歴史と経済79〜人〜

本で学べること、旅で学べること、人から学べること、それぞれある。
いずれも人が関係していることが多い。
本は人によって作られており、旅には人との出会いがある。
本で十分に学んだとしても、その後旅に出れば、さらに学ぶことはあるに違いない。
専門家と話したり、学会に出席しても開眼させられることは多い。


本で学んだことは基本的な知識のベースになり得る。
しかし、それだけではブレイクスルーできないのではないだろうか。
たとえば、学会やシンポジウムへの参加を思い立つとしよう。
そのような会では、事前に資料が配布されることがある。
では、その配布資料を完全に読破したら、内容を十分に理解したと言えるだろうか。
実際は、資料を十全に読み込んだとしても、実際に参加してみると学びは必ずあるものだ。
当然だが、登壇者は単純に資料を読み上げるだけでなく、内容を敷衍して説明し、参加者に理解してもらおうと努める。
そのため、過去の体験や他の研究事例なども引用し、内容に具体性と豊かさが盛り込まれることになる。
ここに、新しい気づきや発見がもたらされることとなる。


シンポジウムでこのような段階が待っているとしたら、資料をあらかじめ読む必要がなかったのだろうか。
これについては、積極的に否と言いたい。
資料をあらかじめ予習して、問題意識が研ぎ済まされている時点で、無知だった自分とは違う人間になっていると考えるべきだ。
そして、自分では完全に理解したと思っていたとしても、そこには必ず限界がある。
見落としていたり、気づけていない箇所が存在する。
独りよがりの勝手な解釈で終わっている箇所があり、そこがそのテーマの核心に当たっていることもある。
そこの部分を識者に紐解かれる瞬間にブレイクスルーは訪れる。


物事は深く理解できたほうが良いのではないか。
何事も始めた当初は効率性やテクニックを重視して、なるべく早く全体像をつかみたいという気持ちに駆られる。
実際、その段階は毎日が新しい学びの連続で楽しくもある。
しかし、その分野のアウトラインが大まかに把握できた段階になると、新しい発見が減っていくように感じる。
知識を得る喜びが薄らいでいく。
そして、自分は大方のことは分かっている万能感さえ感じられてくる。


確かに、知識ベースでは一定の成果を挙げたのかもしれない。
しかし、概念ベースで学びの段階を見たときには必ずしもそうだとは限らない。

知識で表れてきているのは、氷山の一角に過ぎず、その水面下には地表の何倍もの世界が広がっていることが多い。
自分が学んだばかりの一つの知識には、多くの人々が一生かけて研究するほどの深い懐があったりするのだ。


これが「出会い」となり、即効性のある知識から離れて腰を据えてじっくり学んでいく姿勢に変わっていくことになるだろう。
多くの場合、これは単なる知識の勝負ではなく、自分の価値観とも照らし合わせた思考力の格闘になったりする。


この段階になると、崇拝していた一冊のテキストを別の角度から眺めてみたくなる。
別の文献を読んでみようと感じる。
アウトラインからインサイドに突入していくことになる。
実際に多くの文献を読んだ人の考え方に触れた時、その人の思考の深さを垣間見ることになる。
そして、そういう人にはまた違う次元の豊かな知識の裏付けがあるものだ。

一つどころから眺めるのは、比較的取り組みやすい。
大切なのは、多視点であり、「気配り」を持つことである。
一定の観点から見て得られた結論があったとして、別の立場から眺めるとどうなるのか。
そこに意識を向けることだ。


多面的に考えるためには、人の力が必要であることが多い。
自分一人で本をたくさん読んだとしても、根本的なところでピンと来ていないことが多い。
しかも、そのことに無自覚であることに気づいていないことが往々にしてある。


一冊の本で基礎を作れたならば、その道の権威やプロと出会うことで大きく変われる。
そして、その段階に至るまで自分で深めることができたからこそ、その出会いがあるのだとも言える。

自分自身による取り組みを行い、独力で思考する過程も必ず必要になるということだ。


悩むことができるためには、自分で力を尽くすことが必要なのであって、他の誰もやってくれはしない。
だからこそ、自分で考えることは不可欠な部分である。

同時にそこに越えられない壁が存在するからこそ、人の力も必要とすることになる。

概念、文脈、思考ベースで実践する段階に到達した時、社会を変え、歴史に挑む地点に立つことができるかもしれない。

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