2友人紹介キャンペーン掲示

才能はロマン、努力はリアル

滋賀生まれ、滋賀育ち。母なる湖びわ湖。今年で24歳。来年25。四半世紀を生きてきた。職業、大学生。あと数か月で卒業(単位の計算が合っていれば)。某広告会社に入社予定。配属・部署ともに未定。

生まれてきてから今までの事実を羅列してみたけれど、ちっともおもしろくない。経歴や肩書を書き連ねるだけでは魅力的な自己紹介にならないらしい。考えてみれば、おもしろい!興味深い!と思えた自己紹介の内容は、プロフィール欄に書いてあることをなぞるようなものではなく、むしろそこには書かないような、その人の内面奥深くをのぞかせるものだったと思う。だから僕も、経歴や肩書から離れて自己を紹介することにする。


僕は才能を信じている。

それは、自分の能力に自信があるだとか、センスを誇らしく思っているとかそういうことではなくて、僕は「才能がこの世に存在する」ことを信じているのだ。

こんなことを言うと何当たり前のこと言ってんだと思われるかもしれない。でも実は、日本には才能の存在を否定したがる人がたくさんいるのだ。


試合に負けたスポーツ選手に「勝てる奴はもっと努力してる」

演奏会でミスをした彼彼女に「練習が足りない」

大学に落ちた受験生に「みんなもっと勉強している」


こんなことを言う人を見かけたことはないだろうか?僕はある。その人が積んできた練習や努力をロクに知ろうともせず、口を開くたびに努力努力と説教をかましてくる人間を僕は知っている。彼らは才能を毛嫌いする。敗者が口にする才能という言葉を、ただの言い訳とみなす。彼らは、才能のあるなしにかかわらず、努力をすればみな夢をかなえられると、半ば本気でそう信じているのだ。

あえて言おう。才能を否定する人間こそ、本気で努力をしたことがない人間だ。何かの目標に向かってひたむきに努力を積んだ経験があれば、才能なんて関係ないなど口が裂けても言えないのだ。

高校も中学と同じくソフトテニス部に入った僕は、中学の時よりも練習に打ち込んだ。朝練、放課後錬、居残り練習を繰り替えす毎日。ソフトテニスを中心に生活していた。

高2の秋大会。近畿大会出場をかけた試合で、僕は負けた。これでもかというほどに打ち込んできてこの結果。当然落ち込んだが、僕にとってもっと辛かったのは、練習中ふざけていた奴が近畿大会に出場したことだった。誰よりも真面目にやってきた自分が負けて、サボっていた彼が勝った。17年間生きてきて、それまで積み上げていた何かが心の中で崩れた瞬間だった。

この人生で一番悔しかった経験で、僕は気づいたのだった。「才能は存在する」ということに。

バイト先の塾で東大に合格した生徒がいた。彼は「夜八時以降は勉強しない」というマイルールを持っていた。入塾時、数学は苦手ですと言っていた彼の得点は全国平均を大きく上回っていた。

およそ天才と呼ばれている人たちの努力を否定しているわけではない。彼らも当然努力している。だが、吸収力が違うのだ。凡人と天才が同じ時間同じ練習をしたとしても、そこから得る学びの量には天と地ほどの差がある。これはもう、否定のしようがない事実だ。

陸上100メートルの金メダリスト、ウサイン・ボルトは努力をしなかったか?当然、しただろう。

じゃあ、ウサイン・ボルトに負けた他のオリンピアン達はウサイン・ボルトより努力の量が少なかったのだろうか?


僕は自分が天才でないことを知った。それでも僕は努力をやめていない。けれど、才能の存在から目を背けているわけでも、努力の価値を過大評価しているわけでもない。僕はただ、凡人が天才に打ち勝つための現実的な方法を模索しているのだ。

僕はウサイン・ボルトのような天性のバネは持ち合わせていない。だから僕はランニングシューズをひたむきに開発することによって、彼より早く走りたいと思っている。

才能はロマン、努力はリアルだ。


内定が決まってから、コピーライティングを勉強し始めた。やはり僕はコピーライティングにおいても天才ではないらしい。

それでも頑張ってさえいれば目にかけてくれる人は現れるようで、バイト先の塾長が僕に広告や掲示物の作成をふってくれるようになった。

下に貼ってある画像のうち1点目はグループ校舎共通の友人紹介キャンペーンの掲示物。2点目は僕が考案した新サービスの告知ビラ。

これを読んでもらうことが一番の自己紹介なのかなと今になって気づいた。


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