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迷路デザインの”右回り理論”は本当か?

「右回り(時計回り)」には、人間の精神を不安定にさせたり、不安を覚えさせる効果があるのだ、とかいう理論を聞いたことがある方も多いのでは。それを効果的に利用したのが遊園地の”お化け屋敷”や”ジェットコースター”のコース設定だそうで、たいていの遊園地のそれらのアトラクションはスタートして「右回り」で設計されていることが多い、のだという。

遊園地以外では中高層のビルの屋外に設置されている非常階段。
あれって基本的には下る際、逆に「左回り」になるよう設計されているらしい。
なるほど、確かに今窓から見える隣のビルの非常階段はそんな感じだな。
階下へ逃げるとき、右回りとは逆にすることで、逃げる時に安心させ、落ち着かせることに繋がっているというわけかな。

さて今日もゲーム制作の話。
あるプロジェクトの企画会議の時の話。企画者のひとりがこういう学術を知ったうえで

「このゲームの中盤でプレイヤーが遭遇する”ダンジョン”の迷路デザイン。よりユーザーの不安を掻き立てるために、右回りで設計しようとおもうんですがどうでしょう?」
・・・みたいな提案してきたことがあります。

う~~ん、個人的にはその考え、否定はしないんだけど、賛成もできないな、って思うんですよね。

果たしてその「”右回り”は人の不安を掻き立てる理論」って本当に正しいのか?に正直あまり信憑性を感じないというのもあるのですが、そこはまぁ仮に正しいとしても・・・。

今の時代、こういった情報はネット上にあれこれ広がって知れ渡るし、いくつもの種類のゲームを大量に遊んでいるプレイヤーさんにとっては、その「法則性」を読まれてしまうってのはどうなんだろう・・・って思うんですよね。

法則を読まれてしまうというのは例えば・・・

(ダンジョンの長い廊下の突き当りに「重々しい扉」)
どうせこの扉、開いた瞬間にその向こうからドカッドカッと敵が出てくるんでしょ?
(ギィィィィと「扉」開く、ドバババっと敵発生)
は~い、敵さん来たわ、いらっしゃ~い!

っていう感じww。

実際、自分の予想が当たるってことにはプレイヤーを気持ちよくさせる意味もあるので、その”読まれてしまう”ことが絶対にダメということではないのですが、犯人やトリックが序盤でバレバレの推理小説って感じがするので、個人的にはあまりそういうベタな演出は好きじゃない。
プレイヤーの”読み”を分かったうえで、それをあっさり裏切って、さらに一段上をいく意外な展開(アイデア)を打ち出せるか?というところに企画の面白さってあると思うんですよね。

ただ最近、ビジネスとして「面白いゲームをコンスタントに制作していく」ことが求められるゲーム制作企業にとっては、工業製品の製造工場みたく、なんとか安定的に面白いゲーム企画が次々に生み出せる環境を目指したいわけです。そこで出てくるのが・・・
こうした「法則性」とか「系統だってまとめられた学術・学問」。
これらを使って「楽に」「安定的に」面白いゲームを生み出したい、みたいな考え方が採用されがちだと最近感じるんです。
(ガチャシステムとかもその代表例)

プログラマやCG技術者は、こうした過去からの知識を系統だてて積み上げられた学問・学術的分析はとても役立ちます。それは間違いありません。
他にシナリオ構成理論なんかも・・・例えば有名な「三幕構成」理論。つまり設定(Set-up) - 対立(Confrontation) - 解決(Resolution)で分類し、それぞれの比率を1:2:1で構成するというアレ。物語を飽きさせずにわかりやすく伝える構成としては、非常に有益。こういうことは知っておくべきですし、利用すべきです。

ただ企画職だけは、そうした学術的な法則を打ち破って、ユーザーに驚きを与えてナンボだと思うんですよね。だから「楽に安定的に面白い企画を生み出そう」「学術・学問・法則性に倣おう」という考えはわかるんですが、個人的には自ら企画する場合、そうした学問に倣わないことを肝に銘じています。

昨今の「ゲームクリエイター養成専門学校」企画者コース。
やはり教えている内容としては、少なからずこうした学術や学問を教えておられるのだろうと思うのですが、そうしたことが画一的なゲーム企画者を生んでしまう要因にならないか?というようなことを懸念してます。
わたしなら「学術や法則性を研究させたうえで、それを打破するトレーニング課題」をやらせたいと思ったりしますがいかがでしょう?

まとめ。
今日は「ゲーム企画を学術や法則性に倣って、安定的に設計するような考え方やアプローチにはあまり賛成できない」というお話でした。

ではまた次回!

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