東京ドームはべつに広くは感じなかった。 - 『BUMP OF CHICKEN TOUR 2019 aurora ark』東京ドーム公演を観る

音楽文投稿生活中はライブを観る=ライブレポートを書いて投稿するみたいなマインドになっていたのは事実で、その分ライブ中の集中が増したりもするのだけど、無心にたのしめないのでは疑惑みたいなものもないわけではなく謎の葛藤がありました。でもまあ、言葉にして記録するというのは概ねいいことです。
音楽文掲載日:2019/11/14


ライブが終わって、ぼーっとしたまますっかり寒くなった空の下でしばらく突っ立っていた。頭のなかでごちゃごちゃになっていた聴いたことや観たことの断片を、すこしでも整理しようとしたけど諦めて、東京ドームのすぐそばでぼーっとしていた。
いろいろなものを感じ取った気がするのだけれど、それらはとても抽象的で、そのそれぞれがなんだったのかは具体的にはよくわからない。なんだかそういうライブだったような気がする。でもひとつだけ、これは確かだったなと思ったことがあって、それは、東京ドームはべつに広くは感じなかった。という思いだった。

  
11月4日、東京ドームでバンプオブチキンのライブを観る。
水道橋の駅を降りるとすでにライブを観にきたと思われるひとが大勢いて、なんだか街全体がそわそわしている感じがしていた。
歩道橋を渡ると巨大なドームが見えてきて気分が自然と高揚するのがわかる。云うまでもなく東京ドームという球場は日本において名実ともに最大級のライブ会場のひとつでもあるのだけれど、このバンドの活動を見やるといつのまにか、この場所でライブをするのがそう特別なことではなくなってしまっているようだった。

でも観客としては、そしてそう頻繁にライブに足を運んでいるわけではないじぶんとしては、ここでバンプオブチキンのライブを観るのには特別な感じがある。何度かこのバンドのライブは観ているけれど、この日のライブがいままででいちばん大きい会場ということになり、楽しみと同時に主にバンドとの(物理的な)距離の面でちょっとした不安もあった。ロックバンドが東京ドームでライブをするのは、クリア済の集客の面以外でもいくつかのハードルがあるように思っていたからだ。

 
インストの「aurora arc」をSEにメンバー4人が登場し、「Aurora」のきらびやかなイントロがはじまってライブは幕を開ける。まず目についたのはメンバー間の距離の近さだった。東京ドームなのに機材やバンドの立ち位置がすごく近いなと思う、これはさすがライブハウス上がりのバンドだなとちょっとうれしくなってしまった。

つぎに気がついたのは映像と光の演出。
まず映像、ステージ後方には見たことのない大きさのスクリーンがそれこそのただの壁のようにそびえ立っていて、曲ごとにその雰囲気を増幅させるような映像が流れる。これはいちいちドラマチックで目で観るたのしさがあった。音を映像でさらに補強しているようでこれはドームの広さを存分に生かした演出としてとても贅沢だと思うし、このバンドの、特に新譜『aurora arc』の曲たちの持つスケールの大きさや風景を想起させる手触りにぴったりマッチしていて、メンバーを大写しにするよりは曲の空気を映像化して届けようというような意図をつよく感じた。

つづいて光、入場時に配布されるPIXMOBというLEDリストバンドがライブ中に制御された色やタイミングでいっせいに光るのだけど、これがすごくきれいで、かつすべてのオーディエンスがライブの演出に参加しているかのような一体感を感じることができた。
曲中にステージではなく広大なスタンドの方を眺め、その光景に息を飲んで、こんな景色はドームじゃないと見られないかもしれないな。と感じたことをつよく憶えている。リスナーひとりひとりが光を放って、そのそれぞれの明かりは小さくても空間やメンバーをたしかに照らす。
だから、ここからはちょっと気障な物云いになるのだけれど、この僕のいた2階1塁側の18列231番の席から発する仄かな光は、宇宙の片隅の星の瞬きのようにあるいは夜空に輝くオーロラの粒子の一粒のように、ステージ上の升秀夫に、直井由文に、増川弘明に、藤原基央に届いているだろうか、なんてことも思ってしまった。

メンバーはたしかに2階スタンドの僕の席からは遠く、細かい仕草や表情なんかは伺えるものではなかったけれど、前述の演出や、他にもステージから伸びた花道やサブステージといった工夫によって東京ドームの広さや遠さは思いの外に感じさせなかった。
それにつくづくライブというのは聴くだけではなく、視覚に訴える、感じさせるところが非常に大きいものなのだとあらためて思わされたし、視覚でドーム会場の広さを縮めるようなこれらの工夫がうれしいしたのしいと思った。

でも、もちろん東京ドームを広く感じなかった理由は、巨大なスクリーンや光るリストバンドといった機材の力や、ステージの配置によるものだけじゃなくて、バンプオブチキンのメンバーの力による理由もあるのだけど、それはこの文章の最後に記すことにしたい。

 
ライブは『aurora arc』の曲を中心に、過去の代表曲を織り交ぜて進行していく。何度もライブで聴いてきた「天体観測」はこんなに広大な会場でも遜色なく響きわたるし、「虹を待つ人」や「Butterfly」のシンセサイザーの効いたカラフルなサウンドは映像やPIXMOBとの相性がばっちりでこれはドームでこそというような映え方をしていた。

ロックバンドによる飾らないサウンドは時として会場を選んでしまうようなところがあるように思うけれど、バンプオブチキンはロックバンドとしてのストレートな演奏にとらわれ続けることなく、シンセサイザーやストリングスやピアノといった楽曲に彩りや広がりをもたらす楽器を臆せず取り入れ、曲の持つ力を最大限に引き出して遠くまで届けるための変化を受け入れ続けてきた。
そのサウンドが結実したのが、様々なジャンルからのタイアップで引っ張りだこでいろいろな場所で鳴り響いた曲が勢ぞろいするとんでもないアルバムであるところの『aurora arc』であるように思っているのだけれど、その広大なスケール感を湛えた新譜を携えたツアーが、日本各地のドーム会場を回るというのはとても自然なことのように思えてしまう。
曲が広く受け入れられたからこその集客の面でもそうだけど(チケットを取るのに難儀したからそこは身を持って実感しています)、すこし曖昧で歯がゆいけれど楽曲がとても広い会場を求めているような気がする、というおおげさかもしれないことをつい云いたくなってしまう。
メンバー四人のドラム、ベース、ギター、ボーカル以外の音、シンセサイザーやストリングスやピアノなどの音をライブでも同期で鳴らして楽曲を補強し、彼らは曲が呼ぶ表現を叶えてきた。

メンバーの様子はどうだっただろうか、ドラムの升秀夫、ベースの直井由文、ギターの増川弘明はいつも通り過剰な振る舞いはみせず曲を表現することに注力しているように見えた、でもギターボーカルの藤原基央はツアーの終わりを惜しむようにすこしテンションが高かったように見える。声はとても出ていたけれど、気持ちがどこか高揚している様でライブを楽しみつつ名残惜しそうな気配があった。

ライブは視覚に訴えるところが大きいと先ほど書いたけれど、ライブならではの一期一会感は彼の歌からも感じさせられる。このバンドのライブを観たことがある方ならよくご存知のことだと思うのだけれど、このボーカリストはよく曲の歌詞やメロディーを変える。どれも即興でやっていそうでおそろしいし、そのどれもが曲にさらなる彩りをもたらすのだけれど、それはまさにライブらしくて「いま」を大事にする唄を歌いつづけてきた藤原基央らしいなと、うれしくなってしまう瞬間が多くあった。

即興といえば終盤の手拍子や合唱でリスナーが楽曲に参加する「新世界」では曲が終わったあとにキラーフレーズである"ベイビーアイラブユーだぜ"のコールアンドレスポンスがはじまり、これは突発的なにおいがしてとてもいいなと思った。
メンバーたちがいったん途切れた演奏を再開する様もどこか予定していなかったハプニング感があって、藤原基央の振る舞いに慌ててついていく様がなんだかとてもほほえましかったし、観ていてうれしかった。

とても濃厚だった本編はこれも壮大な「supernova」とアルバムの核といえるような「流れ星の正体」で幕を閉じる。
演奏に加え映像やPIXMOBによる光の演出、それにオーディエンスの手拍子や合唱も交えて、とてもカラフルというか、表情が豊かな時間だった。
開けた楽曲が広大な東京ドームという会場にきちんとおさまって響いて、かつ広い空間を利用して音源とは別の表現を確立させているすばらしいライブだった。
 

そしてアンコール。ここで起こったことは、個人的に感情が大きく揺さぶられることになる。
とても懐かしくツアーファイナルのアンコールで奏でられることに意味を感じてしまう「バイバイサンキュー」と、大合唱を呼び起こす最初期の曲であり代表曲でもある「ガラスのブルース」を四人の音だけで演奏し、ここで予定の曲は終えただろうか、藤原基央だけがステージに残って最後のMCにうつる。
そこで語られたことのすべてをつぶさに憶えているわけではないのだけれど、印象につよく残っていることがふたつある。

ひとつめは彼がオーディエンスに向けて「おまえ」という二人称をつかっていたこと。
「みんな」でも「君たち」でも「おまえら」でも「君」でも「あなた」でもでもなく「おまえ」と彼は直接呼びかけてきた。東京ドームの2階席に立って油断していた僕はいきなり胸ぐらを掴まれてしまったように固まってしまう。
きょう「おまえ」が歌ってくれた歌は未来のじぶんに向けても歌っていて、それを忘れてしまったら思い出す手伝いをすると、俺たちの曲を選んで見つけてくれたから、俺たちの曲も「おまえ」を見つけるよ。そういう話を彼はした。
言葉の選び方、それだけの話といえばそれまでなんだけど、こんなに直に響いた話はなかったように思うし、このとき、僕と藤原基央の距離はとても近かったという錯覚を憶えてしまった。

ふたつめは彼が、俺たちの曲は「勝手に」おまえのそばにいるからと話したこと。
「勝手に」というくだりを聞いて、僕はまた動けなくなってしまう。個人的な話になるのだけれど、僕はいつもミュージシャンが奏でる音楽から「勝手に」いろいろなものを受け取っていると思っていた。解釈や理解に正解なんてない音楽の世界で、こちらの都合のいいように「勝手に」感情やときになんらかの力のようなものを受け取っていると思っていた。
だけど、彼もまた「勝手に」届けている、なんてことを云う。
……これだと僕は「勝手に」届けられたものを「勝手に」受け取っていたということになる。だから思わず震えてしまった。
なんだよ、これだとやっていることが同じじゃないか。
だからここでも距離が限りなく無くなってしまったというか、お互いのその勝手さは、なんだろう、きわめて自由なんだなという錯覚をまた憶えてしまった。

感情がつよく揺さぶられたあとに、藤原基央は、こんなに長く喋るなら曲演れって話だよな。とひとりごちてトレードマークのレスポール・スペシャルを手にとり「スノースマイル」をたぶん勝手に歌いはじめる。
予定していないであろう演奏にメンバーは急遽ステージに戻り、スクリーンもPIXMOBも光らないむき出しの「スノースマイル」が披露される。しかも間奏で俺のバンド、かっこいいだろう。なんて云う。僕は、そんなこと知ってるよ。とつい思う。

曲が終わって今度こそ大団円……とはならなかった。この日の藤原基央は止まらなかった。もう一曲歌いたいと今度は「花の名」をアカペラで歌いはじめる。僕は驚いた。たぶん升秀夫も直井由文も増川弘明も驚いたんじゃないかなと思う。
「花の名」はこれまで豪華なストリングスを同期で鳴らして演奏されてきた曲で、ツアーでも演っていないので、こんな突発的に演奏できそうな曲ではないと思うのだけれど、彼はかまわず歌いつづける。そこにはついてこられるだろうというメンバーへのつよい信頼が勝手に感じられた。
なんで「花の名」だったのかはわかる気がする、直前のMCの内容と歌詞がリンクしているからだ。と、思う。

いつか 涙や笑顔を 忘れた時だけ
思い出して下さい
迷わずひとつを 選んだ
あなただけに 歌える唄がある
僕だけに 聴こえる唄がある

「花の名」

音源とはまったくちがうドラムとベースとギターとボーカルしか鳴らないロックバンドの初期衝動感にあふれた「花の名」は、まるでできたての曲を合わせているかのような親密さがあり、とても心に響いたし、バンプオブチキンのロックバンドとしての矜持のようなものが勝手に感じられた。
それになんだかリハーサルスタジオにお邪魔しているような気がして、東京ドームはべつに広くは感じなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?