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日本語での教科教育について考えてみた:新井紀子先生のN高の講義

東ロボ君の開発等の研究を踏まえた著書『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』で有名な新井紀子教授が、ドワンゴが運営するN高という通信制高校のオリエンテーション的な意味合いの講義で話されている動画がYouTubeで公開されていたので観ましたが、素晴らしかったです。

日本の中高生の学力を真剣になんとかしたいという情熱と、そして何よりも愛情が感じられる講義で、難しい内容もありながらも、聴き入って感激してしまいました。

理系的学問を理解する要である、論理的な国語力(定義文の理解、因果関係の表現等々)に関しては、ほんま、確かに、別の外国語にも比しうる存在感で、日本人の言語空間に存在しているように思えます。

僕が高校の教科書に全く馴染めなかったのは、こういった論理的な文章記述の徹底が、英語圏で書かれた教科書に比べれば遥かに甘いことに一因があるのですが(定義をちゃんと書いていない、論理的な解説が甘く、すぐに問題演習に逃げようとする)、実は、あまりそういった側面を強調しすぎると、平均的な高校生の大部分は付いていけないという事情が、裏にはあったのかもしれません。

新井紀子先生が上記の講義内で言っていたのですが、日本の小学校の理科の教科書では、定義文が1ページで1つくらい、それが中学校の教科書になると4つぐらいになる。そこで、かなりの数の生徒が付いていけなくなるということでした。

高校だともっと多くなるということですよね。誰も読まない教科書なんて存在意義はないですから、最後まで読んでもらえるために、高校の教科書も、一般に販売されている教養書でさえも、定義や論理的説明が甘い、逃げたような記述の書籍ばかりになるのは仕方ないのかもしれません。

教育に携わる方の苦労には頭が下がります。

僕の普段の学習に関しては、知りたい分野があれば必ず、英語圏で書かれた教科書やその翻訳を選んでいます(法律に関しては日本語でやるしかないので日本語ですが)。プログラミングも全部英語の本で学びました。日本人著者の教科書は、読み通すのは楽ですが、それで実際何かしようとなると全く役に立たないということが何度もあって、自然にこうなってしまいました。

本だけで理解するのではなく、実践や演習を通して学び取るというのが、日本人の教育の王道になっているんやろうなあと思います。

法律の教科書に関しては、水準を落とす訳には行かないから、容赦なく濃密な定義的・論理的記述に埋め尽くされているものが通常だと思いますが、一度記事にも書きましたが、それはそれですごく読みにくいし、きつい。(改行やインデントを付したりといった工夫もしたものです)。

だからといって、日本の高等教育を全部英語にすべきなんていう意見には全く賛成できません。英語だけはできないけど、数学は抜群にできるといった方が大量に落ちこぼれるというのは絶対日本のためにならないと思います。

ただ、自分にもし子どもができたらとなると、学術書は英語の方が楽だし、中高の教育は全部英語でするよう環境を整えるとは思いますが、国全体の施策となると失うものが大きすぎるように思えてしまう。

どうしたら良いのでしょうね・・。


蛇足ですが、新井紀子教授は一橋大学の法学部出身だそうで、大学一年生のときに受けた松坂和夫先生の授業で数学に目覚め、理転して今の経歴(数学者)に至るそうです。

実は、僕が数学が、苦手ながらも好きになっているのも、松坂和夫先生が翻訳した、S.ラング著『解析入門』がきっかけです。一見、高校の教科書と全く変わらない、無味乾燥な記述なのですが、高校の教科書は全く頭に入らなかったのに、これだけはなんか分かるというのが不思議でした。

大学を辞めて、仕事もバタバタと続かず辞めて、人間なんて嫌いだ・・となっていたときに、人間関係のことを全く考えずに時間を潰せる数学の本が楽しくて、上記解析入門をずっと読んでいたことがありました。内容は数の定義から始まって微分・積分で終わる、高校1年生でも付いていける内容です。日本の理系大学生には内容が簡単過ぎて、同じ著者の『続・解析入門』の方がよく読まれているようですが、数学を学びなおしたいような大人等、一定のニーズはある本だと思います。

個人的には、高校1年生のときに出会っていたかったなあという本です。

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