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中村哲 <荒野に希望の灯をともす>

僕がいつか書くつもりで準備を進めているテーマとして『民主主義という幽霊』がある。
現代の人が言う「民主主義」が、一部の人間のみを潤すことになってしまった「国際共産主義」の隠れ蓑に成り下がったのは、初期の崇高な理念を捻じ曲げ、また、当然長年の利権構造を放置した結果でもあり、それに甘んじ、嬉々として従属したホイットニーチルドレンがいたせいでもある。
戦後日本人を「養い、教え、禁じ」てきたのは、世界最強の暴力装置たる在日米軍であるからして仕方がないと言えば、それまでだが、戦後80年という節目を迎えにあたり「腹=ANTI-NODE」の時期でもあることから、横田幕府の禄を食むのではなく、個々人が自立する方向に意識を向ける必要性を強く感じるわけである。
僕は、自らが自立することにより、人を助けることにつながると考える。
この中村医師の活動は、戦後の米軍支配下の日本において、それに従属することなく、命をかけて我々日本人に、いかに生きるかの「型示し」を残した偉人についての映像である。
なかなか見れない人に、箇条書き程度ではあるが、以下に記しておく。



2019年12月アフガニスタンのジャララバードにて、何者かの凶弾に倒れた中村哲医師。
彼の功績は一言では表せない苦難の道のりの連続だった。

始まりは海外への遠征登山に同行する医師として、パキスタンを訪れたことがきっかけで、現地の村人を診療することになった。現地には医師がおらず、病気になったら神に祈るだけ。と言う有様だった。
一旦帰国した後、この時のことが忘れられず、「パキスタンへの医師募集」に迷わず志願した。
1984年、中村37歳の時、アフガニスタンの国境近くのぺシャワール(パキスタン)の病院に勤務した時、ハンセン病患者の治療を担当。登録患者は千人を超え増加傾向にあったが、医療器具は無いに等しかった。
中村医師を支援するため、友人たちが立ち上げた「ペシャワール会」が募金活動を行い、中村医師の活動の経済的支援を行なった。
癩反応に苦しみ、自身を殺してくれ、と懇願する患者に出会い、中村はどう処置すべきか自問自答を繰り返した。中村自身は、この患者もまた、自分と同じように自問自答を繰り返していたであろうと回想している。
ベルリンの壁崩壊以降、アフガニスタンに駐留していたソ連軍が撤退。中村はパキスタン、アフガニスタンの「山村無医地区」に自ら出向き診療所建設を行なった。
そのような中、マラリア大流行が原因で、薬を奪い取ろうと、中村の診療所が武装勢力に襲われそうになった。診療所スタッフも元戦士だったので銃を取って戦おうとしたが、中村は戦闘を禁じ、日本からマラリアの特効薬を大量に仕入れて約2万人の人命を助けた。

昨年まで、緑豊かな水田だった場所が、異常気象により大旱魃に襲われた。ケシュマンド山脈の雪は消え、井戸も枯れてしまっていた。
アフガニスタンは9割の人々が自給自足で生活している中で農作物は育たず、人口の半分の1200万人が飢餓に襲われた。そして当然のように診療所には多くの患者が訪れた。
旱魃の犠牲者の多くが幼児であり、若い母親が幼い子供を抱えて長い道のりを歩き診療所を訪れても、診療を待つ間に我が子が腕の中で死亡、途方に暮れる母親の姿は珍しくなかった。
この時中村医師は、問題の根本は、清潔な水がないことと、栄養が不足していることであると痛感した。
そこで井戸を掘ることを決断。1年間に660箇所もの掘っていった。
病気を治すよりも先に、生存することを優先に水の確保に動いた。
しかし、そこにある大事件が起こる。
911同時多発テロである。これにより、米軍は首謀者を匿っているとし、アフガニスタンを名指しで攻撃し、世界に対テロ戦争を呼びかけ、属国日本も同調することになる。
中村医師は国会の参考人招致に呼ばれ、アフガンへの自衛隊派遣は有害無実であると訴えたが、法案は可決し自衛隊派遣が決定した。
この時の中村医師は胸中を以下のように書き記している。
「自由と『民主主義』は今、テロ報復で大規模な殺戮を展開しようとしている。おそらく、累々たる罪なき人々の屍の山を見た時、夢見の悪い後悔と痛みを覚えるのは、報復者その人であろう」

アフガニスタン空爆の余波を受け、食料の確保が厳しくなることを見越して、中村の集めた義援金でパキスタンにて大量に食料を買い付け、アフガニスタンに輸送した。これによって15万人の人命が救われたという。
この時の中村医師の言葉が僕には任侠の言葉として響いた「暴に対して暴を以って報いるは、我々のやり方ではない。平和が日本の国是である」
僕は、平和のためにも日本が自立した軍隊を持てる国になることを望む。それはきっと、平和のための抑止力として大きな力を発揮すると確信しているからだ。

空爆を避けるために避難していたアフガニスタン人たちが故郷に帰ってきたが、旱魃の影響で農作物が育てられない状況を見て、中村医師は一年を通して枯れることのないクナール川からの農業用水路建設を決断する。
「緑の大地計画」と呼ばれるものである。
これは1200ヘクタールの田畑を潤すことのできるもの。
中村は一から土木工学を学び、自ら設計図を引いた。現地には重機などが十分にないので現地の人が自らメンテナンスできるように設計した。
当然自然相手なので様々な困難に直面した。それだけにとどまらず、中村は米軍戦闘ヘリから機銃掃射を受けたりもした。
堰を思うように建設できなかった時に、地元福岡の「山田堰」を参考に斜めに堰を作り、用水路を完成させることができた。
また、モスク建設も行い、マドラサも併設した。マドラサは伝統的な教育設備であり、普通はモスクに併設されていて、地域の教育の中心でもある。
中村医師の活動はアフガン中で話題となり、さらなる用水路建設に着手し、ガンベリ砂漠を緑化するに至る
。砂漠を緑化するということをやってのけた日本人がいたことを知り本当に驚いた。
中村の作った用水路流域には15万人が帰農し、生活が安定に向かったという。
中村は、アフガニスタンに命の「水」「教育」を提供したことになる。
また、自然との共存の重要性を改めて認識することにもつながる。
中村哲のこの偉業は、もっと日本で世界で広く知られても良いと思う。
そう考えると、もしかしたら中村医師は、現地で古くから尊敬される「山の長老」になったのかもしれない。

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