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九州横断道路の葛藤

連日続く雨と風が、
びみょーな雰囲気を醸し出されていく。

何かいい事ないかな?
そう願うなら、熱すぎるジモセンに入ってよ。
いやーな気分への麻酔薬になるからさ。

別府で湧いている温泉や湯けむり達は、実は50年前の雨水がマグマによって熱せられて、地表に昇ったものとされている。従って、今降る雨は50年後の温泉や湯けむりの礎なのだ。

赤くなった体で僕はこう言い換える。

僕たちが見る春雨っていうのはさ、未来の子供達の青春になのかもしれないと。別府に住む者は半世紀のサイクルの流れに身を任せていると。

そう思えば、案外雨も悪くないよなとロマンチストな口調で語ってみるが、次第に麻酔された体の感覚が段々戻ってくる。

半世紀経てば景色はガラリと変わる、当たり前。
雑木林が観光地化され、観光地化された場は段々と廃れていくのが現状である。

その現状に、様々な思惑が複雑に絡み合う。
子の長い旅路を整備したいという親のエゴと、
親が示した道に反発したいという子のエゴが、

全く交わる事のない平行線が次々と生まれる。
さあ、50年後の未来はどうなるのかな。

別府という言葉の由来

別府市は今年で100周年!おめでたい。
別府って何がある所なのと尋ねられたとする。

「正味温泉以外、あんまりないかなと思うよ」

この街の歴史を知らずに社会人?堪ったもんじゃない。残り僅かの学生生活ではあるが、別府が歩んできた歴史を覗いてみる。

ということで、別府の由来から語っていくよ。

奈良時代、現在の別府の場所は温泉が流れ込む様子をみて、熱海、敵見(あざみ)とも言われていた。その後朝見郷とも呼ばれるようになる。

荘園を基盤とした平安時代末期。当時勢力が強かった宇佐神宮が朝美郷の地区を「別符」(別の免符=税金を特別扱い)という形で管理した。

この朝美郷の「別符」がそのまま地名化されて、現在の別府という名前に至るとされている。

次は色んな文化や歴史について語っていきたい。が、あまりにも膨大な情報量になる。その為、今回は「九州横断道路(やまなみハイウェイ)」を焦点とした歴史を覗いてみる。

横断道路が出来た当初

昭和39年、九州横断道路が完成する。

油屋熊八(山は富士、海は瀬戸内、湯は別府が有名なやつ)が別府の観光開発するにあたって、湯布院と別府をつなぐ道路に携わったのだ。彼は昭和10年で世を去るのだけれども。

昭和3年に一旦遡る。当時舗装されていない道路に団体客を連れたバスが通る。油屋熊八が日本初となる女性ガイドによる案内ガイドつきの定期観光バスを運用したのはこの頃だよ。

埃は舞い、生い茂った草道たち。地獄めぐりはそれらの道を掻き分けて観光するというのが主流であったのだ。(考えられない)

そららを経て昭和39年に九州横断道路が完成され、道は舗装され、綺麗になっていく。この道路を通って熊本に行くのに当時有料600円かかっていたらしい。そりゃ鶴見岳とか険しい道を通るのだからお金はかかるであろう。

今は無料だから、ありがたい話だね。

国道の拡張と整備の思惑

現在、別府市を起点とし大分県主要の観光地(海地獄等)を通過し、最終的には長崎県まで辿りつくことができる九州横断道路。

段々とこの道路が綺麗になっていくよ。
沿線上に次々とチェーン店が作られて、潰れていくことが繰り返されているけどね。最近のことだと、LAWSONとか潰れて、はま寿司とか北海道パン屋ができたとかかな?

異常な程の交通量ということで、道の幅を広げないといけない。二車線にしてみれば、狭くなった歩道が危ないから今度はそっちを広げてさ。

それが意味する事はね。
道路の沿線上にある店達は移らざるを得ない状況に追い込まれる。国道の整備だから仕方のないことなんだけどさ。

結び

綺麗になっていく街並みとその裏には甚大なモノとヒトが簡単に消費される。市民の都合と国の政策が平行線状態がただただ蓄積されていく。

平行線なものを強引に交わらせるのが昭和の考え
令和の考えは平行線のままでも良いじゃないか。
※これが一般的な考えと言うつもりはありません

言いたい事はここまでにしようかな。
僕の見解でどっちの考えが良くて悪いっていう事を言葉にするのは悪手であろう。

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