取り組んでいないことが原因なのだ。

勉強がやらされているものであれば、自分の意思は入っていない。
勉強が楽しいものであれば、止められてもいくらでもやる。
その推進力が、興味を連れてきて、私たちを世界に没入させてしまう。

しかも、自分が好きでやっているから、常時楽しい。
そして、世界が見えてくる。
世界中のことがますます知りたくなる。
そして、今度は日本のことが知りたくなる。

こうして知的拡大生産の好循環へと入っていき、やがて学びの複利作用が訪れる。

大切なのは、最初の勉強の最初の一歩は何の手応えも感じないほど小さなものだということだ。

しかし、明日も明後日もという風に継続すること倍々ゲームで知識も興味も増していく・・・・

それを10年間続けたら、その人の人生に何が起こるだろうか?

アインシュタインをして人類最大の発明といわしめた、「複利効果」を学びに持ち込むことで、私たちの人生は大きく変えるかもしれない。

その道を選ぶ一歩目は、自分自身がやらないといけないけども。

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