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須佐神社 須佐大宮

 令和五年五月、出雲の須佐神社に参拝した。出雲には何度も来ていたにもかかわらず佐田町には初めて来た。出雲の伝承を裏付けするために再度出雲大社に参拝する道すがら、その途中にある「須佐能哀命」を祀る「須佐神社に立ち寄った。

 「須佐神社」は、出雲市の南部の神門川上流にあり、須佐能哀命だけではなく、稲田比賣命とその親である手摩槌命と足摩槌命と祀る。うちの家の鎮守の神社も同様の神を祀る。

 鳥居をくぐった先には安芸の宮島の厳島神社と同様の櫛磐間戸神と豊磐間戸神が門番として左右に立っている。古事記での天岩戸から天照大御神を出し新宮にお連れした時のその宮の門番であった天石門別神とされる。
 
 古事記では、須佐能哀が高天原から地上に天下り、田を荒らし機織姫を死に至らせた乱行に嫌気をさして天岩戸にこもった天照大御神の岩戸隠れの話に出てくる神である。

 櫛磐間戸神の「櫛」は櫛玉饒速日命の「櫛」であり、豊磐間戸神の「豊」は豊玉姫である豊国のヒメ大神の「豊」である。邪馬台国の話に出てくるトヨキイリヒメである台与の「豊」でもあった。

 つまり、スサノヲはニギハヤヒのヤマトとヒメ大神の豊を従えているという意味である。とすれば、この造りは新しい。ニギハヤヒとの時代はB.C.3世紀であるが、ヒメ大神の豊の時代は3世紀であるから、厳島神社と同様に豊の時代である3世紀以降に造られたものであると思われる。

 また本殿は出雲の神魂神社の社殿に似ている。神魂神社本殿は出雲の王がもと住んだ宮殿であったともいわれ、今はアメノホヒの子孫が宮司であるといわれる。その神魂神社の造りに似ているが、そういう理由でこの造りがこの地域に広がったのではないかと思われる。もしそうであれば、ここに祀られる神もひょっとしたらスサノヲはではなくスサノウに変えられている「素鵞」かも知れないとも感じた。

 古事記の中では、スサノヲが高天原から天下って初めて出会ったのが手摩槌と足摩槌であった。娘を八岐大蛇に貢ぐことを嘆いていた彼らを救うために、スサノヲは八岐大蛇と対決することとなったのであるが、その顛末は御存じの通りで、スサノヲは八岐大蛇を退治した後その娘である稲田姫を娶ることとなったのであった。

 「須佐神社」の宮司家は、今でも手摩槌と足摩槌の子孫であるという。この話がほんとうなら須佐能哀がここに来たというのも実際にあった話かもしれない。須佐能哀がこの土地に来て須佐田と名を定めたという。須佐能哀の田であり、須佐能哀の稲田であった。そのためここを須佐田の須佐というようになったという。ここは今は出雲市佐田町須佐という。

 また、須佐神社の由緒付記によれば須佐能哀はここで一生っを終えられたともある。しかし、須佐能哀はここで生涯を終えたという話は他の話とは食い違う。須佐能哀は古志の八岐大蛇を退治し、古志を平定したはず。

 とはいえ、須佐神社の大宮司家である「須佐家」は24代益成のときに国造りに任じられたという。それは成務天皇の御代三十年(160年)であったという。それより後、代々交代で出雲太郎、出雲次郎を名乗っていたが、永享年中(1,434年)に「出」の一文字を除き、雲太郎、雲次郎となり、今日まで78代続いている今の宮司須佐建紀氏は雲太郎であるという。須佐の名字は明治の初めにつけたもので、それまでは須佐国造某と名乗っていたという。

 その国造りの制は「大化改新」の時に廃されたが、出雲、紀伊、阿蘇、尾張の国造りだけは残されたという。これらの国はヤマトの時代より前の時代に力をもっていた地域であった。

「大化改新」は御存じの通り中大兄皇子が中臣鎌足と行ったクーデターである「乙巳の変」のあとの政体の一新であり、明治維新のようなものであったと思われる。「大化改新」を行った中大兄皇子は後に天智天皇となり、中臣鎌足は藤原氏の祖となった。その後は、大化改新の前に政治を行っていた蘇我氏は没落してゆき、藤原氏がさらに台頭していく。

 日本の初期王権であった出雲の東王家は「富家」であった。初代王は「富の須賀之八耳」であった。しかし、ヤマト側の侵略によって国譲りが行われた。そうして、出雲の王家「富家」は東へ落ち延びていったという。そうして、今の千葉の「仲国」に至り、「仲国の富家」となった。それが、「仲富」であった。「仲富」は「中臣」であった。大化改新後の世に出雲の東王家であった「富家」は復活し政権に返り咲いたのであった。

 
 「須佐」の須佐神社は「須佐社」である。「須佐社」は「須佐能哀社」であり、「須賀社」であったはず。菅八耳の「素鵞社」は今では「須賀社」に変えられているが、この「須佐社」は正真正銘の須佐能哀を祀る「須賀社」のようである。

 
 しかしながら、出雲の伝承では出雲の国造家は、もともとは出雲の人ではないといわれる。ヤマト側から派遣された、代官のような立場であったらしい。つまり、この話は出雲をヤマトが支配するために創られたのかもしれない。さきに紹介した「素鵞社」のある出雲大社宮司家と同様に。

 また、当然のことながら須佐能哀も出雲の人ではない。出雲の国譲りを行わせるためにヤマト側である高天原から派遣された天照大御神の夫であった。須佐能哀は天照大御神の弟といわれるが、兄弟では子供は生まれない。実際には、二人の間には誓約によってできたたくさんの子供がいる。夫婦であった証拠である。

 出雲のほかにも尾張、紀伊、阿蘇の国造りは残されたという。これらの国も出雲の末裔たちが住む国であった。

 須佐神社の向かいにはなぜか天照社があり、毎年4月18日の例大祭では朝覲祭が行われ、須佐神社から天照社まで神が神行するという。そして翌19日にはなぜか陵王舞神事と百手神事がおこなわれるという。

 陵王舞とは安芸の宮島にある厳島神社でも行われる蘭陵王の舞か?そういえば、厳島神社にも須佐能哀が祀られている。

 
 須佐能哀と天照が一緒に仲良く鎮座するのはやはり夫婦であった証でもあるが、そのような神社はほかにはあまりみかけない。ほかには日御碕神社しかないかもしれない。

 須佐能哀が治めたという須佐は古代出雲の伝承の残る神社であることは間違いない。須佐能哀は出雲の人ではなかった。高天原から天下った(渡来した)のであった。後に須佐と名付けられた地で稲田姫を娶った。そして最古の和歌を詠んだという。その場所は今の松江の八重垣神社であったともいわれる。

 
 スサノヲはヤマトの王であるアマテラスと共に出雲を支配しようとしたのであった。このときのアマテラスは出雲の大年であったという。そしてスサノヲは高天原から天下った大国主(オオナムジ)であったといわれる。しかし本当の大年は、実は高天原から渡来した天照国照彦火明櫛玉饒速日とも呼ばれるホアカリであったといわれる。そして彼こそが高天原から天下ったスサノヲでもあったのである。そして本当の大国主は出雲の第八代大名持ヤチホコであったのである。

 
 その真実はいまでは出雲国風土記にわずかに残っているのみである。


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