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フェミニストと反フェミニストの闘いは、非対称である。

よく、フェミニストは「差別的」「公共の場にふさわしくない」「環境型セクハラのようなもの」といった、様々な社会的な正当性に基づいて批判をする。もちろん「私は傷ついた」みたいな刺身のツマのような主張はあるものの、実はそれほど主流ではない。

そしてこれらの主張は、残念なことに有効に機能していることが、現実的に証明されてしまっている。碧志摩メグや駅乃みちかはクレームによって最終的には公認解除や撤去の憂き目に逢い、最近でも西浦みかんの宣伝に使われたラブライブのパネルが撤去され、あるいは、日本赤十字社は実質的に宇崎ちゃんは遊びたいのポスターのクレームを受けてガイドラインを作成したことを明らかにした。これは、実質的にフェミニストの主張が機能している証明と言える。

そして、その結果はこういった主張を生む。

この記事では、このフェミニストの理論が認められ、それに反フェミニストの主張が認められないという構造を解き明かし、そしてそれに対する対策を検討する。

反フェミニストの反論は有効に機能しない

こういったフェミニストに対して反フェミニストの使える理屈はそれほど多くない、一つは「言論の自由」や「基準の明確化」を訴える直球な自由主義的主張。もう一つは「お前らも規制対象になるぞ」「その理論をお前らの〇〇に適用すれば規制されるぞ」というちょっと捻った自由主義的主張。あるいは「その発言は差別だ」「フェミニズムの理論に反している」といった自己矛盾を追求する主張。そして、あと、まあ実際にあるのは「罵倒」や「揚げ足取り」的な表現である。

実は、これらの反論は有効に機能していない。フェミニストの主張はフェミニストの理論に基づいており、その中では「言論の自由」にも反していないし、「基準の明確化」もされている。「お前らも規制対象になるぞ」「その理論をお前らの〇〇に適用すれば規制されるぞ」というのも、自己矛盾の指摘も同様に有効な反論として機能しない。これらもフェミニストの理論にどんどんアドホックな仮説が追加され、それに基づけば当然に対象外となるからだ。さらに言えば、フェミニストは一人一派と言われており、アドホックな仮説の矛盾は特に問題にもならない。そして、これをいくら理不尽だと思っても、前述のとおり、それが社会的に認められてしまっている以上、意味ある議論にはまずならない。

せいぜい、反フェミニストの出来ることは、弁の立たない頭の悪いフェミニストを呼び出して、鍛えられたディベート力を持つ者をぶつけて、勝利のアングルっぽいものを演出し、そしてそれを後からフェミニストの理論でひっくり返されて、差別者認定を貰う程度のことぐらいである。

弁の立つフェミニスト

フェミニストというのは、何も市井の何の権限もない頭も大して良くないような連中ばかりではない。大学院で博士課程を終え、アカポスを得ているような人も、博士号や煌びやかな経歴を持ち、国連の委員として活躍するような者もいる。

弁の立つフェミニストは、こんなことを言ってくるかもしれない。

(ステロタイプな)表象の「悪さ」についての考えを少し広げることができます。差別的な女性観を当然の前提としている表象は、それによって「女性とはそういうものだ」という意味づけを繰り返してしまっているがゆえに「悪い」(2019, 小宮友根, ふくろ共著, 現代ビジネス, https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68864 2020-05-13閲覧 かっこ内筆者)

小宮は、家庭内労働というステロタイプを女性に当てはめるような、アナクロなイラストや政治家の発言のような、多くの人が賛成できないような表現の「悪さ」というものを、真っ先に提示し、読者に「そういうのは良くないよな」という固定観念を植え付けた上で、勝手に、そして「考えを少し広げる」と、その「悪さ」の概念を何の理由もなくしれっと拡張し、最終的に「悪い」という概念を、より広い何かに適用できるように、巧妙な議論をしている。

私の記事を読んできていただいた諸兄は、恐らくこれは危ないぞという警報が脳内で発令され、自分はその「悪さ」にも「考えを少し広げる」なんてのにも全く合意した覚えは無いぞ、と気づくかもしれないが、しかし、実際、多くの人は納得してしまうし、ゆえにこそ、小宮は原稿料を貰い、アカポスを維持できているのである。これは、一つの「権威」「正義」が社会的に認められているという表象である。

あるいは、国連の女子差別撤廃員会の勧告、要請、指摘などを見てみよう。

30. (前略)委員会は、政府の職員が、女性の品位を下げ、女性を差別する家父長的仕組みを助長させるような侮辱的な発言をしないことを確保するよう、言葉による暴力の犯罪化を含む対策を取ることを締約国に要請する。委員会はまた、メディアや広告におけるわいせつ文書等に立ち向かうための戦略を強化し、その実施状況の結果を次回報告に盛り込むことを締約国に要請する。委員会は、自主規制の実施や採用の奨励等を通して、メディアの作品や報道に差別がなく、女児や女性のポジティブなイメージを促進することを確保し、また、メディア界の経営者やその他の業界関係者の間での啓発を促進するための積極的な措置を取ることを締約国に要請する。
(2009, 第6回報告に対する女子差別撤廃委員会最終見解(外務省仮訳))

当然に、日本国では名誉棄損や侮辱罪、あるいは迷惑防止条例などにより、侮辱的な発言をしないことを確保しているし、他の法律を作っても、具体的な被害が証明されなければ罪に問うことはできない。つまり、委員会はそれ以上のことを要請している。

そしてまた、「メディアや広告」を対象として、政府による「自主規制の実施や採用の奨励」を行うということは、政府の持つ陰日向の権力を言論の自由に対してちらつかせるということであり、到底看過はできないが、これも要請している。

もっと踏み込んだ項目もある。

36. 委員会は、女性や女児に対する性暴力を常態化させ促進させるような、女性に対する強姦や性暴力を内容とするテレビゲームや漫画の販売を禁止することを締約国に強く要請する。建設的な対話の中での代表団による口頭の請け合いで示されたように、締約国が児童ポルノ法の改正にこの問題を取り入れることを勧告する。
(2009, 第6回報告に対する女子差別撤廃委員会最終見解(外務省仮訳))

委員会は明らかにゲームやマンガを狙い撃ちに、その販売禁止を強く要請している(なお、この対象は表示図書や指定図書、つまりいわゆるR-18や成年向に限らない、一般でもこれらの表現を含む作品は少なくない)。そして、それをまた、児童ポルノ法(児ポ法)の改正に取り入れる、つまり児ポ法により禁止することを勧告しているのである。なお、勧告は、委員会報告において、最も強い、いわば「黙ってやれ、やらんとわかってるよな? あ?」程度の意味を持つ。

日本国は女子差別撤廃条約を批准しており、当然に女子差別撤廃委員会も認めている。もちろん、条例は即座に政府や国民に対して適用されないし、選択議定書は批准すらされていない。女子差別撤廃員会の勧告、要請、指摘も、日本政府や国民が何かしらの義務を負うものではない。単なる勧告、要請、指摘に過ぎないのである。しかし、国連が勧告していると言えば、ニュースでやっているのはそれに逆らっているというのは北朝鮮のような独裁国家のような例ばかりである。実は、人権大国と言われるような先進国を含む多くの国で、様々な委員会の勧告を、少なからず無視しまくっているのにも関わらずである。ただ、実際多くの人はそれを知らないし、興味も無いし、お節介にも語っていればウザいと思われること必至である。単に、その場で「国連の勧告に反している!」という声の正義っぽい声色に、なんとなく賛同し、自分が叩かれる側に立たずに済むようにと遺伝的あるいは経験による学習に基づいて反射的に行動しているに過ぎない。

この国連の勧告の引用も、いわば「正義」「権威」を纏っているのである。を持っているのである。

こんなことは例を挙げれば簡単に分かる。

東北学院大学准教授である社会学者の小宮友根先生が指摘するように、女性差別的な実態や表象が繰り返される社会において、女性には累積的な被害経験を積んでいる。そこで、女性を特定に性的役割を押し付けるような表現は当然に差別的表現として機能する。そして、日本も批准する女子差別撤廃条約に基づく委員会である、国連女子差別委員会は「メディアの作品や報道に差別がなく、女児や女性のポジティブなイメージを促進することを確保」することを明白に要請している。よって、スカートの股間部分が身体に密着したような表現は、女性を性的対象としてみなす差別表現であり、良識ある企業団体であれば、直ちに謝罪の上撤回すべきある。さらに、この表現は実際に、多くの女性は悲しんでおり、性犯罪のバックラッシュを生むかもしれない。このようなものは到底許されるものではない。

という主張が仮にあったとしよう。一瞬これを見れば、筋の通った、社会的正義に基づく、市民の批判として評価されるだろう。正義の棒を振り回したときは、人はそれを上品に見てしまうのである。

これに対する反フェミニストの主張はどうなるだろうか。

「これは表現の自由である、文句を言われる筋合いは無い」
「小宮友根の主張は仮定に仮定を積み重ねたものであり、具体的な被害があるわけではない。」
「女子差別撤廃委員会による要請は、全く法的拘束力はなく、少なくない国で実行されていない」
「股間に線を描く表現が差別であるという証拠は無い」
「これが差別と言うならば、他の〇〇のような表現も差別となるだろう」
「この表現は、名誉棄損や侮辱罪などに該当しない。また明白かつ現在の基準(ブランデンバーグ基準)に照らして問題ない。合法であり、誰の権利も侵していない」

この発言はどのように映るだろうか? 国連や大学の准教授が問題があると指摘する(実際、国連は直接に個々の作品を指摘していないが、そう見える)イラストに対して、法律や理屈を持ち出して自由だと喚いている、社会の鼻つまみ者にしか見えないだろう。「ちょっと法律を知っているからって棒を振り回している蛮族」でしかない。刑法典はならず者の権利章典と評されるが、そういうことである。我々は「ならず者」なのだ。

しかし、反フェミニストに全く力は無いのだろうか?

金と頭数

実は、反フェミニスト、特に表現規制問題で鋭く対立するキモオタは割と強い武器を持っている。それは、金と頭数である。約25年前1996頃に三鷹市水道局が新世紀エヴァンゲリオンとコラボし、綾波レイのポスターを掲出した事例が、初期の自治体萌えポスターとして評価されている。

筆者注:より以前から三鷹市にはそういったポスターはあったとか、業者任せの交通安全や防火(危険物)ポスターではダーティーペアやうる星奴らなど、キワドイ格好のアニメキャラの女子が出ている、当時流行ったアニメが使われていたというような情報も耳にしたことがあるが、証拠が出せないので参考情報とする。

当時は、このような事例は珍しく、オタク界隈では大層話題になった。

しかし、今やどうだろうか。たまたま舞台になった自治体や地域、大手コンビニチェーンや、大手食品飲料メーカー、百貨店すら、完全なるキモオタ向けコンテンツである美少女深夜アニメ、エロゲー出自のソシャゲー、キャラの肌が露わになるような演出を含むソシャゲーなどとコラボするのが普通になっている。

あるいは、コミックマーケットが開催、あるいは中止されれば、そこで多くの成人向け同人誌が取引されていることは公然の事実であるにもかかわらず、ニュースや情報番組(ワイドショー)、あるいはドキュメンタリーの素材になり、肯定的に取り上げられることがほとんどである。

この20~30年で世間は大きく状況は変わったというのは、みんな知っているだろう。バブル経済崩壊以降、いわゆる失われた20~30年で、バブル的な奢侈品であったり、レジャーのような消費が大きく遠ざかった。また、若者の非正規化や娯楽の多様化、婚姻圧力の低下、女性の意識の上昇などで非婚化が進み、これによって核家族向けというジャンルが大きく後退した。しかし、比較的安価な娯楽であり、貯金やデート、豪華なランチやディナーを諦めればいくらでも手に入る、いわゆるオタクっぽい文化、もちろんジャニーズや宝塚のような女子中心のものを含む、は大きく消費を伸ばしていった。00年代のヒットチャートはアニソン、アイドル、ジャニーズが占領し、音楽番組で少なくないアーティストは引きつった笑顔を晒していた。

そう、オタクは一人当たりの金額(ARPU)はせいぜい月に数万円程度がボリュームゾーンにせよ、ちゃんと消費を続けて、そして頭数を増やしていったのである。さらに言えば、職業生活において、それなりの金額を決裁したり権限を行使できるようになった第二世代オタクは少なくない。あるいは、第三世代オタクが実務を完全に回せる中堅になっている。彼らの影響も侮れない。

ただ、これだけでは不十分なのである。たとえいくら金を持っていても、差別的なコンテンツを愛好する差別者の数が多くても、それは、せいぜい(悪しき)影響力を持つ業界に過ぎず、「正義」にならないのである。

一歩引いた、国連女子差別撤廃委員会。

2009年の第6回報告に対する女子差別撤廃委員会最終見解では、アニメやマンガに規制を対象に含むように、強い要請、勧告,というかなり強い文言を出している。では、その次にあたる、2016年の第7回及び第8回報告報告に対する女子差別撤廃委員会最終見解ではどのような表現がなされているのであろうか? 実際に見てみよう。

21.委員会は、前回の勧告(CEDAW/C/JPN/CO/6、パラ30)を改めて表明するとともに、締約国に以下を要請する。
(b)差別的な固定観念を増幅し、女性や女児に対する性暴力を助長するポルノ、ビデオゲーム、アニメの製造と流通を規制するため、既存の法的措置や監視プログラムを効果的に実施すること、
(2016, 第7回及び第8回報告報告に対する女子差別撤廃委員会最終見解(外務省仮訳))

実は、これは、前回(第6回)、非常に強い形で出された、パラグラフ36.に該当する「強姦や性暴力を内容とするテレビゲームや漫画の販売を禁止することを締約国に強く要請する。」「締約国が児童ポルノ法の改正にこの問題を取り入れることを勧告する」の後継ではなく、単にメディアを啓発するとしたパラグラフ30の後継となっている。

これはどういうことなのか。これは、委員会は政治的に「禁止の強い要請・勧告」ができなかったので、より弱い主張であったパラグラフ30にくっつけたということである。何も変わっていないのにパラグラフ36の強い主張を弱めた、ということになれば、それは委員会の敗北であり、権威を貶めることになるからである。

なぜ、委員会は弱めざるをえなかったのか。思い出そう、これは、アニメやマンガの規制は日本で発展してきた女性の表現も規制するとして、女子現代メディア文化研究会に大御所がズラズラ賛同して意見書を送ったのときの勧告なのである。怪しげなNGOの勝手な意見のみが送られていたわけではない。さらに、このときはいわゆるブーア=ブッキオ問題や、保守政権である安倍政権を刺激するような問題が取り上げられ、政府が問題視していたというのもある。

政府も質問に対して、抵抗をしている。

問7女性に対する暴力に関する委員会の一般勧告第19号に従い、女児や女性に対する強姦や性暴力を内容とするテレビゲームや漫画の販売を禁止し、そうした作品の製作者の認識を高めるために、講じられた措置について示されたい。また、女性が性的暴力、及び女性の性的対象としての商業的イメージ描写の対象となる、ポルノ映像の大量生産や販売、使用に対処するために、講じられた措置について示されたい。
(回答)
○テレビゲームソフト及び映画については、業界の自主審査機関による性表現、暴力表現、反社会的行為表現等の審査に基づくレーティング等を通じ、倫理水準に照らして適正でないソフト及び映画が流通しないよう自主規制が行われている。
(2015-12-08時点の回答, 第7回及び第8回報告審査に関する女子差別撤廃委員会からの質問事項に対する回答(外務省仮訳))

はっきり言えば、政治的にうまく立ち回ることができれば、正義を手に入れられなくもないということである。市民の感情レベルでは雑な判断しかされないが、建前があり、うまくやれば言い分を納得させられる場というのは、無くはない。

ゆえに、私たちは、そういうことをやるのが上手い政治家や団体を支援するのが近道ということになる。私たちには、勝つ望みがあるのだ。

いつもありがとうございます!