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日本人の母性原理と父性原理について

小此木啓吾と河合隼雄の対談を読んだ。

最後に話題になったのが、日本人の母性原理と父性原理についてだ。

ここでの母性原理、父性原理は、ユング心理学における「元型」の一つとされる。(正確には、その先にある「グレートマザー」「グレードファザー」といった「原型」が知られている)

ユング心理学では、心の奥深く、無意識のさらに奥の方に民族や人類に共通の普遍的な部分があるとし、そこに元型があり、それがさまざまな形で我々の意識や行動に影響を与えるというのだ。

母性原理は母なるものの性質を持ち、父性原理は父なるものの性質を持つ。

しかし、「母なるもの」「父なるもの」とはどのような性質を指すのかは、単純には言い難い。

その単純には言い難いものを、あえて単純に言うとすれば、母性原理は「ウェット」なものであり、父性原理は「ドライ」なものである。


例えば、ある種日本的とされる「絆」とか「家族愛」とかは、母性原理的だと思う。これらはポジティブに受け取られることもあるが、現代においてはそのネガティブな面にもスポットライトが当たっているものである。

僕には日本らしさを感じさせるもの、イエ制度、同族経営、地域コミュニティー、飲みにケーション、サービス残業、年賀状、空気を読む、といったものはウェットなものに感じられ、とても母性原理を思わせる。

一方、権利の主張、合理的判断、個人主義、創造性、成果主義、といったものはドライなものに感じられ、父性原理を連想させる。

前者は情緒的で柔軟なものであり、後者は合理的で構成的なものである。


僕自身を振り返ると、この母性原理過多な日本に非常に居心地のわるさを感じている。

元来自分自身は非常にウェットな人間だと思っている。例えば、後輩や生徒には肩入れしてしまうし、困っている人がいれば同一化してしまい、放ってはおけない。転んだ人がいればそのままにしてはおけないし、ルールや規則で割り切ることよりも、柔軟に情緒的に対処することを好む。

だからこそ、仕事においてはドライなたたずまい、ドライな判断を大切にしてきた。ウェットであることの危険性がわかっているからこそ、ドライなあり方を大事にしてきた。教育という特殊な支援業における、教師という特殊な立場だからこその、大事な部分だと思ってきた。

一方で、自分がドライな考え方や判断をすることを好むこともわかってきた。対人関係においてはウェットになりがちな一方で、思考は非常にドライなものを好む。合理的な判断や制度設計を好む。


だから、対人関係においてはウェットな部分を持ちながらもそれを理性的にドライであるようにバランスを取っており、その一方で思考はドライなものを好むというのが、自己分析だ。

そんな自分にとって、ウェットな部分が支配する日本の教育や働き方は、馴染みにくいものだったのだと思う。

ウェットな部分に共感をする一方で、その危険性やデメリットを意識し、ドライに努める自分としては、ウェットに振り回される教育の在り方や働き方の在り方は不快なものだった。

また、思考や判断がウェットに支配されているように感じることもまた、不快だった。ウェットが全て不快なのではないが、あらゆる話題についてウェット過多なような気がして、もっと合理的に、論理的に、分析的に語りたい、ドライに語りたいこともまた、多くあった。


言い換えれば、日本が圧倒的な母性原理に支配されており、そんな中で母性原理と父性原理のバランスを取ろうとしてきた自分にとって、この環境が辛いものだったのだ。

そのようなテーマについて、小此木と河合が対話していたことは興味深い。そして、対談から40年以上経った今でも、本質的な部分は変わっていないように思う。日本は圧倒的に母性原理に支配された国である。そして、父性原理が必要とされている。

そのようなまなざしで、この国の今を見つめ直すこともまた、興味深い営みのように思える。




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