見出し画像

雑多な雑感――NPOの戯言⑬

《たぶん普遍的なテーマ⑥》 偶然か必然か
 人生は偶然の連続とも言われる。「宿命」「運命」と呟かれる事態もまた偶然の重なりによって培われる。わたしが日本の大阪という地で生誕したことを作為とすることはできない(作為なく子の生誕はないが、そういう意味ではない)。ゆえに必然ではありえない。
 人との出会いを考えてみよう。例えば小学校や中学生のクラスは自分で選択できない。みんなと仲良くなることができるかもしれないし、仲間外れで嫌な思いを抱え込むことになるかもしれない。偶然の作用は大きい。
 もちろん、人は成長するにつれて自己の置かれた状況を変えたいとも考えるだろう。実際、その過程で選択という可能性の広がりを信じることができる。○○になりたいとか✕✕を避けたいとか。その意味で偶然を排除して自分の選択に必然を感じることもできる。しかしその選択もまた偶然を退けることはできない。なぜその選択に至ったかは環境に縛られるからである。
 それでも、最も大切なことは偶然を必然と「勘違いできること」である。学校でたまたま出会った人が親友となったり、恋人となり生涯のパートナーとなることもある。ある出会いを必然と思えること――その幸運を大事にすることができる。
 ともあれ、そうした偶然と必然を「善きこと」として受け入れる心持ちが人を楽しませ豊かにしている――そんな風に思って過ごしたい。わたしにとって偶然と必然が重なり合うと感じられた唯一の経験は好きな人との出会いと別れに尽きる。文字通り生涯一のことであろうと思う。ちと気取って言うと、偶然の出会いがもたらした愛別離苦――それでもなお「善きこと」として記憶に刻印されている。
◆注:もちろん因果応報という言葉があるように、ある行為がもたらす結果に必然を認めることは否定しない。あるいは、会者定離というのも必然である。何もかも偶然とすることもできない。
◆推し文献:偶然で思い出したのが、ポール・オースター編『ナショナル・ストーリー・プロジェクトⅠ・Ⅱ』(新潮文庫、2008年)。ここに記録された出会いのありようを楽しむのも楽しいかも。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?