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たまにはまともな記事を(絵画に意味はありません)

吉崎は数学と英語はからっきしなのだが
日本語と心理学、哲学に関してはそこそこであると思っている。まぁその道の学者さんからしたら歯牙にもかけないレベルではあるが。
このあいだ、心理学生とお話しする機会があった。
ネットっていろんな人と話せるから、便利だよね。

ただ、彼らは別に慈善事業でSNSをやっているわけではないので、質問等をする場合は態度や言葉遣いは気をつけないといけない。あくまで他人であり教えてもらう立場ということを肝に銘じて拝聴するのだ。

話を戻すと、その心理学生と心の弱さについて、そしてダニングクルーガー効果について話したのだけれど、結果としては心理学生に「あまり使い道はないよね」と言われてしまった。

心理学生…はちょっと言いづらいし長いので学生さんと呼ぼうか。彼は一つ年上だったので敬称もつけよう。

心理学は、人生においてとても重要とまではいかないが、心理学は「人が人らしくよりよく生きるための手段」であり、「問題が起きたときの正しい対処法を知る術」とも言えると思う。知識を一つでも多く知っていれば他に道ができると思う吉崎にとって、如何ともし難い言い分でした。
このあたりは、学問として学ぶ人と、生活に活かそうとする人の違いなのだろうか。

吉崎は『心とはなにか?』と聞かれたら「意思」と答える。
意思といえば簡単に言うと「心で思ったこと」「何かをしようと思うこと」で、意思は心理学的において心の起こす行動、現象であるが、
吉崎にとっては、意思こそが心そのものと言える。
つまり、生きる上で怒ったり、強がったり、泣いたり逃げたりを選択するのは心の意思ですけども、じゃあ心を知ったからと言って意思が変わるか?というとそうでもない。意思が変わるのは、これから先の未来をどう見るかによってしか変わらない。
だからこそ、心がどんなものかは関係ないと思うのです。
相談をよくされるのですが、いわゆる「心が弱い」「心が強い」「お豆腐メンタル」という世間にお応えすると、吉崎の回答は「意思こそが心」になるのです。

学生さんは「心の重きを弱さ強さと表現するのは嫌いだ!」と言ったのだけど、「では正しいと思う表現はあるの?」と聞いたが良い回答は得られなかった。
内容としては、「心は実態があるわけでもないし、個人それぞれの人生を歩んで育んでいくものなのだから、同じ選択する事象だって経験や予測も思うことだって人それぞれ違う。強い弱いではかれるものじゃない」

吉崎はいつも逃げる時「果たしてこれは正しいのか?」と考える。
たとえば、仕事を休む時。「金欠気味だし休むほど体調悪いか?」とか「いや、出勤して迷惑をかけるよりかは休んだ方がいい」とか「熱もないし精力剤飲んで仕事に行こう」といろいろ考えて、欠勤する自分、出勤する自分を正当化する。
ある意味、出勤した場合でも「体が怠くて休みたい自分をわざわざ発破かけてまで仕事に行くなんて、弱いな…普通の人だったら怠くても休むなんて選択肢ない…」と考えると弱さになるし

欠勤した場合でもそのまま落ち込んでいたり、「他人に迷惑をかけないよう配慮できる自分偉いぞ!」考えたらとても強い心だと言える。

学生さんの「経験や知識によって選択が変わる」という言い分は個人的によくわかるが、かといって「心は強い弱いじゃない!」と言い切るのは早計にすぎると思う。とくに他の表現がないのなら尚更だ。

弱い強いの概念はそれぞれ変わってくる。というのならば、どんなマイナスな事象だろうと全て強い!と言い換えることだってできるはずだ。
落ち込みやすい人だって「えらい」「つよい」「かしこい」という褒め言葉が嫌いなわけではないだろう。

鬱の人に褒め言葉は逆効果と言われているが、それはなぜか?といえば「その人の経験と知識に基づいた褒め言葉ではない」ことが原因だ。
「この人は私のことを考えてない」と自殺に走る人もいるし、持ち上げすぎて落差が激しくそのまま自暴自棄的に自殺してしまう人もいる。
精神科医ではない我ら一般人は、そこを理解して、相手に適切な言葉を選べないからこそ「ほめるな危険」というのである。

以前の記事で後悔していると書いたが、まさにこのことだと思う。彼は死んでないし、元気に働いているが、私からしたら彼が選んだのは間違った選択だ。
他人を思い通りに動かせないということは人類の歴史でよくわかっていることだろう。
どれだけ親身を費やしても敵わないものはあるのだ。

親しい友人が離れていくことを怖がっていては、自分の人生に責任を取れない。
私が守りたいのは、私だけなのだ。

私が「自分が1番大事だ」と、友人に宣言し、自分自身、心の底から思えるようになったのは哲学と心理学を学んでからだった。

私が「宗教は弱い人の心の拠り所だ」というのは、ニーチェの「宗教は弱者のルサンチマン」からとっている。

強い弱いという表現は実際、全く関係ないのだ。
問題と直面し負けてしまった時「立ちあがる」のか「座り込んだまま」かの違いだけなのだ。
どちらも、とても傷ついてる。
同じだけの苦しみを味わっているのに、立ち上がれた人が傷ついてないとでもいうのだろうか。

私は、心理学を学ぶ過程で、心の症状とも言える、「防衛機構」「心理的リアクタンス」他にもたくさん、たくさん覚えた。
あげたものはよく頭に浮かぶ言葉だ。
心理的リアクタンスはよく彼氏が言い訳に使うのであまり好きではない。簡単に言うと「指摘されるとやりたくなくなる」という「宿題やりなさい!」と言われたときの子供みたいな心理だ。たしかに、言い訳に最適。むしろ言い訳をする心理。情けなくなるからやめてほしい。

防衛機構はいろいろな心理行動の総称で主に「無意識に逃げる」ことを心理的メカニズムとして発表されている。
たとえば嫌なことがあった時に爆発しそうな感情をうまくコントロールして排斥するそれぞれの心の防衛システムのことだ。
抑圧
欲求不満や不安を無意識に抑え込んで忘れてしまおうとする。
合理化
最もらしい理屈や理由をつけて正当化しようとする。
同一視
他人の長所や能力・実績をまねして自己評価を高めようとする。
例)有名人の服装や言動を真似る。
投影
自分の後ろめたい感情や衝動を他人のものとして非難する。
例)自分が嫌っているのに、相手が自分のことを嫌っていると思い込む。
反動形成
抑圧されている感情や態度が、正反対の行動として表れる。
例)相手に好意を抱いているのに、悟られないために素っ気ない態度をとる。
逃避
困難な状況から逃れようとする。状況から逃避する場を設ける。
例)試験前に大掃除をする(現実への逃避)
  試験前に高熱や腹痛を訴える(病気への逃避)
  試験前に将来の夢や試験後のことを想像する(空想への逃避)
退行
幼児期など、現時点の発達の前段階に逆戻りする。
例)赤ん坊のようにふるまって他人の気を引こうとする。
代償
ほかの欲求に置き換えて満足しようとする。
例)勉強ができないからスポーツで活躍する。
昇華
社会的に承認されない欲求を文化的・社会的に望ましい価値あるものへ置き換える。
例)失恋を機に勉学に励む。

だれでも一つや二つ、身に覚えがあると思う。
そしてこれは数が減ることもあるが小学校や中学校でも学ぶことだ。

自分の行動を知ることで、少しでも不安が減るし、なりたい自分への道筋が見えてくる。見えなくとも「これじゃない」とわかる。それが心理学だ。

そして、ダニングクルーガー効果とは、「自分が弱いことを認識できない」「博識なのにやけに謙遜する」という認知バイアスのことだ。
簡単に言うと勉強しはじめは「簡単じゃん!」と有頂天になるのに、さらに知っていくと「え?どこまで行けばゴールなの?」と、自分がどれほど知っていてあとどれだけ知らないのか不安になり、自己評価が低くなってしまう。
よく波線グラフで説明されるがとてもわかりやすい

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Googleから拾ってきたこのグラフはちょっとわかりづらくアレだが。

経験が少ないほど自信過剰になり、
積み上げた経験が普通になると「何も知らない」ことを自覚する。普通なら「基礎知識と多少の仕事はわかります」くらいのレベルだが、その自覚が過剰すぎて「何も知らない」となってしまうのだ。
専門家と呼ばれる人でも「少しわかります」と本気で言う人もいる。その人も「日本で1番詳しいとはいえない。日本で1番だとしても世界がある」と評価がどんどん低くなる。それがダニングさんとクルーガーさんが発見した認知バイアスだ。

認知バイアスとは、認知はそのまま「自覚」と言う解釈で良い。バイアスは「かたよった」「ななめに」という意味で、まぁ要するに「他者の評価と自身の評価の差」を「認知バイアス」と呼ぶってことだ。

ダニングクルーガー効果は他者の意見や評価に関係なく起こってしまう。一種の病気とも言える。
色盲や感覚盲と同じで直し方もその仕組みも正しい評価の仕方も個人差がありよくわかっていない。

ただ、そう言うものがある、と知っていれば
自分なりに他者との比較ができる。
自分のできる範囲に気がつけば、自信につながる。

知ることだけじゃなく、それをよりよく生きるために活用することが大事なんだと吉崎は思うのです。

いずれ社会に出て、人を救う立場になる学生さんには
ぜひ理解してほしい考え方であります。

人は勉強するために生きてるのではなくて
生きるために勉強するのです。


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