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「過去の話」に拘る男、「今と未来」を見る女(青識亜論ツイキャス・アド氏の感想戦より)

去る2020年9月12日、筆者(吉澤)は青識亜論氏(@blauerseelowe)のツイキャス配信で、お話をさせていただいた。(下記1番目の録音の1:30:50~)

1番目の録音

2番目の録音

ここで、最後に全体をとおした議論の感想戦をされたアド氏(@kamus_lemon)から、筆者がさせていただいたお話を含めて、(あくまで傾向・一般論として)男性・女性、それぞれの論者が大きく異なるアプローチをしているのではないか、という議論がされた。(1番目の録音の3:27:30~2番目の録音にかけて)

本稿では、この、男女の間で異なるアプローチにについて検討をする。

なお、有料コンテンツは、筆者が青識氏と話した内容について、補足的に触れた補遺であり、本論とは直接関係が無いことを申し添える。

問1 なぜ男性は「感情」を話したがらないのか?

(あくまで、ネットにおける議論の傾向的・一般論としてではあるが)女性は「今の感情を理解してほしい」「未来こうしてほしい/要求する」といった話を重視している。対して、男性は「過去の事例」などから話をする。女性にとっては、過去の事実と今の人の感情というのは、全く異なる話なので、話が繋がらないし、意味が分からず、自分たちが蔑ろにされているように感じる。

また、男性は「エビデンスが無いと話したくない症候群」とも言うべき状態にあるように見える。

筆者は、男性が感情で話さない大きな理由は、そもそも男性の感情が相対的に軽視されるからであると考えている。いわゆる、かわいそうランキングが低いシス・ヘテロ・健常者の男性の感情というのは、社会において比較的軽視されがちである、というのは否定しにくいと思われる。もちろん、近時は、以前よりも男性の精神的・心理的な問題についての認識は高まってきているが、まだ温度差はある。そして、何より重要なことは、【アラフォーのハゲデブで早口のキモオタがポルノを見たいという欲求】と【16歳の性犯罪被害者の女子高校生が訴える不安や嫌悪感】を比較したときに、本来であれば感情に優劣はないはずなのに、社会では明らかに後者が優越してしまうということである。

また、そもそも男性の感情が高まりにくかったり、あるいは感情が高まったとしても、それを自分の感情の高まりと認識できずに、怒りとして単に発露してしまうといったこともあるかもしれない。あるいは、感情の発露が忌避されたり無視された結果、自分・他人の感情を無視するような(心理学的な意味での)学習をしてしまっている可能性もある。

このような背景を考えれば、当然に、学習の結果として、男性は自己の感情を明け透けに話すよりも、自分の感情を満足させるようなロジックを展開することを好むようになるだろう。

問2 男性は「自分の気持ち」の話をすべきなのか?

近年は男性の感情にも配慮しよう、または男性も感情を出すべきといった話がされることが多い。また、女性の感情を基礎にした議論を考えていく必要もあるだろう。であれば、男性も「自分の気持ち」を出していくことで、より良い議論ができるようになるのではないか?

純粋に、戦術的な問題として考えるならば、男性は「自分の気持ちの話」をすべきではない。もちろん、「女性の気持ち」に配慮すべきでもない。

この理由は単純である。もし、筆者が藤井聡太と勝負しようと思ったら、絶対に将棋は選ばない。そして、射撃や空手などで勝負を挑む。これは、当然の話である。筆者は将棋で絶対に藤井聡太に勝つことは出来ないが、射撃や空手なら恐らく勝つことができるからである。

さて、問1で示したように、一般に男性と女性では、女性の感情の方が社会的に配慮されやすい傾向にあることを示した。このため、男性と女性がそれぞれ「自分の気持ち」を議題にして討論をした場合、男性が勝てる可能性は著しく低くなると思われる。また、「自分の気持ち」を肯定してしまったが最後「相手の気持ち」に配慮する義務が生まれる。すると、より感受性が高く、より周囲に感情が配慮される人の方が一方的に有利になるはずである。

また、競争社会における男性は、より配慮されにくい属性であるために、「自分の気持ち」を表明することが、単に弱点をさらしていること、より弱い個体であることを示し、立場を落とすことになると考えられる。実際に、鬱病を拗らせた人が仕事で干されているような例は珍しくない。また、もしかしたら、これは進化心理学的な理由もあるかもしれない。

このように考えると、男性は「自分の気持ち」の話をすることが不利益になるのである。もちろん、わざわざ不利益を取りに行く必要はないので、男性は「自分の気持ち」を話すべきではないと結論されるだろう。

問3 シーライオニングやマンスプレイニングの問題について

実際に、「傷ついた」「加害されたと感じた」「有害だと思った」ということは事実である(いわゆる「私がエビデンス」)。にも拘わらず、男性自分や他人の感情を重視しない傾向が、シーライオニングやマンスプレイニングと言われるようなことに繋がっているのではないか。

確かに、男性の感情を重視しない傾向がシーライオニングやマンスプレイニングといった行為に繋がっている、というのは妥当性のある議論だと思われる。しかし、それは問2で示したように、そもそも男性が自己が不利にならないように振る舞った結果だとすると、男性が自らの不利に我慢する理由が無い以上、やめさせることは困難ではないかと考えられる。実際に、女性が「傷ついた」と主張した場合は、社会的にある程度配慮されるだろうが、キモオタが同じことを言ったところで配慮されないことは明らかであり、この前提が動かない限り、男性から協力を引き出すのは難しい。

実は、男性同士ですら、得意な分野を一つのルールとして話したいと思ってしまう傾向がある。筆者がキモオタとフェミニストの対立を軍事的な対立に比喩するのは、恐らく筆者が軍事について明るいからである。ハンマーを持つ人には全てが釘に見えてくるという問題である。「有利な議論の体系で話したい」という気持ちは、人類にとって普遍的な気持ちであり、対立する二者のどちらの議論の体系が採用されるべきかというのは、アプリオリに決まるものではない。

これは【フェアネス】の概念が決定的に異なるということだと考えられる。女性たちにとっては、男性がどうでもいい過去の話を垂れ流して根拠とすることはマンスプレイニング以外の何物でもない。逆に、男性たちにとっては客観的な証拠も無いのに訴えてくることは、どうでもいいお気持ちとしか理解できない。要するに、双方、自分たちにとって有利な議論のルールをフェアと感じているだけなのである。

最後に

このように考えると、現時点において表現に関わる問題などで利害が対立してしまっている中で、そもそも、お互いに「お前らの気持ちを忖度する理由があるのか?」となってしまうという根本的な問題がある。確かに、多くの労働者は上司や顧客の顔色を窺って、気持ちを忖度することは多い。ただ、これは金を貰っている仕事だからであるためだろう。金ももらってないのに、フェミニズムに理解を示す理由はないし、男どもが配慮されていないことに理解を示してやる必要は、全く無い。

逆に言えば、「報酬」であったり「損失」といったものが可視化されることによって、双方に相手に理解を示す動機が生まれるのではないだろうか。


以下の有料の補遺は、筆者が青識氏と話した内容について、補足的に触れたものであり、本論とは直接関係が無い。

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