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フェミニズムの自由。そして、私たちの自由。

フェミニストはよく、フェミニズムを女性を解放し自由を与えるための思想だ、みたいなことを言う。確かに、選挙権、男女雇用機会均等、自由な服装といった様々な自由が実現されてきた。あるいは、望まぬ婚姻や、ステロタイプな偏見に基づく差別などから自由を獲得してきた。これらの事実は尤もな話だと思われる。

もちろん私たちにも自由がある。表現の自由、移動の自由、学問の自由、幸福追求の自由。当たり前の話である。

そんな中で、フェミニストは私たちの自由に批判を向けるようになってきた。「性的にに強調している」「差別的な表現だ」「このような表現は公共の場にふさわしくない」「ゾーニングが必要だ」「煽情的なコンビニエロ本の表紙は表に出すべきではない」などなどと。

以前から読んでいる読者諸兄は、筆者が、批判する自由はあるが、批判を無視する自由もある。人権侵害などという指摘は、名誉棄損のような具体的権利侵害も明白かつ現在の危険(ブランデンバーグ基準)に該当しないので、全く人権を侵害していない。全く合意していない勝手な主張や理論に基づいて、何か要求をするということは、ヤクザの因縁と同じである。といった主張をしていることはご存じだろう。

今回は、少し目先を変えて、私たちはどのような自由を持っているのか、ということを考えてみたい。

自由の範囲

さて、一言で自由といっても良く分からないので、まず自由のことについて考えてみたい。国語的に考えれば、自由とは、それをすることが出来るといった意味だということが分かる。ただ、私に、例えば通りがかりの人を襲撃して、絞め殺す自由はあるのだろうか? 恐らく、ほとんどの人は、そんな自由はないと答えるだろう。この制限のことを、法律家は、憲法に書かれた公共の福祉によって制約されているという。

公共の福祉のまず第一の意味は、他人の権利を侵害しないということである。人を殺したり、暴力を振るったり、奪ったりすることは禁止されており、実際に、刑法を読めば、これらの行為に及ぶことで刑罰を受けるということが記載されている(あるいは、裁判の判決に基づき、行政が刑罰を行うことができると考えてもいい)。あるいは、直接ではないにせよ、明らかにそういった他人への人権侵害を起こしかねないような行為も、禁止される場合がある。いわゆる、明白かつ現在の危険という基準の話である。

次に、例えば、役所が自宅を壊して道路を造るような場合に、合意しなくても、強制的に対価を渡されて自宅が接収されるような場合がある。こういったものも、公共の福祉と言われている。なお、今、公共の福祉の理論は、古典的な「人権が人権を制約する」という内在制約説に限らない様々な説が登場している。

さて、他人の権利を侵害するようなことは自由ではないということが分かった。その上で、考えられることは「何が権利侵害なのか」という話である。例えば、フェミニストは「乳袋」や「スカートの股間の皴」といった描写に対して「女性を性的対象として見る差別的表現であり、人権侵害である」という批判を繰り広げているが、これは禁止されるべきなのであろうか。

答えは、否である。これは、以前から筆者が述べているように、名誉棄損のように具体的な権利は侵害されていないし、明白かつ現在の危険(ブランデンバーグ基準)に該当していない。よって、公共の福祉に基づいて自由を規制しうるようなものではない。

では、いかなる場合に自由は制約されうるのであろうか。それは、先ほど述べたように、人を殺したり、暴力を振るったり、奪ったりすれば、刑法に基づいて罰則を受けるのであるから、これは禁止されていると考えられるわけである。つまり、強行法規に基づく規制でなければ、基本的に自由は制約されていないということである。

禁止されていないこと

そういうわけで、適切な措置を取ればTwitterで自作のエロいイラストを投稿することも、フェミニストに反論することも自由なのである。しかし、私たちの自由は、そういった積極的な自由にとどまらない。フェミニストの主張を無視したり、駅の階段でベビーカーを降ろす母親を無視する自由もある。

あるいは政治的な自由もある。自治体の男女共同参画事業に関わる情報の情報公開請求をしたり、どこかでやっているピンクバス事業の効果や予算に関わる資料の情報公開請求をかけることもできる。政治家に、男女共同参画を名目として、政治的活動が行われ、男性差別が行われているとお手紙を書く自由もある。

そして、実は、禁止されていないことの幅は凄く広い。例えば、混雑時に、電車にベビーカーを載せてきた母親をにらみつけ、舌打ちをするのは特に法で禁止されているようなことではない。突然ぶっ倒れた女に、心臓マッサージやAEDによる応急手当をしてやる義務はない。酔っぱらってゲロを吐いて仰向けで寝ている女を、窒息しないように横の姿勢にしてやる必要もない。コンビニで前で会計している女がモタモタしていれば、舌打ちをしたっていいし、横に広がってノロノロと道を歩いている女共がいれば「邪魔なんだよ」と怒鳴りつけても構わない。あるいは、いわゆる不快なナンパなども、やり方によっては違法行為ではない。こうやって、陰に日向に、禁止されていないことを考えればきりがない。

実際にすることしないこと

当然のように、前述の行為は、法的に禁止はされていないとはいえ、あまり褒められた行為ではない、そのような行為をすべきではないと言う人もいるだろう。であれば、やらなければ良いのである。何かをする自由があるというのは、何かをしない自由があることを示している。例えば、信教の自由は何かの宗教を信じる自由であると思われがちであるが、実はその裏に、何かの宗教を信じない自由や、何かの宗教を批判する自由もまた、当然に含まれているのである。

もしあなたが、フェミニストに並々ならぬ憎しみや敵愾心を燃やしているなら、批判する自由や、にらみつける自由、舌打ちする自由などを最大限使うことが望ましいだろう。あるいは、それほど恨みはないというのであれば、気が向いたときに批判すればいいだろう。あなたには、その自由がある。

非対称の戦い

もちろん、フェミニストにも男を嫌悪したり、にらみつけたり、舌打ちをする自由はある。凍結されるかもしれないが、金玉潰しとTwitterに書きまくる自由もある。ただ、ここには非対称性がある。ほとんどの男は、このような対応をされても屁でも無いからだ。そこらじゅうで、男が「レイプしたい」と言っている状態があれば、恐らく多くの女性は恐怖するだろう。あるいは、にらみつけられたり、舌打ちされれれば怯えるかもしれない。しかし、別に「金玉潰し」とか言われたり、女ににらみつけられたり、舌打ちされても、特に男ならば恐怖は感じない。

はっきり言えば、反フェミニストが有利な戦場である。有利な戦場で戦うのは卑怯なのか? そんなことはない。フェミニストも、権威ある正義を振りかざし、自己の要求を貫徹するという、自分たちに有利な戦場で、さんざん、キャラクターの印刷されたポスターやらパネルの撤去を実現してきた。市民の正当な抗議という正当なお墨付きで、批判者を相手にもせず、当局の選択だから、責任は我々には無いとも言い切った。果たして、そんな連中に躊躇する必要はないと筆者は考える。連中には、我々の懲罰を受ける義務こそあれ、赦してやる理由は一つもないはずである。これは、傲慢なるフェミニストに対する懲罰なのである。

いつもありがとうございます!