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ケルト人と謎の古代人スキタイ(6)


ここで一度、原点である落合史観に戻り、日本におけるスキタイを考察してみます。
まずは
『落合・吉薗秘史[7]三種の蝦夷の正体と源平藤橘の真実』から古代史伝授の「ヒノモト」の箇所を以下抜粋いたします。

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わたしが、最初にヒノモトのことを質した時、単に「それは阿倍氏(安閉氏)」とだけ伺った。アベ氏は武沼河別の子孫の皇別貴族である。
 ところが、しばらく考察を進めていくうちに感じたのは、これは当座の説明であって、ヒノモトには他にも同役がいることである。そこで、さらに質すと「ヒノモトは一種のカバネ」とのことであった。
 京都皇統によれば、そもそも「日ノ本」とは応神王朝の職分の一つで、國體の護衛として仕える武官で後の「北面武士」と同じような存在という。いうならば。近衛武官である。
              ~中略~
また、北面武士は当初は源平両氏が多く、やがて信夫佐藤氏が加わるから、これと同様というのは、特定の氏に限らないということであろうか。
 これを京都皇統の舎人に質したところ、応神王朝の近衛武官とヒノモトを知るには、欠史八代(神武王朝)の時代に遡らねばならないことが分かった。ヒノモトの本質を知るには太古の昔、すなわち欠史八代から遡るプレ神武時代から説き起こさねばならない。
 まず欠史八代の時代に、とくに選抜された縄文人が羅津に送られて騎馬術の猛烈な特訓を受けたことから、ヒノモトが始まるという。特訓の目的は、いうまでもなく國體守護の参謀・奉公衆の養成である。
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前回の『ケルト人と謎の古代人スキタイ(6)』で朝鮮半島におけるスキタイの痕跡を紹介しましたが、新羅の王墓からギリシャ・ローマ世界で作られた、装身具や装飾品が多く発掘された時代である「新羅前史末期261年~第2期540年」は、スキタイ人とスキタイ人の最後の生き残りがゴート族に圧倒されていた紀元3世紀とかぶります
この時期に頻繁にスキタイが朝鮮半島に出没していたことは十分想像がつくと思いますが、広大なステップロードとはいえ、馬での移動であれば、クリミア半島から朝鮮半島の羅津まで、1ヶ月ほどで移動できたと言います。
そのため、『三国史記』の信憑性が増すと言われている、奈勿王以前にもスキタイは騎馬により朝鮮半島に出没していたことは十分考えられます。
人類史において、初めて馬を飼いならし、騎馬という方法を考えついた古代人スキタイは、ステップロードを縦横無尽に駆け巡り、各地に情報や交易による物品、社会制度や任侠などの精神文化、戦闘技術なども提供していきました。スキタイが伝えた精神方面において私見では、後に武士道や騎士道にもつながっていくと考えています。
前述したように、スキタイは敢えて文字を持たずに、隠然と地球運営のために、天地自然の意思を体現させるが如く行動してきました。
それは、天文学、占星術に長けたバラモンたるマギの託宣と、宇宙の変化と連動し躍動する地球の変化に基づき、クシャトリアとして実力を行使してきたと考えられるのです。
そして地球運営を行う上で、極めて優れた資質を持ち合わせた日本の天皇家を見出し、来るべき国際化のために温厚な縄文人に戦力を獲得することの重要性を説き、そして軍事訓練を施し、専守防衛の基礎を築き上げた種族がスキタイだったのです。

嘗て、国家というものが形成される以前、スキタイなどの騎馬民族が様々な情報を各地に伝える中で、神話や叙事詩も一緒に伝わっていくことは、『ナルト叙事詩』と『アーサー王伝説』を通して見てきました。しかし、世界にはそれだけではなく、他にも多くのパラレルが見られる逸話が各地に存在します。
特に日本は、インドネシアの「ハイヌウェレ神話」と「大宜津比売(オオゲツヒメ)」に代表されるように南洋や東南アジアなど、日本よりも南の地域の神話との比較が多いのですが、北方経由で日本に流入したと思われる、というよりも、今まで見てきた中で言うならば、スキタイが持ち込んだと思われる、古代ギリシャ神話と日本神話の類似点がありますので次回ご紹介いたします。


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