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アストロラーベの叙唱

そこにはかつて香りたかい死の部屋があった
死の薫氣とは何か
いやかつてそして今も
そのような鼻道の歓びに硬直することは
ないかもしれないが
あのときは
終末に侵されていく確実な
臨死の倫理的な夢のなかにあって
不条理に腐れ
死にゆくものたちとの一度きりだが
決して離れることのない
心の結びつきを
存在論的共感という病理のうちに
私たちの名前が縺れ
微小な針の刺突に喚起される世界の変容を
苦痛というほどではない痛みの香煙を
指にまき
全身を縛り
その異臭に麻痺する肉體がひぃと
放散しかおる螺旋だけが
一すじ
しろい宇宙の
泡だつ空洞から織りだされる
編絲の始原へと
くゆりゆき
墜ちる眼球が二転し覗きみるのは
悶えるほむらのなかに抱きあい
炎よりも朱い蝋を垂らし
つぎつぎと
のけ反り
天を掻く姿態が膿みだし
匂い崩れおちる
蝋人形たちの溶けあう
うずたかい塊
その馨の記憶レミセンスに咽かえる部屋だ

あかぐろく融ける空と地に屹立する
槍の穂先に貫かれ
確かに彼は両眼をひらき
世界とつながったまま息絶えているが
鋒端からかるく飛びたつ蜻蛉とんぼ
貌が彼のものであることもまた真実であり
その胴の縊れに結ばれる絲の端をもつ児の目が
六角の多眼であることも疑いなく
私が彼の名をよぶとき
児が引きよせる女の指先に
滴る雫がひろげる波紋に
ゆらぐ月が真円をとりもどし
指極星カペラを指す彼の翅が殷い天をふたたび波うたせ
彼女の胸に抱かれる児の力強い拳に
にぎられる世界は
炎舞する千切絵
無邪気な甘い余香をふりまき
追いかけっこしながら
蜻蛉のおとす翅を河原に積みあげ
大地に尖角をみせる墓標に
繋鎖される彼の刻は
幾重にも折りたたまれ
飛翔よりはやく槍が気層を裂く

しかし灰は降り続く
睫毛にかかり瞬きするその
奥行のない世界に差しだす手爪の尖に
かすむ閑かな中庭を
埋めていく
私から立ちのぼり
私を空洞にしていくそれらは
読まれることのない手記の焼尽の痕跡であり
たなびく幾枚もの緞帳の向こうに
在るとは思えないものの降灰それ自身のうちに
靜黙となって身躯から締めだされる私の
選択肢のない事柄にかかわる希望を
物語ってもよいのか
灰はなお降り続く
踏む大地は私を押しかえさず
私の歩みは開傘しない錐揉なのか
異様な測位系の迷走なのか
立体座標のない中庭の
真直ぐに歩いたはずの足跡は
一面の黑い乱歩で
中指のふれる遠景の壁は思いのほか近く
鍵の刺さる半開する扉は押しても引いても動かず
歩廊の突端の出窓から素貌すがおをだし
覗く側壁には
扉のない把手が
一列にあの先まで並び
地平とは到達できない壁であるというあの
言説の虚偽に気づく間もなく
いちど嚙みあうと最後まで廻り通す私の齒車は
錆びついたかんぬきをこじあけようと空転し
灰に覆われる庭園を徘徊し
人のかたちをする緩慢なだらかな凹凸をかぞえ
あの正門をめざす
それでも灰は降り続き
文字盤のない華奢な日時計の
入口がたちまち埋まる円形交差点は
出口のかわりに後ずさりする現在を私に与え
すべてをかくすための道化の笑いを与え
ただ過去が堆積する円環を直往し
緩やかに壞れる
構造的に愚かな私の
危うい欲望に急かされ氣化する那夫塔林ナフタリン
針状の結晶が突きでる
時に置換されていく身體は多環芳香族炭化水素で
蜻蛉や蝶の夢を奪う毒薬で
私も犯され
眼球は三角錐に改変され
眼前に在るものは近すぎて目に入らず
遠景は曖昧で
あれを撃てという言葉が入ってくるなら恐らく
人差指はなにも考えず引鉄をひくだろう釦を押す
そして灰は降り続く
礼拝堂で祈るものはどこにいるのか
蝋細工の蜻蛉と遊ぶ彼らは
そこに埋まっているのか
あの匂いはどこへ
鍵はどこに置いていったのか
私は
何を祈る
あの告白は結局できなかったのに
その日記に鍵すらかけることはなかったのに
だから
灰にまみれ
斑に空疎となった
私はこの世界で
雨に濡れ固くなった狭い箱庭で
拾った焦げた燭台で
蜻蛉が横切っていったあの
灰に透けてみえる
虹の昇降口を掘りだそうとしている


【原注】
 ・アストロラーベ:天体観測機器。
   参考:https://www.britishmuseum.org/collection/object/W_1855-0709-1

 ・叙唱:レチタティーヴォ。

【23U14BN】
*画像はStable Diffusionにて筆者作製。画像と本文に特別の関係はありません。なお、AI生成画像を無条件に支持するものではありません。



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