シューゲイザーをめぐる冒険 - My Bloody Valentineのライブを観てふりかえってみたシューゲイザーについてのあれこれ

数少ない海外のバンドをテーマにした文章です。むずかしくはあるのだけど、もっと書いてみたかったという後悔がある。あと、タイトルで村上春樹の小説をパロディしてしまうの、一生やめられません。
音楽文掲載日:2019/4/18


去年の夏に八王子の実家に帰省したとき、母とこんな話をした。

「今年も音楽のやつに行ってきたん?」
「うん。行ってきたよ。今年は……そうそう目玉がおもしろいバンドだったんだ。シューゲイザーっていう妙なジャンルの音楽なんだけど、何がすごいかって音量がすごく大きくて、演奏が始まるまえにそのバンドが耳栓を配ってるんだ」
「え……、耳大丈夫なん?」
「つぶれたりとかではなかったけど、すごいよズボンとかびりびり震える」
「やー怖い」
「ロックの一種なんだけどこうやって手を上げてウォー! みたいな感じじゃなくて、テンポもゆっくりで海鳴りを超でかくしたみたいな音楽で、みんな半目で体をゆらゆらさせながら聴くんだ。ある種のトリップというか陶酔を呼び込むんだよね」

息子の説明を聞き、呆れた母が訊いてくる。
「……いろんな音楽があんねんな。それなんてひとたちなん?」
「My Bloody Valentineっていうんだけど……」
 

いろいろな音楽を内包していま現在も転がり続けているロックミュージックのジャンルの一つに、シューゲイザーというものがある。まず、その音楽的特徴を言葉で説明してみようと思う。

前提としてエレキギターが非常に強く歪んでいて、かつ残響がたっぷりとまぶされている。じゅわ~ん(わ~ん(わ~ん(わ~ん)))という感じ。このリバーブだったりディレイだったりの残響こそがシューゲイザーの肝。奏法はコード弾き主体で派手なリードみたいなものはなくて、あっても同じフレーズを飽きずにずっと繰り返したりする。そしてテンポは比較的ゆったりとしていて、リズムセクションは派手には立ち回らない。あと歌はもちろんあるんだけど、なんと歌すらシューゲイザーにおいては主役ではないという感じ。遠くでこれまたぼやけた残響をひきつれてぼんやりとあまり上下しないメロディを声を張り上げずに歌い、これも演奏の一部なんですみたいな顔をしている。すべての音が残響によって溶け合って、それは絵画でたとえるなら抽象画がいちばんしっくりくるのではないかと思う。

……文字にするとこんなものだろうか。いわゆるビートが効いて歌が前面に立ってというロックの快楽原則的なものとは趣を異にしていて、喧しさだけを残して派生した異形のジャンルがシューゲイザー。という説明でそんなに外れてはいないはず。
 

僕がはじめて触れたシューゲイザーのことはわりとはっきり覚えていて、それは学生のころに出会ったAIRの代表曲のひとつである「Hair do」という曲だった。正確には知識が無くてそれをシューゲイザーだと当時は認識できていなかったのだけれど、ライブの終わり際のいいところでいつも演奏するその曲のことをとても不思議な曲だと思っていた。
どんな曲かというと、まさに深い歪みと、執拗にリフレインし続ける楽曲のテーマのような短いフレーズ、そしてあえて単調にしたリズムの上に甘いメロディのぼやけたボーカルかのっかっている。壮大で(なにせ9分35秒もあるのだ)混沌としたとてもいい曲なんだけど、この妙なアレンジはいったいなんなんだろう……と当時は思っていた。

そこから数年が経ち社会人になったころ、いろいろなところでその名前を聞いていたMy Bloody Valentineの『Loveless』を友だちから借りてはじめて聴いた瞬間、僕は“そういうことかよ!”と思わず声をだして笑ってしまう。「Hair do」がこのバンドのサウンドを下敷きにつくられたことが一瞬でわかってしまったからだ。ここまで潔いなぞり方もなかなかないし、とてもいいなぞり方だと思う。そしてそうやって音楽のスタイルをなぞっていくのはとてもAIRらしいなと、なんだかうれしくなってしまったことをよく憶えている。

余談と弁護だけど、AIRこと車谷浩司というひとは、ほんとうに既存の音楽を本歌取りというか吸収してじぶんの表現にすることに長けた器用なミュージシャンだ。オルタナもシューゲイザーもミクスチャーもジャズさえも取り込んで、どれも「ごっこ」にはとどまらない高いレベルでじぶんのものにしようとしてしまうし、それができてしまう(しかもアコギ1本の弾き語りもすごくよかったりする)。逆に、そのまるでカメレオンのように柔軟に表現の色を変えられることこそが、AIRというミュージシャンの強固なオリジナリティになっている。

という流れでAIRからマイブラに繋がって、シューゲイザーというものを知ってからはディスクガイドをもとに他にもRIDE、Slowdive、Swervedriver、Chapterhouse、The Verveなどなどの紹介されていた海外のバンドたちを聴いてみた。どのバンドも同じジャンルと謳われながらその中でのアプローチのちがいなんかが感じられてとても興味深かったし、でもやっぱり深い残響が基軸になっているというところは、まるでパーティのたったひとつのドレスコードのように共通していておもしろかった。

正直なところはじめはとっつき辛いと思っていたそのリバーブの感じも、聴きすすめるうちにだんだん癖になってきて、それこそ最初は不思議だと思っていたその霧のような靄のような深い残響のまきちらかし具合を聴き較べてたのしむことができるようになっていく。音に耳を、あるいは身をひたしてぼーっと陶酔することがシューゲイザーの楽しみ方なのかなと思えるようになれたし、そこには強烈な美学があるなと勝手ながら思うようにもなった。

そしていろいろ聴いてみたうえで、シューゲイザーとしてくくられているバンドのなかではやっぱりマイブラが聴いていて特に気持ちがよいと思った。歌はあるんだけどそれは主役じゃなくて、ギターも実は主役じゃなくて、歌も含めたすべての楽器が溶け合ってひとつのうねりをつくっている様に感じられたからであり、それは快感の体験といってもいいかもしれなかった。芸術性、なんて云ってしまうと大袈裟かもしれないけれど、描く音楽的理想の高さ(あるいは深さ)や気高い美学の持ちようを感じてちょっと身震いしてしまう。バンドの首謀者であるケヴィン・シールズというひとの頭のなかはいったいどうなっているんだろうか。このひとはエレキギター(ジャズマスター)でいったい何をしようとしているのか、その頭のなかに何を思い描き、何を想像しているのだろうか。なんてことをふと思ってしまう。
 

シューゲイザーの特性である深い残響、あるいは残響同士の衝突で生じる不協和音についてはある気づきを、2016年のホステス・クラブ・オールナイターというイベントにて得たことがある。
僕はその夜、Deerhunter、Dinosaur Jr.、Saveges、Templesのライブをたて続けに観て(とても贅沢な夜だった)、どのバンドにもシューゲイザー的な深い残響や不協和音をまき散らす瞬間があることに気がついた。
Deerhunterを除けばどのバンドもシューゲイザーの文脈で語られることはないように思うが、それでも表現のオプションのひとつとして残響や不協和音を操っている。
これについては仮説大爆発なんだけど、たぶんイギリスやアメリカでは、ロックバンドの表現技法のひとつとしての残響や不協和音が身近だったんじゃないかなと思う。かたや日本だとそれらは“音楽に不要な余計で汚いもの”とまず捉えられていて、進んで手にする技としては挙げられにくかったのではないだろうか。
表現の認知度のちがいというか、例えば日本の高校生が文化祭にてそういう表現を駆使ししていたら(いるだろうけど)、うるさい、音楽じゃないと外から正されてしまいそうな気配を感じる。
それはどうしてもロックとの(物理的な/精神的な)距離が関係しているのではないかなと勝手に睨んでいる。ロックにだってもちろん海の向こうとのその距離の差を感じることがしばしばあるが、そのなかでの枝葉の枝葉で徒花の感もあるシューゲイザーのマナーまではなかなか手が届かない。その証左、とまでは云えないただのほんの一例だけど、僕がマイブラをはじめて聴いたのも20代中盤のときと遅かったし。
 

最後に、冒頭で挙げた2018年のソニックマニアで観たMy Bloody Valentineのライブについて少しだけふれてみたい。
身構えていてもその音量や音圧はやっぱりすさまじいものだった。もちろん音は空気の振動なんだけど、それが前述の通りズボンを震わせたり顔面に空気がぶつかるような物理的な体験をさせられるとは思わなかったし、耳栓を自ら配るほどの音量の大きさも彼らの表現のひとつなんだなと文字通り肌で感じることができた。ただ、耳にも体にもそれらはあまりに衝撃的でもあったため、体を揺らして音楽をたのしむというよりはうまく身動きがとれなかったというのが正直なところだったけれど。
目のまえでいったい何が起こっているんだろう? と呆然とステージを見つめてしまったのははじめての経験で、それはなにかの儀式かあるいは奇妙な実験を眺めているような、あるいはそれに参加してしまっているような錯覚を憶えた。ただのロックバンドのライブなのに、そういう異様な景色のようなものを見せられたことが、強く記憶に残っている。

これはたとえば絵画でも小説でも映画でも、どんな芸術にも云えることなんだけど、ロックミュージックで云えばその音楽は基本的にはドラム、ベース、ギター、ボーカルという音の構成で成り立っている。だけど使っている楽器(道具)はだいたい同じでも、そこにでてくる音(作品)の質感はそれこそ千差万別で、そのそれぞれのちがいを、つまり表現における個性の有り様やひとはそれぞれぜんぜんちがうんだということを僕はおもしろがったりたのしんだりしているし、そのちがいを知ることこそが芸術にふれる意味なんじゃないかと密かに思っている。
そのなかで、すこし時間をかけてたどり着いたMy Bloody Valentineが音源やライブで見せてくれた音の風景のようなものは圧倒的かつ異様なまでに個性的で、それは簡単に忘れられるものじゃないんだろうなと思う。

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