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神も仏もない世界

この世には、神も仏もありはしない。
だって、今日も無慈悲な事件で弱い人々が犠牲になっている、この世に神や仏がいるならば、そのような行いを許すはずがないだろう。
誰もが一度はそのように思いめぐらせたことがあるのではないでしょうか?

私も若い時分には、心同じくこの世はなんと無情なものであろうと、人並みに憤りを感じたりしたもの。しかしながら、人生も半ばとなった今日ようやく神や仏あるいは人間の行う愚かな所業について、理解できるというよりも腑に落ちる思いなのです。

ここからは、私がそのように思えるようになった一部の経緯を書き連ねさせていただきます。

目に見えるものがすべてじゃない

私の故郷に石手寺という大変立派な寺院がございます。
石手寺院内には、マントラ洞窟という貴重な体験をできるスポットがあり、かつて一度だけ洞窟内に母親と共に入ったことがあります。

洞窟内の一部は真っ暗闇で何も見えず、自分の視覚以外の感覚を頼りに進まねばならぬというなんとも珍しい試み。当時幼年期であった私は、暗闇の中をただ歩む意義が見いだせず困惑するばかりでした。

そして時は流れ、大人となった私が住んでいる街に東長寺というこれまたありがたいお寺があります。縁も所縁もなかった私でしたが、いくつかの偶然が重なり東長寺を訪れる機会に恵まれました。

東長寺内には、『地獄極楽巡り(戒壇廻り)』があり、こちらも暗闇の中を視力以外の感覚を頼りに進む体験ができ、道中『仏の輪』に触れられれば(実際に触れる)、極楽に行けるという云われのある体験もできます。

お読みいただいている皆様の中には、石手寺と東長寺の共通点をご承知の方も多いことでしょう。
いずれも弘法大師空海所縁のお寺であるということ。

当時の私は、なにゆえに時と場所を違え同じような体験をしたのか。皆目見当もついておらぬばかりか、そもそも意識の端くれにすら気にかけておりませんでした。しかし程なく十数年の年月を重ね、今にして巡り合わせの面白さに感服いたす思いなのです。

いずれの暗闇が語り掛けるは己の心。自分の心に向き合う大切さが説かれているように思えてならぬのです。

見よう見ようと外に目を向ける限り、真実は見えぬもの。

時には目を閉じ、心眼を開くことで見えるものがある。

自分の中にこそ仏がいるのだと。

その意味において、自分こそが神であると。

『己の中に仏がいる』

神は自分、仏は罪を犯してしまう人間の中にこそいる、だから本人がこのことに気づかぬ限り弱き者たちが救われることはない。

被害者側にはいつも落ち度がないのは当然ながら、加害者側の愚かさゆえにいついかなる時も罪穢れがこの世に現出しているに過ぎない。

とどのつまり神や仏は関係ない。

すべては一人一人の心がけ次第なのである。

人生やこの現実は、自分や周りの人々のためになることをするために生まれてきているのであるということ。

損して得取れの得は、徳であるということ。

このことを肝に銘じ日々を営みたいと改めて思うのでした。

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