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なぜ政治的発言は嫌われるのか

よく、政治の話をすると嫌われると言われることがある。

もちろん、政治というものは生活に関わってくる重要な問題なので、それについて話すことは価値のあることだというのは、尤もな話であると思われる。

しかし、同時に、政治というものはシュミットに言わせれば友敵を分かつものであり、実感としても、決して少なくはない政治的に反対の立場の人からは嫌悪されるというのも事実であると思われる。

しかし、そういうレベルの話とは別の水準で、実は政治的発言が嫌悪されているのではないかと筆者は考えている。政治的発言をすれば、反対の立場の人間から嫌われるということぐらいは、誰にでも分かるはずで、それは既に織り込まれていると考えた方が妥当だろう。

そして、政治的発言をするというのは、一種の政治活動であり、実は、この政治的発言に対する嫌悪感の源泉の少なくない割合は、政治活動への嫌悪がではないかと考えられる。そこで、この記事では、政治活動への嫌悪について議論をしていく。

政治活動をあえてする人

政治活動というのは、ちょっとやったことがある人にはわかると思うが、決して楽しいものではない。暑かったり寒かったりする中でビラ配りをしたり、ひたすら電話をかけ続けたり、良く分からないオッサン・オバサンにへこへこしたり、面倒な受付やら案内係を無料奉仕するようなものが多い。結局のところ、政治活動も他のビジネスと同じように進んでいくものである以上、そういう面倒な仕事から逃れる術はない。

ただ、政治活動と普通のビジネスとの間には決定的な違いが二つある。

一つ目は、目的である。普通のビジネスの目的は、基本的に利益である。もちろん、技術を社会で活かそうみたいなビジョンを掲げている企業は少なくない。しかし、それでもなお目的は基本的には利益である。対して、政治活動の目的は、その政治活動の訴える政治的正しさの実現である。利益という、いわば外部尺度ではなく、何を正しいかとする価値尺度そのものを示すのが政治活動なのである。

二つ目は、スタッフである。多くの場面で、政治活動のスタッフというのは無給のボランティアである。

つまり、こういうことである。政治活動をする人というのは、自分の信じる政治的正しさの実現のために、報酬も貰わず、趣味や娯楽を諦めて、少なくない自分の時間を割き、面倒な仕事を引き受けるような人ということである。はたして、この人は正気なのであろうか? 当然にそんなことはないだろう。最も可能性が高そうなのは、政治的正しさに耽溺しているようなことが考えられるだろう。あるいは、メサイア・コンプレックス、それとも単純な権力欲、目立ちたがり屋いずれにせよあまりまともとは思えない欲望が見え隠れする。実際に、Twitterで「活躍」する政治活動家や議員などを見ていれば良く分かるだろう。

政治活動をさせられる人

とはいえ、ボランティアベースの政治活動も、実質的に報酬を貰って、あるいは半強制的に参加しているという場合がある。

実質的に報酬を貰っているパターンというのは、要するに業界団体や労働組合の専従による組織内候補、友党への支援やロビーイングのような例である。あるいは、地元の土建屋の社長が従業員に休暇を与えて、地元議員のポスター貼りに駆り出しているというのも、実質的にこれに含まれるであろう。これは、実質的に仕事の一環となっている。

次に、地縁・社縁などに基づいて半強制的に動員されているような例である。地方部で選挙となれば、おらが村の先生のために、地元の人間が総動員される。運動員のための炊き出しをオバサンが担い、ポスター貼りや朝の駅頭での宣伝をオジサンたちが担う。古き良き日本の風景である。もちろんリベラルも負けてはいない。連合の組織内候補を擁立する各産別は、その総力を結集するため、動員をかけて集会を行い、組合員にはがき用の名簿のための情報を出させ、家族親戚友人に電話をかけるように発破をかけている。

実際のところ、彼らは、特に正義に酔っているわけでも、メサイア・コンプレックスになっているわけでもない。ほとんどは候補者の訴えている政策すらろくに理解していない。せいぜい、単につとめを果たしている以上のこととしてこのことを考えていない。故に恐らく、普段から政治的発言をするなどということはない。

だから政治的発言は嫌われる

そう、だから政治的発言は嫌われるのである。

あえて政治的発言をするということは、自分が政治活動を行っていると宣言するようなものなのである。多くの人たちは、そんなことにかかずらっている暇も、わざわざ関係ない面倒に首を突っ込む愚かさも持ち合わせていない。つまり、何かしらの政治活動に首を突っ込むだけの理由があるということである。しかもそれが、対立を生んでいる、賛否両論のものであれば、もうそれは明らかである。

その発言は、ある特定の政治的正しさに耽溺していることの自白である。そして、最早、政治というのは話し合いの成立する場ではないことを私たちは思い出さなければならない。それとも、その人は、メサイア・コンプレックスの片鱗を出しているのかもしれない。はっきり言えば、そんな人からは逃げるが吉である。権力欲や目立ちたがり屋は、まぁマシだし、神輿として担ぐときには便利かもしれないが、そんなのを神輿に担いで政治をやろうと考えている時点で、明らかにおかしくなっている。

実は、そうやって出来ている現実の政治は、極めて高濃度の狂気の場である。そして、その片鱗を見せる政治的発言というのは、ゆえにこそ嫌悪されるのである。

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