国分寺崖線17L

描き続けるための絵画教室 その1:デッサン

絵を描きたくなるとき

「絵を描きたいのだけれど、なにから始めればいいんですか?」という質問をときどき受ける。そういうとき、たいていの人は漠然と、描きたいものや画材を想定はしている。風景を、花を、人物を、描いてみたい。画材はぼんやりと、水彩、パステル、鉛筆、油絵、アクリルなどのうちどれかにアタリをつけている。このほかに望むのは、「描くきっかけ」くらいだろう。どこかの絵画サークルに入るか、先生について習うか、独学か。

さて、描きたいものを想定してはいるが、その前にみなさん、ある「訓練」が気がかりだ。それは「デッサン」のこと。絵を描くには、やはりデッサンを習ったほうがいいのだろう、と思っている人が意外に多い。自分が想定するものを描くにはデッサンという「基本」の習得が必要なのだろうという認識だ。「なにから始めればいいんですかね?」と問う裏では、「やはりデッサンからなんだろうな」という意識が少なからずある。「デッサンをすっ飛ばして、描く」を考えている人は、悩まずにいきなり描き始められるか(すでに描きたいものがある)、描きたいという意識が強くないか(=それほど立派なものを描くつもりはない)、どちらかだ。

一年も描けばうまくなる

私は「じっくり長く描き続けたいのならデッサンから始めてもいいですし、デッサンをすっ飛ばして思うように描くのも悪くないですよ」と答える。たいていの人はできれば長く付き合いたいと思っているが、前者に対して「でも私、デッサンなんてとてもじゃないけれどあんなにうまく描けません」と尻込む。「あんなにうまく描けません」という言葉の前にはだいたい「美術大学の受験生のように」がつく。

実は、デッサンは一年も描けばだれでもうまくなる。これは事実だ。より正確にいうならば、先生に教わりながら一年も描き続ければほとんどの人は「ある一定レベル」に到達する。要するに、他人が見て「あら、上手ねえ」「そっくりだわ」と感心されるレベルだ。もちろんこれは、デッサンを描く時間に比例する。毎日デッサンする人と週一の人とでは、当然差が出る。とはいえ「何度描いてもうまく描けない」と思っている人でも、辛抱強く時間をかければ、本人が気がつかない間に描画力は着々と上がっていく。絵の上達とはそういうものだ。

デッサンは必要か?

では、デッサンとはいったいなんだろうか? 結論から言ってしまうと、「ものの見え方がわかること」だ。うまく描けるようになるためにするものではない。私たちの脳は対象を見てそれがなんであるかを無意識かつ自動的に認識する。テーブルの上に置かれている皿、それに載っているりんごやオレンジ。そういった物を目を通して脳は見ている。しかし、見えていること=わかっている、にはならない。見えるというのは、りんごの色や陰影、丸さ、重さ、傾きなどを無意識のうちに脳が捉えている状態だ。デッサンは、物(対象)と脳(見える)の間に「私」が入り込み、物がどう見えているかをさまざまな点で「わかるための作業」になる。「脳」ではなく、「私」がわかるために行うのがデッサンなのだ。物のあり様がわかれば、自然に描けるようになっていく。

ちょっと乱暴だが、デッサンは大きく2つに分類できる。前述した「わかる作業」のためのデッサンと、「本番」のためのデッサンだ。いずれもやることは同じだが、前者は「訓練」の意味合いが強い。単純に言ってしまえば、インプット(物を見る)>処理(見え方がわかる)>変換(「わかる」を自分なりに判断)>アウトプット(描く)というプロセスの訓練だ。絵を描くというのは、こうしたプロセスがずっと続く状態なのだが、ある地点地点で「本番」として成果を出さなければならない。その点で、訓練が本来の姿であり、本番は通過点になる。

ただし、訓練としてのデッサンを続ける上で留意する点がある。デッサンというのは、ひとつ間違うと「手癖」に陥りやすい。「うまく描くこと」あるいは「そっくりに描くこと」が目的であれば、デッサンをやって、手癖やルーチン(決まった手順)で描くのもひとつの道だ。私は「うまく描くこと」も「そっくりに描くこと」も、それはそれで否定はしない。この場合は、デッサン自体が目的ということになる。「そっくり」はともかく、「絵がうまい」の定義については後日あらためて考えてみたい。

また、デッサンをすることで、その人本来の持ち味(あるいは潜在的にもっている資質)が失われる場合もある。つまり、デッサンを描くことがその人が本来持っている表現を邪魔してしまう。あるいはデッサンという行為が体質的に向いていない人もいる。前述のプロセスのうちの「インプット(物を見る)」と「処理(わかる)」で扱う素材が「物」ではない人とでもいえばいいだろうか。俗にいう「抽象画」というのもその範囲だ。そういう絵を目指す人は前述したとおり、デッサンをすっ飛ばして思うままに描けばいい。もっとも、見て描くだけがデッサンではない。広い意味で捉えれば、「描かずにものを観察することだけ」の行為もその範疇に入ってくる。ある程度上達すれば、実際に描かずとも見るだけで訓練をすることは可能だ。

やはり私は、どんな方法であれ、描くことで自分という身体に「基本」を覚えさせるのが重要だと思う。デッサンは「見え方」を追求するのに適した方法だろう。「見え方」がわかるようになることの結果はいつのまにか自分のなかに蓄積され、それがのちのちの制作に生きてくる。すると、描くことが楽しくなり、この連載のテーマのとおり、続けられるようになる。次回は、道具の用意などを含めたデッサンの具体的な進め方について書いてみたい。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?