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「ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書」柴五郎著 石光真人編 中公新書

義和団の乱における北京の各国公使館地区での籠城戦において実質的な指揮をとり、世界各国から賞賛された柴五郎の日記とその解説です。


柴五郎は、会津の生まれで、幕末に会津若松城が落城した時、10歳でした。


五郎は、会津若松城が黒煙に覆われ、わが家と思しきあたりが火の海になっているのを見ます。家の女性たち、祖母(81歳)、母(50歳)、兄太一郎の妻(20歳)、姉(19歳)、妹(7歳)は会津戦争の際に自刀します。


会津戦争の結果、67万9千石とも言われた会津藩は、実質七千石にまでになってしまいます。


五郎は、「薩摩の芋武士奴!来たれ!」「目にもの見せてくれん!」と、木刀で手当たり次第に立木を打ち回ります。そうした気持ちは、新政府の中で表現できるものではありません。


落城後、俘虜として江戸に送られ、下北半島に悲惨な飢餓生活を送りました。野犬を捕まえて塩で煮て食べたこともあったそうです。犬肉は非常に不味く、まだ10歳前後の柴五郎は無理やり飲み込んだこともあります。


13歳の時、青森県庁の給仕となり大参事野田豁通(ひろみち)の世話をするようになることにより、五郎の運がひらけます。

多くを語らなかった柴五郎ですが、陸軍で出世しても、胸の内には、勝手に官軍を名乗り、新政府の中で横暴を極めた薩長に対する憤りがあったのだろうと思います。


柴五郎の日記部分には、幕末における会津藩と官軍との戦いから、陸軍士官学校時代までの話が書かれています。


晩年の柴五郎については、この本を編纂した石光真人が書いています。1937年に編者が柴五郎を訪ねた時、柴五郎は、「この戦争(日中戦争)は負けです」とはっきりと述べています。まだ日本が攻勢をかけていた時であるのにです。


「中国人は信用と面子を貴びます。それなのに、あなたの御尊父もよく言っておられたように、日本は彼等の信用をいくたびも裏切ったし面子も汚しました。こんなことで、大東亜共栄圏の建設など口で唱えても、彼等はついてこないでしょう」と柴五郎は言っています。「あなたの御尊父」とは、石光真人の父親のことです。


常に冷静に世界を見ていた人なのでしょう。


柴五郎は、日本が敗戦国となった1945年に、87歳で生涯を閉じています。

文章は文語調ですが、とても読みやすいです。



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