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表現の自由戦士/アンチフェミはフェミニストの批判に回答する

さて、先日の記事

について、Twitterやはてなブックマークなどで様々な反響をいただきました。ここでは、この反響の中でいただいた問題について、ピックアップして回答していきたいと思います。なお、本稿の文責は質問部分も含めて筆者のものであることを申し添えます。

また、最後に短い補遺を有料としておりますが、本文は全て無料で公開させていただいています。

問1 そもそも、アンチ・フェミニストというのは主語が大きすぎないか

問い
アンチ・フェミニストを自称しているが、その主語は大きすぎないか? また、アンチ・フェミニストということは、女性参政権、賃金格差是正、男女平等参画といった社会的成果、あるいは今も残る課題を否定するものなのではないか。あなたは「性差別主義者」なのではないか。

答え

まず、第一に筆者は、女性の参政権や、男女平等の賃金、政治家や企業役員への女性の参画といったことについて基本的に賛成します。また、ここで「基本的に」と述べたのは、強制的なクオータ制度の適用範囲など、個別の議論について、是非を検討する余地があるという意味になります。さて、しかしながら、筆者はフェミニストであるという自認はありません。また、フェミニストを自称する人たちが、筆者に対して、表現の自由戦士、アンチ・フェミニストと批判をしてきたことを承知しています。

ここで、筆者はフェミニストという自認が無い以上、当然にフェミニズムに関する知見にも詳しくありません。恐らくフェミニストの方の方が筆者よりもフェミニズムに詳しいことだと思います。ゆえに、筆者にはフェミニズムとは何なのか、フェミニストとは誰なのかといったことについて、検討することが困難です。このため、筆者よりフェミニズムに詳しいフェミニストが、フェミニストとは何かを定義し、そしてアンチ・フェミニストは何かと定義し、筆者をアンチ・フェミニストと呼称したとすれば、その定義に逆らう余地はありませんから、甘んじて受け入れるより他はありません。

さらに言えば、筆者は、アンチ・フェミニストと言われることに、さほど問題を感じていません。筆者は、そうした外部の評価が差し障る著名人でも政治家でもありません。赤の他人に「性差別主義者」とか「ミソジニスト」と言われても特に困りません。実際、筆者を直接に知る人は、私が特にそういう言動に及んでいるような人ではないことを知っているからです。また、筆者は新興宗教の教祖に筆者の守護霊が悪魔であると指摘されても平気です。同様に、キリスト教根本主義者から悪魔の化身と言われようと、ムスリムの過激派から多神教の罪人と言われようと、筆者は一向に問題ありません。つまり、筆者は、フェミニストではありませんから、フェミニストにアンチ・フェミニストと認定されたところで、痛くも痒くもないのです

問2 日本のロリコン文化の原因に、人種などを持ち出すのは怪しすぎる

問い
日本のロリコン文化の問題について、人種の違いや、性器を見たいという欲求を理由とすることを書いていたが、それは眉唾ではないか。
また、欧米における小児性愛のほうが深刻な事態になっているのではないか?

答え

人種の話は、かなりいい加減なことを書きました。すいません。言い訳をさせてもらいますと、これは想定外の質問で、全く考えていなかったので、場当たり的に回答したというのが正直な話です。小松原織香先生の指摘のとおりいい加減なことを書いています。もちろん、明らかな嘘をついたとは考えていませんが、根拠の薄弱な与太話です。なので、曖昧だということを示す但しが重点的につけております。それは、お読み取りいただきたく思っています。

それに対して、性器を見たいという欲望が、ロリコン文化を形成したという話は、有力な仮説だと考えています。というのも、例えば、少女ヌード写真集が人気を博していたときに「ワレメ」という概念が注視されていたことを見ると、わいせつ罪がある中で、無毛の「ワレメ」が、性器を見たいという欲望に応えていたのではないかと考えるのは妥当であると思われるからです。似たような例として、最近のエロ漫画でよく使われる「断面図」という表現も、外性器の描写は修正が入るが、内臓の断面図は修正不要であるということが影響していると考えています。このような背景から、規制によって、規制逃れが発生し、その規制逃れが消費者を馴致したというのは、それほど不自然な議論ではないと筆者は考えています。これは、表現に限らず、発泡酒や第三のビールのような例も同様だと考えています。

ヨーロッパにおける小児性愛については、正直よくわかりません。そもそも、筆者の議論の根幹が「ロリコンで何が悪い」という趣旨なので、どちらがロリコンという罪で重罪なのかというのは、全く興味が無いので、ぶっちゃけどうでもいいと考えています。

問3 ゾーニングを否定するのか?

問い
ゾーニングについて批判的な議論をしているが、ゾーニングを拒否するつもりなのか。コンテンツの制作側や愛好家であっても、適切なゾーニングは必要であると考える人は少なくない。
また、ゾーニングのコストというが、そんなコストも負担できないのか。そもそも、銭金で決めるような問題なのか。
また、他人を不快にさせない、権力による規制を回避するためのゾーニングといった考えは無いのか。

答え

まず、沖ノ鳥島にゾーニングすることは、論理的にはゾーニングの一種です。しかし当然に、沖ノ鳥島にゾーニングした場合、実質的な全面規制になります。もちろん、これは極端な例ですが、ゾーニングという手段は、適切に設計され運用されない限り、実質的な規制になるということは事実です。また、前回も述べたように、ゾーニング対象のコンテンツが無くなっても困らない人が考えるゾーニング制度というものは、コンテンツ側の都合を全く無視したものになり、実質的な規制となってしまう可能性が高いと考えられます。

また、もちろん、「妥当なゾーニング制度」ということを考えられる人は存在するでしょうが、それぞれの立場で綱引きをやっている中で、両者を説得して「妥当なゾーニング制度」に合意させ、その後の利害の調停を中立的に行い納得させ、しかもそれを社会に認めさせることが出来るのでしょうか。そして、そもそも、その「妥当なゾーニング制度」が真に妥当なのか、おおよそあらゆる表現を遺漏なくカバーできているのか、そういったことを厳しく問われるという覚悟をお持ちなのか、ということも問われるだろうと考えます。

さて、そこで、このような問題を整理するために、ゾーニング・コストという概念を筆者は持ち出しました。ここで、ゾーニング・コストというのは、単に暖簾をかけて区分陳列するための費用という意味だけではなく、ゾーニングした結果、消費者が入手しにくくなったり、広告宣伝が制限されたことなどによる、売上減少や消費者の厚生の低下を含んだコストという意味です。このゾーニング・コストの問題を考えると、実は、コンテンツの入手性や管理、適切な広告宣伝、制作側の売上・利益などの問題は、無限の資金があれば解決することが可能ということに気づきます。たとえば、全国民に報酬を支払ってアンケートに回答させ、広告の配信を最適化することは、理論的には可能なわけです。あるいは、垂直離着陸機のハリアー(練習用の複座型)をタクシーにすることができれば、沖ノ鳥島にゾーニングすることも不可能ではないわけです。逆に、なぜコンビニのエロ本が無くなったと言えば、ゾーニングの手間や対策費用、ゾーニングに伴う売り上げの低下を見越して、他に棚を譲った方が儲かると考えられたからではないかと考えます。また、多くの書店に暖簾をかけたスペースが無く、ロードサイドに「DVD・写真集・コミック」とデカデカと原色の看板を掲げたポルノ専門店があるということも、認識しておくべきでしょう。

さて、しかし、現実的に、規制される側も、規制する側も、無限のコストを支払うことは不可能であるため、どのように妥協して、現実的で適切な規制制度の設計と運用を行うということが、厳しく問われることになると考えられます。このような現実の下で規制を求めるならば、最初から規制の限界やコストの負担を明言すべきですし、それを明示していないということは、端から過剰な規制で壊滅させてやろうという意思を持っているというふうに見られても仕方ないということになってしまうでしょう。少なくとも、過剰な規制で対象コンテンツが壊滅しても痛くも痒くも無い立場の人が、そういう態度をとっていたとすれば、そう考えるより他はありません。また、そうでなくても、制作者や消費者に一方的にコスト負担を押し付けるのは、理不尽な話ではないでしょうか。

さて、コストの問題を考えると、現在の書籍流通の問題に突き当たります。現在の書店におけるゾーニングは事実上「男性向けのエロ本」のための制度にしかなっていません。ここで、仮にBLやTLを現行制度の表示図書、つまり、エロ本としてゾーニングするとして、男性向けのポルノと並べて売ることは困難になると考えられます。そもそも、一般書店では表示図書を置いていない店も多いため、男性向けではポルノ専門店が存在します。当然に男性向けのポルノ専門店でBLを買える女性はほとんど居ないでしょうし、女性向け専門店を維持できるだけの売上が立つかは疑問です。仮に女性向け専門店が存在していたとしても、出入りすることが難しいことも多いでしょう。このような背景から、多くのBLやTLは制度上の全年齢向けとして出版されているわけです。また、実は、これはBLやTLのような女性向けに限った話ではなく、近親相姦をテーマにしているが、ポルノ(抜き目的)ではなかった「あきそら」が都条例の改正によって絶版したり、ポルノというよりアートに寄った山本直樹の「田舎」が表示図書にならず、都条例に基づく指定を受けるといった事例があります。

また、一般に、他人を不快にさせるべきではないという道徳があるというのは事実です。また、権力による規制を回避するために、ゾーニングをはじめとする、自主規制を行うという手段があることも事実です。しかし、一般に、他人を不快にさせないため、あるいは権力の規制を回避するために、自分の思想信条や趣味嗜好、利益などを制約するべきなのかと問われれば、筆者は同意しにくいと考えています。たとえば、この世の中では同性愛者や外国人に対して不快感を感じる人は少なくありません。あるいは、権力は市民運動などに対して、規制的に振る舞うことが珍しくありません。このような事実を以て、同性愛者や市民運動家は、自主規制をするべきなのでしょうか? 当然にそんなことはありません。オタク向けのコンテンツが同性愛のような性的指向や、市民運動などの政治的意思と同列に並べられるのかと考える人もいるかもしれませんが、そのようなコンテンツも人のアイディンティティを形成する文化として尊重されるべきものであると言うこともできるでしょうし、価値中立的な立場からは、両方とも尊重すべきものであると言うことができるでしょう。

以上のことをふまえて結論的に述べると、妥当なゾーニングというものを見出していくための交渉であったり妥協といったものを双方で積み重ねていくしかありませんが、双方に、相手の痛みは永久に耐えられるという状態なので、交渉や妥協が困難であると考えられます。すると、筆者は、双方に交渉のテーブルに付き、相手の利益を考慮せざるを得ない中で、妥協していくことができる前提条件を作っていく必要があると考えます。

問4 レーティングはできないのか

問い
現在、書籍のゾーニングは青少年健全育成条例に基づく18禁の指定図書・表示図書の制度しかないが、R-15のように、より細かくレーティングすることは不可能なのか。実際に、コンシューマーゲームはCEROによる細かいレーティングと、コンテンツディスクリプタ―(内容についての注意)が付されるようになっている。こういった取り組みはできないのか。

答え

もちろん、より細かいゾーニングは可能ですが、これもコストの問題になってしまうでしょう。たとえば、CEROのレーティングは複数の一般人のモニターに作品の映像を見てもらって、項目ごとに点数を付けるといった手法がとられていると聞き及んだことがあります。もちろん、発売前のコンテンツに触れるので、守秘義務が課されるでしょうし、レーティングの基準を分かりやすく設定するといった、仕事もあるでしょう。これは、それなりに金のかかる仕事になると考えられます。

一般にコンシューマーゲームは億単位の予算で制作されることが多いです。小規模なゲームであっても、数千万程度はかかっている例が多いでしょう。あるいは、レーティング制度が無いか、簡易的なPCプラットフォームで人気を博したインディーズの作品を、パブリッシャーが費用をかけてコンシューマーのレーティングを通すといった例もあるかもしれません。一言で言えば、コンシューマーゲームでは、審査程度の費用負担は大きな問題になる金額ではないということになります。

対して、書籍はどうでしょうか。今の漫画単行本の価格は、1冊あたり500~1000円程度です。また、初版部数はかなり減っていて、メディアミックス無しの新人なら1万部程度と言われています。また、印税も減少傾向で8%程度が多いと聞きますから、恐らく作家の取り分である印税は多くても100万円前後になるでしょう。もちろん、出版社が暴利をむさぼっているとも考えにくいと思われます。つまり、出版点数が増加し、部数が低下し、一作品あたりの売上が低下している出版業界において、報酬を支払いモニターに読ませてレーティングすることは、コスト的に非常に困難です。これが、漫画であれば、まだ不可能ではないと言えるかもしれません。しかし、学術的な出版物ならどうでしょうか。ただでさえ出版としては赤字なのに、読むのに時間がかかる学術書や古典をレーティングしたら、成立するはずがありません。フィネガンズ・ウェイクや失われた時を求めて、資本論や正義論、神曲など、これらを読ませてレーティングするのは、まず不可能です。

ただし、編集部が自主的に帯やカバーにレーティングやコンテンツディスクリプタ―(内容についての注意)を記載するといった方法は、まだ可能性があります。しかし、その場合、公平性や正確性などについて、統一的に整合が取れないという問題が出てきます。また、公平性や正確性が担保されない以上、出版社に強制していくというようなことも困難になると考えられます。もちろん、そういった活動に出版社が自主的に取り組むことは自由ですし、フェミニストの方が資金を提供して対策を行うように依頼をする自由もあると思われます。

問5 性犯罪の被害を軽視しているのではないか

問い
性犯罪の被害は少なくなく、痴漢やデートレイプ、露出狂といった被害は多くの女性が経験している。このような中で、創作物とはいえ、性犯罪を肯定するような内容の漫画を無条件に肯定するような態度は恐怖感を与える。また、影響が一部に過ぎないというデータは無い。
そもそも、性犯罪は数や確率の問題ではなく、たとえ「ごく一部」だったとしても、実際に被害が出ているのにも関わらず、それを軽視しているのは、女性に対して抑圧的であり既得権益を振りかざしていると言える。
そして、そのような被害を軽視する主張は、非道徳的であったり、社会に受け入れられるだけの正当性に欠けると思われるが、どうか。

答え

まず、当然に、性犯罪は取り締まられるべき犯罪であると筆者は認識しています。そして、その他多くの犯罪、窃盗や詐欺、傷害や殺人など、これらも当然に取り締まられるべき犯罪であると筆者は考えています。また、影響が一部に過ぎないかどうかについて、何を以て「一部」とするかという問題もあるでしょう。たとえ1%でも影響していることを問題視するという立場をとることは自由です。しかし、レイプを表現したポルノが何十万部も出版され、ポルノイラストを描く絵師がTwitterで何十万フォロワーも集めている中で、暗数調査をふまえても、強姦や強制猥褻が10万件単位にはならないことを考えれば、筆者は「一部」と評価することができると考えています。

さて、その上で、犯罪が実際に発生していることや、その「恐怖」を理由として、予防的に人権を制約することは、少なくとも日本国憲法下においては、最小限の範囲でしか行えないということを考える必要があります。たとえば、監視カメラに顔認識ソフトを組み込んで、警察が市民を常時監視するといったことは、許されません。市民の使っている電話や電子メールを警察が盗聴することは通信傍受法で合法化されていますが、それでも厳しい制約の下に行われています。もちろん、犯罪を起こしやすい属性を持っている個人を予防拘禁することもできません。そして、当然に、性犯罪を起こす影響がある(かもしれない)表現も、その影響力を理由として禁止することはできません。胸をガン見する男を処罰することはほぼ不可能でしょうし、痴漢をするかもしれない男を警察が事前に逮捕することはできないのです。

しかし、もちろん、国連人権規約においても「公の秩序」を目的として表現を規制することは認められています。その上で、日本国憲法や法令が改正され「恐怖」や「犯罪の可能性」という理由で誰かを処罰できるようになったときに、その法律を使って有利に物事を運ぶことができるようになるのは、筆者なのでしょうか、あなたなのでしょうか、それとも、政府の代表者なのでしょうか? もし、あなたが、最高権力者になれると確信しているなら止めませんが、そうでないならば、その規制の刃は、権力者にとって不都合な人間に向くという可能性は考慮すべきではないかと考えます。

さて、このような筆者の立場を、「性犯罪被害を軽視している」「非倫理的である」「抑圧的である」と見做すことは当然に可能だとは言えます。そのような批判が成り立つことは否定しません。しかし、筆者は、「性犯罪被害を軽視している」「非倫理的である」「抑圧的である」と批判をされてもなお、市民の権利を広範に制限しかねない予防的措置については、許容されないと考えています。それは、自由な社会を選ぶ市民が、当然に背負わなければならないリスクであるのです。

そして、そのような、ある種のアナーキーさを持つ自由主義というのは、安全安心を求める大衆の素朴な道徳に反する考え方であることは承知しています。そして、それ故に、大衆社会において、いわばフォークデビルとして糾弾されることがあることも承知しています。しかし、筆者は自由主義が正しいと確信しており、オウム真理教の残党組織や新左翼(過激派)にも自由があることが、正しいと確信しているので、これは非常に調停が困難な議論ではないかと考えています。

結局のところ、フェミニスト側は、弱い立場の女性を恐怖させ、実際の被害に繋がりかねない表現は、規制されて当然だし、それに抵抗している連中は女性差別主義者である、ということを当然の常識としているでしょう。逆に、表現の自由戦士は、実害の無い架空の表現に対して、理不尽にもその自由を制約しようとするファシストだと相手を認識しています。そして、フェミニスト側は、規制の結果、制作側が路頭に迷おうが、読者や視聴者が損しようが、どうでもいいわけですし、表現の自由戦士側は、レイプや強制猥褻がどれだけ発生しようが、基本的にはどうでもいいわけです。なんせ、双方にとって自分は被害者であり、相手は加害者なのですから。筆者は、このような断絶があることそのものはやむを得ないし、赤の他人同士を集めて、「お互いの気持ちを尊重しよう」などと説く道徳の授業をやっても意味が無いと思っています。人が心の内に、正義や道徳や公正さという信念を持つことで、それにそぐわない人々の利害を不当なものと断罪し、悪魔化して退けることは、いわば必然と言うべき問題でしょう。夏が暑いことや冬が寒いことに怒っても仕方ありません、地球の重力加速度が9.8m/s^2であることに不満を言っても意味はありません。結局、人にとって嫌いな奴は嫌いですし、理解できないことは理解できないですし、悪魔は悪魔であり、不正義は不正義なのです。であればこそ、一旦、「性犯罪への恐怖」「表現の自由という天賦の権利」といった「正義」の思いを、所詮は自分の利害の問題だと棚上げした上で、必然としての対立を調停する仕組みを考えることが必要だと考えるのです。

問6 反ポルノはフェミニズムではないのではないか

問い
全てのフェミニストが反ポルノではないし、元々反ポルノは宗教保守(矯風会)の運動というべきものでは無いのか? 雑に大きい属性で括るような言い方は好ましくないし、フェミニストが表現規制派とみなされるような発言は妥当ではない。

答え

筆者はフェミニストではありませんから「フェミニストとは何か?」という問いについて答えることは出来ません。また、反ポルノが宗教保守による運動であったという指摘についても、もちろんそのことは承知しています。

しかし、筆者は、フェミニストを自称する者が、キモオタ向けのポルノ、あるいはそれに準じた表現などについて、批判を繰り広げてきたということを知っています。それも、決して少ない数ではありません。さらに言えば、表現規制的な発言について、内部的な批判として、例えばTERF問題のように、フェミニストのオピニオンリーダーたちが積極的に批判するといったこともありません。そうである以上、筆者はフェミニストに対して、そのように見るより仕方がないですし、それはフェミニストに反発する少なくない人に共通の認識であると考えています。

そして、そういった背景の中で、フェミニストが表現規制派と見做されてしまう可能性はありますが、そうなっても筆者は特に困ることはありません。もし、フェミニストが表現規制派と見做されたくないのであれば、当のフェミニスト自身が、自らそう見做されないように努力をすべきであると考えます。

問7 女性を客体化する表現やポルノ表現の受忍限度は変わっているのではないか

問い
公共の場に表出される表現について、受忍限度論を紹介しているが、その受忍限度は時代とともに変わっているのではないか。現在の基準を既得権益としてふりかざすことは妥当とは言えないと思われるがどうか。

答え

確かに、受忍限度は時代とともに変わります。しかしながら、同時に、なんでもかんでも受忍限度を超えていると主張することもできないと考えます。しかし、雑誌や書籍の表紙や、公共の場に掲出されるポスターなどについての判例の蓄積も少なく、すぐさまラインが引けるとも言い難いと考えます。

とはいえ、乳袋などの胸の強調されたイラスト、スカートに股間の影が浮き出ているイラスト、頬を赤く染めて上気した顔のイラスト、スカートの短い女子学生のイラストが公共の場に掲出されることが、即座に受忍限度を超えているとは言い難いと思われます。なぜならば、受忍限度に関する判例では「強いストレスを感じているとしても、これは専ら原告の主観的な不快感にとどまるというべきであり」(目隠しフェンス設置等請求事件)となっており、単に不快なものごとが目に入って強いストレスを受けてしまうことを以って、不法行為として問うといったことはできないと考えられるからです。

もちろん、社会通念は時代とともに変わっていくものです。しかし、たとえ従来の男社会であっても、男性を客体化(道具化)するような表現が受忍限度を超えているとならなかったように、女性の権利に関する理解が深まったとしても、女性を客体化するような表現が即座に受忍限度を超えているとはならないと考えられます。しかし、そもそも現代の受忍限度などの社会における自由に関するメタ的な仕組みが、十全な能力を持った「市民」を前提としたブルジョワ革命に端を発することを考えると、一般的に弱者と呼ばれる人に対して、厳しい仕組みになっているという批判は成立するように思われます。とはいえ、自由の制約にはデメリットがあることから、社会権を考慮した現代の自由主義国家においては、福祉や助成といった手段を通じて、その権利の確保が図られており、この問題についても、規制ではなく福祉の面からのアプローチも可能ではないかと考えられます。

以下にゾーニング・コストについての短い補遺を付け加えます。有償ですが、よろしければご覧ください。

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