立て込む

 麻織真也のアパートは同じ作りが向かい合って建っており、路地から大通り(その手前にまずスーパーマーケットがあるが)を背にして左手、に入ったところにタイル張りの小空間というか、前庭スペースがあって、そこで向かい合っている。麻織真也は路地を背にして右側の棟の奥の二階、階段を見上げて右手側の部屋へ住んだ。厳密には1Rではなく七畳半の部屋に、ロフトというよりは屋根裏部屋(これは九畳という)が付いている。部屋を選び始めたがらんどうの時点では、中々広い所だと感じるものもいたが、実際に麻織真也は狭い。
 麻織真也はそのタイル張りの前庭に自転車を止め、屋根がないので専用の銀色のカバーを自転車とセットで同じショッピングモールの同じバイクショップ内で買い求め、掛けている。といっても毎日かけることは億劫になっていて、始めは三日に一回くらいが億劫だったというが、今では掛けるのが三日に一回くらいなのかもしれない自転車は黒い「スポーツタイプ」と購入時に書かれていたもので、それが専門的な型の名称なのか知らない麻織真也は気に入って購入したし、いまも気に入っているのだが、ギアが六段あるために故障しやすいのではないか。ギアチェンジの際にはガチャガチャと不必要らしい音がするが、点検に出してもいまだに改善されたことがない。
 麻織真也はその自転車を出して(前庭と路地との間には段差がある。アパートの方が一段、十センチくらい高くなっている。だからその段差には直方体とかそれを斜めにカットして角を丸めたようないびつなコンクリートブロックがいくつか置いてあって、自転車で乗り上げるたびにガタンガタンとする。)、職場へ出かけるのだが、細い路地を縫うような道を敢えて、でもないが結果的にそう選んで職場へ直線となる大通りへ出る方法を選んでいる。というのはこの路地のルートは、かつて住んでいた2LDKがあるアパートへつながる道でもあり、そのアパートが名残惜しいのかもしれない。しかし麻織真也はただ狭い路地が好きなのだと思う。
 つまりその道は途中に自動車教習所で習ったことがあるようなクランクがあり、その角にはウメのような花を二月頃から咲かせていた木、進むと雑草の茂っていろいろなスクラップに見えるものが置かれていたし物干しに時々衣類が干されている日本家屋があって、晴れた日の昼過ぎなどは日差しに黄金色というか、小麦色に家屋とか、枯れた雑草とかが光るのだが、それが生垣の隙間から半分から三分の一くらい見えた。そのクランクを過ぎると、左手に小さなY字路があって、ちょうどその又の部分に道祖神が建っている。それは「道祖神」と書かれた石碑で、通り過ぎ、右手に畑、左手に住宅とアパート、という隘路があるのだが、進入して五十メートルばかり進むと、その前まで住んでいた築二十年くらいはそのときには経っていたアパートがある。それは青く塗った壁の、はたから見れば若干悪趣味かもしれない。その二の202号室に二年間ほど暮らした。
 「住めば都」と自分に言い聞かせたが、そこがそれほど嫌ではなかったと今になってあくまで彼は思うのだが、しかし、隣室(アパートに向かって左手。それが201なのか203なのか、じつははっきりわかっていなかった。たぶん何度か確認しているのだがすぐ忘れてしまっていた。)の暮らす住人は、得体が知れず、男性一人暮らしだと勝手に考えていたのだが、時々、時間帯にかかわらずひどい怒鳴り声を上げることがあった。一度若い女性が彼の部屋を訪問したのを、夜、彼は仕事帰りにたまたま目撃したことがあったが、部屋からは男性とテレビらしいもぞもぞとした音しか普段聞こえず、普段その部屋に住んでいるものだとは思えない。反対側の隣室には、四十代後半~五十代くらいの女性、が一人暮らししていて、息子とは別居しているらしく、一度彼女の元を訪ねてきたことがあったが顔を見ていない麻織真也は、その時部屋の中で彼の声だけを聴いた。乱暴な口調で、きっと高校生くらいだと思ったのは、若そうな声で、しきりに女性の事を「ババア」と連呼した。彼は、高校生だと思った理由はもう一つあって、一度202号室へ、身に覚えのない封筒が配達されてきたのだが、それがどこかの高校の資料らしく、隣室の女性の元へ届くはずだったのがきっと誤配されたのかと思った。その女性とは顔を合わせればあいさつを交わしていた。部屋を出た通路で、あるいはベランダで、洗濯した衣類や、布団を日干ししているときで、彼女の部屋の給湯器は、管が劣化しているのか、彼女は日中シャワーを浴びることがあるのだが、その音が部屋の中にいる麻織真也の耳へ届いた。そうしたときに通路に面しているその給湯器からは湯が漏れることがあったので、越してきたばかりの頃は一度彼女へ伝えたことがあったはずだし、管理会社の修理がそれ以降二度は入っていたのを見ているが、しかし時々漏れていたが、彼は今はわからない。
 このアパートはすぐに大きめの通りに面しているので、そのはす向かい、百メートル弱程先にはコンビニもあるので、夜は街灯がつき、こうこうと明るいのだが、そのアパートで、昨年の五月、下旬ごろ。そもそもは烏が居た。アパートの前に、日中、両足の折れたカラスが飛べずにへたり込んでいた。目を丸く見開いて、何もせず(出来ず)、周囲をキョロキョロとやっていた。
 こいつはいずれ死ぬだろう、と麻織真也は思い、どうやら他のカラスも集まってきている。俺はかかわりたくないと自室へ逃げかえった。そのアパートの202号室の扉へ向かう後ろから、そのカラスか別のカラスの鳴き声が、ま近にカァカァと聞こえた。
 夕方になり、麻織真也が用事があって外へ出てみるとそのカラスはきれいサッパリいなくなっていた。あの後のことだが人声もしたから、だれかが片付けたのかもしれない。あるいは脚の折れたと思っていたのは、彼の思いちがいなのかもしれないのだが。
 帰宅してしばらくの三十分間くらい、ともかく、そのカラスをどうすべきだったのかと彼は悶々としていた。助けて治療してやるべきだったのか? 近くに麻織真也は動物病院がある。自腹を割いてそこへ運び込むべきだった? と彼は考えていた。しかしいや、それは余計なお世話に麻織真也は思えた。カラスにはカラスの社会がある。関わりのない野生動物にそんな事をするのは、偽善とも麻織真也は言えた。カラスにはカラスの倫理がある。人間ではなかった。いやしかし、彼はそう言い訳をして、実際のところ責任を負うのが麻織真也は面倒なだけだったかもしれない。いずれにせよ逃げ帰って見ぬ振りを、するのではなく、他にもっと良い選択肢があると、麻織真也は思えた。
 ところがカラスは綺麗に居なくなっていたのだから(居た痕跡も無かった)、誰か人手が、あれから後に介されたと考えるのが普通なのだろうと麻織真也は考えた。結局の所麻織真也は「野生生物の倫理が、云々」とかうそぶいて、逃げたのだ。と麻織真也は思った。
 翌日。海辺へ散歩に出かけると体を痛めて飛べなくなった海鳥が波打ち際に漂泊していた。こういうことをセレンディピティとか共時性というのだっけと麻織真也は、しかしこのときはカラスが瀕死のそれを目ざとく見出し、それに攻撃を加えていたのを見た。彼は遠目でよく見えなかったが、目玉か何かをつつき出していたように思われた。それからカラスは、それが息絶えるのを待つつもりだったのか一旦、その元を離れたから彼が近寄って見に行くことができた。
 それはまだ息はあるが、空洞を思わせるみたくに目を半開きにして死なんとしているようだったが、カラスはこれをついばむのだろうかと、麻織真也は思ったから、少し離れた場所に退いて事のなりゆきを観察しようと思った。しかし近くで見ているためだろうか、カラスはそれから中々それに近づこうとはせず、何度かの接近があったものだが結局カラスはそれをついばむことはせずにそれは瀕死のまま、彼はその場を離れた。ボロ布の塊みたいに、波に打たれているのを見た。
 少し時間が経って同じ海岸をめぐり歩いてきて、先ほどとは別の浜の方向を眺めている麻織真也は、今度は(いや、三度目というだろうか)、カラスが明らかに何かけものをついばんでいるのだった。その足元の黒い塊より鮮やかな赤いものをくちばしで引きずり出してもぐもぐとやっている。肉片にちがいない、それも新鮮なものだろう。少しするとカラスが離れたので彼はそれを見に近づいて行った。
 それはやはり鳥だった。首の無い鳥の死骸だ。まだ新しいらしく、蛆も沸いていない、きず口というより首の部分、が、赤々と咲いたばかりの華のように開いてじくじくとしている、羽毛におおわれた体はきれいなものでその一点を除いては目立った傷も見えない。彼はカラスの食事の邪魔をしないようにその場を立ち去ったが、彼は妙な二日間だったと思った。彼もやがてはああいう風になるのかと思う。
 別に悪い気持ちはその時しなかったがなんとも言いようが無い。ただ食事は、生と死との接する場であった。海もまた、幾多の死骸のスープと言えた。そうそう、俺はその少し前に岩場へもぐり込んで小さな巻貝の殻を砂からうずもれていた奴を手に入れたら中には砂と一緒に蛆が、湧いていたのだ。生きている巻貝かと思ったのは生きているのは蛆で、本来のは腐肉になっている。麻織真也は考えても見れば当然の事だが、食事は死を食っている、それだから生きるのだ。
 麻織真也はその浜辺で最後に、といったのは帰り際で、拾ったのは骨片だった。それは、おそらく何かどうぶつの脊椎の一つで、さらさらと、清潔っぽく乾いていた。人差し指と親指との間にちょうど収まり、彼が手のひらによくなじむ。手の平に転がしてひとしきりそれに、あいさつ、をした彼は少し浜辺とその陸地側の土手の間を散歩してそれを、海の方へ片手から放った。軽く、それは、彼の、投擲力では五メートルも飛ばずに目の前の砂と土との間へと落ちた。麻織真也はその青いアパートの202号室へ帰った。翌日は首筋が日焼けでひりひりと痛んでいる。そして麻織真也がその当時いつものように通う接骨院へ入ったら、その今でも、といっても今は半年ほど通っていないそこの院長から、どうしてそんなに日に焼けているのかと聞かれた麻織真也は、一人で海に言ったと半ば空笑しながら話していて、院長の男性は麻織真也には半ば呆れ半ば感心したような様子で軽く笑っていた。
 麻織真也は現在彼が暮らしているアパートは屋根裏部屋は以前暮らしていたアパートの本棚に詰めていた本と、その他置き切れなかった雑貨と、衣類を置いている。その屋根裏は空調設備はついておらず、小窓が西向きに一つと(この部屋の窓は全て西向きで、それは東側には民家、北側には部屋へ昇るための階段、南側には後述するが他の部屋が隣接している。)はじめから点灯しなかった豆電球が一つあるだけだったので、冬は寒く(彼がそこへ越してきたのは十二月の初頭だった)おそらく、夏は湿気って暑くなる可能性があったけれども麻織真也はまだそうなることを知らないのだが、そこに大量の段ボールと入れた書物、衣類を置いたままにするのは彼の不安を催した。
 彼の暮らす、つまりその下の七畳半は南側の壁が一面オレンジの壁紙になっていて彼はそれが気に入っているから越してきた一因にもなった。そのオレンジの壁の向こう側は隣室であり、そこにはおそらく彼と同じ世代の男性が一人暮らししていると彼にはわかっている、というのも壁の反対側から声が聞こえて来、それはしばしば罵声あるいは悪態であった。またか、と麻織真也は思い、以前住んでいた202号の青いアパートを連想しないではいなかったが、しかし声は以前のそれよりも若く、彼の年齢に近く感じられたから、それは年齢が若いためだろうか、それとも単純に気性や性格の問題なのか知らない彼が、比較すると穏やかに思えた。年齢が若いため、というよりは彼に彼の声の年代が、近く感じられるからかもしれなかった。彼は時折テレビゲームをプレイするようで、ピコピコ、というささやかな電子音が伴って彼に聴こえてくることがあった。その彼の声に、脅かされているという表現はあまり適切ではないかもしれないが、心の中では脅かされていたといってもいい。麻織真也はその夢を見たのはここへ越してきてから一月半ほど経った、その日はこれからだった夜勤のその昼間に布団を敷いて眠っていた彼が隣でだれかが寝ているようである。すぐ間近で寝息が聞こえる。誰かが背中合わせに一緒の布団にもぐりこんでいる! 侵入者、空き巣の類だろうか? と恐怖する。彼は自分と同い年くらいの男だった。活発な印象。彼はこのアパート一室一室を訪ねて回って、住人を誘い、何か新しい革新的な活動を始めようじゃないかと誘いまわっているのだというような説明を彼へする。彼は、俺はその話と彼に興味を惹かれ、恐る恐るながらその話へ賛同する。彼は他にも何人かの賛同者が居るので、これからこの部屋で集まって話し合いをしようじゃないかと提案して、皆を呼び集めるために出ていく。
 彼はしばらくして人が俺の部屋へ集まってきた。住人全員ではない。男二人と女一人くらい、いずれも同年代くらい。特に女性は積極的というかせっかちな様子に感じて、階段から(この室内に階段があった)飛び降りるようにして部屋へ急ぎ入ろうとする。彼は、俺は彼女にも好意を持った。俺たちは部屋を奥へ進んだところで打ち合わせしようと廊下を奥へと進む。そこは実家の縁側とそっくりの場所につながっていて、片側が外に面した板張りの廊下で、突き当りになっている。突き当り向って右手側が外、左手は座敷でそれは実家と同じ造りである。廊下は、外は雨が降っているらしく、激しく雨漏りしており、ぼちゃぼちゃと、大きな水たまりになっている。俺たちは構うもんかとそこへ直接、車座になって彼は、彼らとあぐらをかく。隣の座敷では、何か法事か葬式の最中で、親戚一同や彼の職場の利用者たちが和装の式服をまとって集合している。厳かな様子だが、あまり重苦しいあるいは堅苦しい印象は彼はない。彼は、皆も親切な様子で俺たちのことを気にしてくれている。
 実家に似た家屋の中で、彼は俺と男女数人で共同生活を営んでいる。年代は全員同じくらい。ここはタレントで女優である中川翔子の実家兼事務所で、俺たちはその住み込みのスタッフだ。中川翔子本人は仕事で忙しく、ほとんど外出していて、いない。俺たちはその留守を預かっていた。いずれ近いうちに中川翔子が仕事から戻ってくる予感、というか期待があり、彼は、俺たちは食事の準備などしながらその帰宅を待っている。
 広い実家の台所でいとこや叔母であるその母親たちと料理の準備をしている。何か大事な式だろうか、行事が実家で行われる直前の様子で、他の親戚も徐々に集まり始めており、ややあわただしそうな様子。しかし雰囲気にはなにか充実したものがある。彼は、俺は部屋部屋を歩き回ったり、外に出て親戚を迎えたりしている。段々と集まってきており、一同大集合といった雰囲気。中に一人、職場を利用されているおばあちゃんでKさんが、親戚ということになっているのだが、重い足を引きずって遠方からいらっしゃっていて、彼は、俺は幼いころに彼女の家へよく遊びに行って過ごしていたことを急に思いだして、懐かしい気持ちになる。
 彼はこの夢の話をいま友人として付き合い続けている油木青(しょう)へその一週間後程経ってからSkypeを通じて話した。彼女は、彼には、関心を示し、「大事な夢だね」と彼の夢を彼へ印象付けた。麻織真也は、彼は彼の夢はいつもと違う感じを持って居ながら他人に言われてみれば確かに彼が考えている以上にそれは大事な夢であるようにその時から感じられた。その侵入してきた彼が隣室の男から想起されたことは間違いないように彼には思えたので、彼女へ対しても彼はそのように説明し、隣室の男についても彼が知る限りについて補足をしたはずだった。彼は切羽詰まっていたのだと彼はそれからも度々この夢の記憶、記憶の記憶、を契機として彼自身に対して思い返す。それは、麻織真也にはいまも状況はあまり変わらないといえたが、麻織真也がこのアパートに越してからいま三月が経とうとしており彼はそれは状況が変わってきているとも考えられると言った。彼は実際に二月から三月の上旬にかけては美術館へよく足を運んだ。それはその夢が直接の契機では、彼にとって、あったとは彼にとっては言いにくいが、しかし何らかの動機づけにはなっていると思った。引っ越した事自体が彼は、契機とも言えたし、油木青に話した事も契機となる。油木青とはそれ以前からももちろんだが、その後も、回数こそ麻織真也は昔と比べれば明らかに減っていると思うが、他の話を、日常的な悩みを話しているし、時には彼が聴いた。その間に彼の部屋に居る彼の身辺は彼が屋根裏スペースから降ろしてきた幾つかの書物によって立て込んでいったし、それだけでなく彼は外からも買い込んだ。それはほとんどが漫画の単行本、あるいは文庫本だった。彼は大島弓子を段ボール一つ分持っていたのを降してきて、十キログラムを超えるであろう重量でロフトの急な階段を下りるときには彼が七年前に椎間板ヘルニアになっていた彼の腰椎をいまは大学を卒業し就職してからの、五年ほど前に治療して今は十か月ほど疎遠になっている接骨院で指導を受けて改善しているとはいえ、かばうことに細心の注意を払った。その階段を彼は荷物を持って上がるときには姿勢の関係から腰椎への負担は少ないことを感じたが、降りるときは動作が逆になるのだから、考えてみると当然のことだと思った。麻織真也はそうやって大島弓子を彼の狭い居室の中へ配置してそれはさらに立て込んだにもかかわらず、彼はBOOK‐OFFとかAmazonから購入した『ドラえもん』や阿部共実をその上と周囲へ積み上げたために、彼女の段ボールは上が段々とひしゃげていって、麻織真也はそれが本だけでなく彼の足置きに手近なその段ボールを使用していたことにもよるのだが、しかしその中身は彼女の漫画でほとんどいっぱいになっていたから、それ以上はひしゃげず、麻織真也は、中の本もいま特に影響は受けていない。
 彼は部屋を出てその階段を降りると隣棟の丁度左右対称になっている階段の下の北側に当たる部屋のドアがひしゃげている。加えてそれは取っ手も外れていて、麻織真也は、彼が越してきたときからひしゃげて取っ手を外していたはずだがそれについては正確な記憶でない。しかしいまの部屋に暮らすようになってから、ある時を境にさらにそのドアはひしゃげてしまったように麻織真也は感じているが、長らく彼はその部屋は当然無人だと判断していたのは表札も無かったからだが、ある時を境にそこにはテープで代替したものによって「新藤」という表札がそのドアに貼付されたことは驚きを与えた。「新藤」と、余計にひしゃげてしまったドアの感覚とに関連があるのか麻織真也は知らないが時々大きく軋むような音を彼が部屋から階下から聴く度に、彼はそのドアが開閉されて誰か、おそらく男の体が、出入りしている、と言ってもその顔は想像できない彼は、その足元やぼんやりとしたシルエットだけを想像し、まるで台風に打ち付けられているようにぶらぶらと動くドアを考えるのだが実際に彼は何も目撃していない。ただ銀色の折りたたみ自転車が「新藤」のドアの前にある。脇だったかもしれない。麻織真也はその横を通って出かけ、横切って帰宅する。「新藤」の部屋の窓には黒い厚手のカーテンがかかっているがその窓辺には液体洗剤のボトルが置かれていて、彼が覗くカーテンの隙間からは家具らしきものがあるように見えたから、一体なぜそのようなドアを修理しないままの部屋にどんな人間が住んでいるのか彼には分らない。「新藤」は彼の夢には現れなかった。横切って麻織真也は展示に出かけた。それは三月の十五日に埼玉県立近代美術館でその月の二十六日まで開催されていた企画展で、彼の父親が三月に入った彼にLINEでメッセージを送ってきたのがきっかけだった。父親は齋藤春佳は知っているかと書き、見覚えがあった麻織真也はしかし前後が分からなかったために「誰?」と送った父親からは彼の母校である県立高校出身のアーティストであるという返答が来て、彼は彼の先輩の話題を彼が挙げていることを知った。彼は地方紙に彼女の記事が掲載されていたことで彼女と彼女の展示の開催を知り彼へと連絡していた。彼は彼女が美術家として活動していることを聞いたことがあったがその展示を観に行ったことはなかったけれど、たまたまその美術館には一度足を運んだことがあった。麻織真也が出かけたのは夜勤の明けた曇りの日で、電車を乗り継いで一時間以上かかる車内で仮眠をとって美術館へと向かった。彼がその美術館は建築が好きだったからだが、齋藤春佳の展示は2Fの一室で開かれていた。
 『飲めないジュースが現実ではないのだとしたら私たちはこの形でこの世界にいないだろう』という展示のタイトルが、意味がわからない麻織真也は繰り返し口の中で反芻しながら彼は展示の詳細について調べた。同名の大きな油絵がありそれは入口の正面に展示されていたので、麻織真也はまずその作品を視野に入れてから向かって左手のキャプションへと読み進めることになる。キャプションの奥にはもう一室、おそらく彼の1Rより広い部屋があって『影の形が山』というインスタレーションが展開されている。その部屋は照明が落とされて、十七分の音声付きの映像が壁にプロジェクションされているという説明を読んだ彼は、十七分以上かけてその展示を見ることに決めるが、しかし最初は十分ほどで部屋から退室して絵画を見学して、正午を回っていた彼は美術館外へ出てミスタードーナツで昼食を食べて展示のリーフレットを読みながら一時間ほど過ごしてから再度展示を観に戻った。『飲めないジュースが現実ではないのだとしたら私たちはこの形でこの世界にいないだろう』と、『なにもない部屋』とされた二つの作品は百号程の大きな油絵で、それは真っ白い空間を背景に煙のような描線の数々のイメージが手前に細い描線で描写されているという絵画で、彼は先輩は先輩であった高校生の頃からこうした繊細な絵を描いていたことをぼんやりと思いだしたようで、懐かしいと思ったし、彼女は記憶の煙のような移ろいをテーマにしているのだろうかと思った麻織真也はそこで初めて十七分以上かけて鑑賞することになる『影の形が山』と題された彼には広い暗い空間の中には、天井から天秤がつるされており、部屋の奥向かって左手には二メートルほどのベニヤが二枚連なって吊るされてその板と部屋の奥の壁とへ映像が投影されて、天秤の影越しに光っているのが見える。音声はくぐもった女性の声で喋っていた彼にはそれが何と言っているのか聞き取れなかったが、手に持ったリーフレットにそれは全文写されていた彼がそれを読みながら、部屋の中にいる。ベニヤ板の彼からすれば裏側、壁により近い側には電飾で山の形なのか、くの字を時計回りに九十度したような形で掛けられていてピカピカと光るが、それは投影された二つの映像とは同時には見えないつくりだった麻織真也が、室内を歩き回りながら、音声はどこかの祖母の話を喋るのを聞き、それはおそらく作家自身の、「常念岳」という地名が出てくるのが、それは麻織真也は知らないが、しかし彼の彼女の地元というとやはり長野県の山の名前なのだろうか。彼は天秤の透明なガラス化アクリルでできた平たい皿の上に透明なあるいは不透明な小石がいくつも載せられては落っこちては上下に大きく揺れる映像を通して、その手前の実際の天秤とその上におかれている小石たちも見る。不思議なことに、と麻織真也は思うが、それらの天秤は彼がそばを通過しても微動だにしないようだったが、彼はなるべく振動とか、風を起さないように気をつけようと思って室内を歩いているからかもしれない。平日で周囲に彼以外の人間は、学芸員らしいと彼が思った女性を数えたとしても、一人、二人ほどしかおらず、その学芸員すらどこかへいなくなってしまう事があるが、麻織真也は居た。その時作家はおそらく彼女のアトリエに居るのか、それとも別所で別の仕事をしているのか、麻織真也のいる場所にはいないらしいのは彼は感じているが、知らないで、彼は映像に光が明滅している様子と、映像ではサインペンで映像の中の映像の山(これが常念岳だろうか)の輪郭を手がなぞって線が震えながら伸びていくのを映している。彼は回遊する魚のように、と麻織真也は思ったかもしれないが、展示の中を歩いているのでふとした拍子に設営されている天秤に身体が触れて小石を、乗せているプレートを揺らして落としてはしまわないかと恐れながら麻織真也はしかし、立ったりしゃがんだり間近まで近寄ったりしながら彼の部屋より広いであろう部屋の照明の落とされた中を歩くが、ぶつかることはない。朗読する音声は「私」と繰り返し言うがそれが祖母なのか祖母の話を聴いているものなのか判然としないように、天秤を映す映像と、それによく似た天秤を展示するこの部屋も同じく判然としないようにみせかけているので、入れ子になって大事な部分は曖昧なままにされていてほしいのは、じつは作家の意図なのだろうかと麻織真也は居る。リーフレットで、音声の言葉を写している裏の面に書かれている文字の中で、「祖母から聞いた話を元に語っていることは、過去の事だから私自身は全く知りません。」と、読んで、文章はそこから続けられて、「私が知ることもなく、祖母が知ることもなく、あなたが知ることもないことを、本当に、現実として、空間が思う。」と結ばれているが、麻織真也はこれから二年ほど前に職場の近くの駅へと通じる交差点へと向かう道を職場の利用者と散歩しながら通り過ぎた右脇の家で、そこは通りに面して大きなガラス張りの戸が立っている個人経営らしい洋裁店だったがそのガラス戸の中に猫がいたので「猫だ、かわいいね」といったのだけど、彼女は「猫はかわいいけど、すぐかぐるから嫌だ。犬の方がいい」ということをいって、「猫はひっかくけど、犬はなめるだけだから。でも凶暴な犬なら噛みつくよね」って話をして、それで、そのまま、彼女が昔自分の家で飼っていた犬の話になって、それは「おとなしかったよ」ということだったのだが、それはもういつだか知らないけれどもだいぶ前に死んでしまった犬のことで「でももう死んでしまったけどね。」と残念そうに言うから、「でもきっと天国でも元気でいるよ」と俺はかなりありきたりの、まあ浅はかとも行ってしまえばそんな適当なことを口にしたのだが、彼女はそのまま受け止めてくれて「ウチのこと覚えててくれてるかな」ということを、言った。
 それで俺はあれって思って、つまり、それは話が逆になってしまった。だって、死んだもののことを忘れずに覚えているのは生きているわたしたちの側の責任で、死んだものにとって「覚えている、いない」なんてことはそもそもなくて、これはそもそも俺が、ある意味死者を擬人化(擬生化?)して「天国で~云々」なんてことを言ったから相手もそれを受けて「死者が記憶している云々……」的な話をしだしてしまったはずなのだが、しかし、俺はその着想は面白いと思った。
 そうか、「そうだね。きっと忘れてないよ。覚えていてくれてるよ。Kさんだって、覚えているでしょ?」といって相手も「うん」とうなずいたのだが、そもそもこういう風に、「死んだものたちが覚えているのだ」ということは、一種の逆説なのだがどこかしら真理めいたものに感じられたのだった。
 死んだものたちが覚えていて、わたしたちはむしろ記憶される側に過ぎず、結局、死んだものたちによって、記憶されている限りにおいて、わたしたちはその死んだものたちのことを思い出すことができるのではないか?
 彼女は「覚えていてくれるといいな。忘れてたら悲しいもの」ということを言ったかどうか、はっきりとは思い出せないが、しかしそういう方向性のことは確実に言っていたわけだけど、死者が忘れる、ということがあるのだろうか。死者が覚えているとしたら、死者が生者のことをわすれてしまう、生者がその死者のことを覚えているにかかわらず! という話は、考えてもみるとわりによくある話で、そもそも例えば「うらめしや」とでてくる幽霊は確実に覚えているのだが、『バイオハザード』とかのゾンビはきっと覚えていない。
 いや、言いたいのはそういう話ともちょっと違って、そもそもここで喋っていた「覚えている、死んでしまったもの」というのは、具体的にどのような存在を、俺と彼女とは、仮定しつつ、喋っていたのだろうか。それは幽霊とも違うし、観念とも違う気がする。しいて言えば、「直感そのもの」みたいなものに限りなく近い、存在、というか。
 「直感そのもの」によって感知される、その、幽霊でも観念でもない存在というのは、しかし、おそらくこうした会話などによる「記憶の共有」を介してしかたちあらわれない、すごく「関係性の上」にしかないもので、あるいみまた、「関係性そのものの記憶的触媒」とでもいうような気がする。ごめん、かなり適当な造語を作ってしまったのだけれど、ようするに人と人とのかかわりの上での、その瞬間瞬間にのみ組織されてその時のそのかかわり(会話とか)の中限定で働くその人たちのみ共有の「記憶」もどきみたいなもので、全然要していないのだが、その中で「死者」が泡のようにその都度彼らの間に想起されて、その死者が「記憶する」。
 その死者が記憶することが、つまり生きている私たちがその死者を介した私たち間のかかわりの中でその死者について「思い出し」たり、「考え」たり、要するに「偲ぶ」「悼む」ということなのか。
 つまり私たちが偲び悼んでいるとき、わたしたちは死んでしまったものたちに記憶されていることをよりどころとして、死んでしまったものたちをおもいだしているということ。死んでしまったものたちは、生きている私たちが日々つくる関係性の延長にあって、そこからわたしたちに「覚えている」ことを送っている。ということ。
 ここにいなくなってしまったものたちは、空洞だが、わたしたちはその空洞を中心にして渦を巻く竜巻のような形で、きっと関係性を構築しているのだということ。
 ここにいないというときに、それがいいたいのは、「ここ」には「いない」というだけである。(しかしこれは「どこかに」―「いる」という関連性を導き出す為の言葉ではない。)「ここ」には、「いない」というのは、「ここには、いない」というだけだ。
 むしろ「ここにはいない」、外側に運動する関係性の方だ。

 そのことがわたしたちのものをしている。

 と、麻織真也は思い出す。それは「空間が思う」とリーフレットに書かれていた言葉を読んで、彼を自身で連想したのだが、彼は、こうして考えてみると彼がその時に考えていたことは「死者が思う」ということで、「空間が思う」ではない。
 どちらも、思わないものが思っていることは共通するが、麻織真也は共通するだけでなく、同じなのだ。同じことなのだと麻織真也は思おうと思っているが、それはこじつけではないのかとも思った。

 帰るための麻織真也は電車に乗っているときに隣に座っている親子、母親は四十代前半ぐらい、息子は小学三年生くらい、がいるのだけど、雑談をしているのだが、その会話のながれで、母が息子に「ママが居なくなっても大丈夫なようにしないとね」みたいな話になって、あるいは「ママが居なくなっても一人で暮らしていける?」というニュアンスだったかもしれないのだけど、それで子どもの方は「えー」とかあんまりというか、全然深くも考えない(考えられない)相槌しか打っていず、けらけらとわらっているのだけど(というか雑談だったのだから当然なのだけどこういう反応は)、そんなとき母親が「たぶん、あんまりたいしたことじゃないと思うよー」という様なことを言った。
 隣で聞いていた彼としては全く不意の発言で、だから母親が息子に対して喋りかけたのか、自らに対してつぶやいたのか、判然としないように聞こえた感じがするのだけど、でも小三(推定)の子どもに対して、母親が突然居なくなるという状況は全然たいしたことじゃないわけないと思うのだが、もし彼が(いつか)自分の子どもに対して似たような話をしたとしたらもっとおどしかけるというか、自分であるところ保護者不在の〝恐ろしさ〟をおかしく誇張して喋っていはしないかとか思ったのだが、だからその母親のそのことばはすごく、なにか強い思想のような、価値観のような、独特なそういうものを背後に持っているように感じさせたのだが、つまりは意図が彼には全然わからなくて凄い、というか麻織真也はいっそ不気味というような感じがした。
 でも、すぐに思い直して、というのは、世の中は所詮そのようなものかもなーとか紋切り型に考えたこともあったし、また自分が今現に一人暮らしをしていることを考えて、もしかしたらその母親は、自分が親から自立したときのことを思い出しながら「たいしたことない」といっただけかもしれず、その意味では、たしかに、彼個人的に考えても「ちょっと大変だけど、「たいしたことない」といえるなら、たいしたことはないことだ」と思った。そしてその母親とおれ自身とが全く他人同士であるので、もし本当にここでその母親が居なくなってしまったとしても少なくともおれ自身は、その母親が言うように、たいして困りはしないよな、とも思った。しかしこれは全然もとの発言の意味を外れている訳だが、彼が困らないのだから、もしかしたらその小三(推定)の息子も困らないかもしれない、となぜか思ったのだった。それくらいのつよさの「確信」を彼には想起させる程度の、麻織真也は言い方がその不意の声にはあったと思う。
 その発言をうけてなぜか子どもは「毎日「買い弁」(弁当を買って食事を取ること、だと思う)しちゃうよー」とか、いって、まいにち買い弁だとおかねかかっちゃうねーどうしよっかーみたいなまたふたたびもとの雑談に戻っていった。

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