見出し画像

#13 ヨッシャマンと魔法の言葉(後編)

ヨッシャマンホットラインで星読みと話をしていると、それこそ流れ星みたいに名言が降ってくることがある。
まさに昨夜、
「ヨッシャマン、我々ももう老い支度をしなくてはならない」
そう主張する星読みに対して、私はAisnahoさんの記事で読んだネオテニー(幼児的特徴)こそむしろ必要ではないか、と反論をした。
老年にこそ、混じり気のない好奇心や遊び心が大切なのではないかと思ったからだ。
星読みもそれには異論はなかったが、次の返しが見事だった。
「ヨッシャマンよ。確かに幼児性は大事かもしれない。しかし、幼稚な大人になってはならない」

これは名言だと思った。

さらに、最近彼女がはまっている「牡蠣のグラタン」をゴリゴリ推してくる。その場しのぎの社交辞令は一切許さないといった剣幕で、「すぐに作って写メを送るように」と逃げ道まで塞がれる。どこかに突破口はないものかと、マクガイバーなみの閃きを探したが、

「とにかくグラマーな味だから」


こんな表現をされたら食べないわけにはいかないではないか。

このように、とかく私は言葉に目がない。
美しいフレーズ、素敵な表現、うなるような暗喩。
夜な夜なnote界を徘徊しては、お気に入りの言葉たちを拐い、私だけの地下室に閉じ込めている。ふふふ。(ヨッシャマンダーク)

これから話したいのは、その「言葉」の面白くも不可思議なある側面である。

これは武術の先生に教えていただいたのだが、腕相撲をする時に声のかけ方で力の入り方がまるで違うのである。
まず、「私は私のために戦います」
こう言って腕相撲すると、全開に弱い。
次に、「私は世界のために戦います」
こう言うと、さっきまでせせら笑っていた相手をぺしゃんと倒せる。
嘘みたいな話だ。
だから、私は4人で検証したが例外なく同じ結果が出た。

なるほど。
やはり人は自分のためよりも誰か他の人のための方が力が出るんだね。
そんな生どら焼みたいな事をいっているのではない。
私は、

世界のために戦うなどとはこれっぽっちも思っていないのである。


それはそうだろう。
だれが世界を背負って腕相撲などするのだ。
それなのに「世界のために」という言葉を発しただけで強くなれるのである。

当然、他の言葉でも試してみたくなる。
次は、「娘のために」で腕相撲してみた。思った通り、強い。
で、自分が苦手な人の名前で「○○のために」だと当然弱い。
もちろん、娘のために腕相撲するなどというスットコドッコイな事は微塵も思っていない。それなにの勝つ。

これは使い方次第では、相当なダメージを喰らうだろう。もしあなたの好きな人が、あなたの名前を呼んでぺしゃんこにされたら、その時はあなたもぺしゃんこである。

他にも色々ある。
例えばイメージトレーニング。これは苦手な人もいるのではないだろうか。かくいう私も、妄想は得意だが詳細なイメージングは不得手である。
だが、言葉を使えば大丈夫だ。
私は、「ムキムキ」と言いながら筋トレをすると、限界値を5回ほど先延ばせることを発見した。
「ゆるゆる~」と言えばストレッチでの可動域が広がるのをあなたも実感するだろう。
なんの感情も思いも乗っていない、ただの擬態語でこの威力である。
しかもこれは、言葉のほんの片鱗にすぎないのだ。
私たちは、なんという恐ろしいものを手にしているのだろう。いや、口か。

言葉とは、人を奈落の底に突き落とすこともできれば、そこから救い上げることも出来る。

聖書には、
はじめに言葉ありき。そう書かれている。
だから、言葉とは創造のエネルギーなのだという人もいる。
だとしたら、「バルス」はどう説明するのか?

言葉を発する時、いやそれ以前に頭に言葉が浮かんだ時点で「何か」が生まれるのは確かだと思う。さっきまではこの世になかった何かが。
しかし、それがなんなのか私には説明できない。
そもそもその力に名前をつけたり、カテゴライズすることに無理があると私は思うのだ。
言葉を言葉で表すなんてことは出来ないのかもしれない。
それは、音楽を音楽で表したり、絵画を絵画で表すことが出来ないように。

私のようなチンパンジーにちょっと植毛したような人間には、言葉の力を推し量ることすらできない。
せいぜいその深い井戸の縁に手をかけて、どこまで声が響くのか叫んでみるくらいのものである。
あの、堪え性のない床屋みたいに。
「女王様の耳はロバの耳~~!」
ネコ耳だったら可愛かったのに、と思う。

「魔法の言葉」というタイトルをつけたが、実際には魔法の言葉ではなく、「言葉が魔法」なのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?