【URコラム】死を意識する生

小学5年生の一月
今でも地面に叩き起こされたことを強烈に覚えている。二段ベッドに眠る兄弟を両親は抱え、揺れが収まった後、寝室用の小さなブラウン管をつけると早朝から緊急速報が鳴り響く。
何が起きたかわかならなかったが、それはしばらくしてやってきた転校生によって段々と理解できた。
淡路島出身の背の高い女の子。関西弁の訛りが強く、バスケをしていたその女の子は一見すごく強そうなのに、見せられた写真には亀裂の走った道路が写っている。世の中にこんなことが起きるんだと度肝を抜かされた。
彼女の家は幸いにも全員が無事だったそうだ。「『無事だった』ということは『無事でなかった』というご家族もいるのです。みなさん、●●さん(転校生の女の子)はしばらくこの町に住み、落ち着いたら淡路島に帰りますが、一緒に過ごせる時間を大切にしましょう」と言う先生。当時の小学生同志の会話なんて、彼女が“島”の出身ということだけで「島に人って住めんの!?どうやって移動すんの!?船??」程度の阿保な会話ばかりしていたと思う。
でも僕は今でもその彼女の写真を思い出せる。海沿いの町。巨人にいたずらされたかのようにうねるコンクリート。
そんな見知らぬ島から僕の町にやって来てくれた女の子は、しばらくするとまたその島へ帰っていった。
転校生が僕に伝えてくれた阪神淡路大震災。
大学1年生の一月
「腐れ縁」というものは存在する。
同じ小・中・高・大にまぐれで進んだ僕らはだいたい一緒にいた。「一緒にいような」の一言も何もないのに。
僕はそこそこ頭が良くてそいつはそうでもなかったのに、僕らは同じ高校に普通受験で受かり同じ大学に普通受験で受かったのが、僕は嫌だった。でも同じ学校に行ってしまったらしょうがないとつるんでいた。会わなくても会ってもどっちでもいいのに。
後で思い返すと、僕たちは『親友』だったんだと思う。あくまで“思い返す”と、だ。
小学生低学年の時、そいつは“肥満”により入院した。みんな、「学校に来なくていいなー」なんて言っていた。僕はサッカーもしないし、野球もしないし、一緒に土曜日の午前の授業が終わったら、家に向かって一緒に走ってくれる友達がいればそれでよかった。新喜劇が見たかったから。そいつの入院中、ひとりで石っころや空き缶を蹴って帰っていたあの頃は寂しかった。
中学ではCDを貸し借りできる友達がいればよかったし、そいつはPSとバイオハザードを持っていたから一緒に死ぬほどやれればよかった。
高校では学校帰りにカラオケボックスに行って新曲が歌えればよかったし、スーパーで安くなった大量の唐揚げを割り勘で買い食いできればよかった。
大学では・・・
一年生の時、僕は大学デビューをしハツラツとしていた。が、彼はといえばちょうどその頃、大好きだった祖父が亡くなったということで少し塞ぎ込んでいて新歓コンパに来ることもなく一人暮らしの家に籠ることが多くなっていた。そんな家にたまに遊びに行くとよく僕の前で泣いていた。彼は弱っていた。それなのに僕は新生活が楽しすぎて忙しかった。「出ておいでよ」と言っても彼は断り続けた。つまんねーの、ぐらいの気持ちだった。もっと一緒にいてあげられればよかった。
家を出て初めての正月。僕らは別々に帰省し地元でも会った。「大学でも地元でも会うなんてなんか変な感じやね」と地元の養老乃瀧で安い酒を飲んで酔っ払いながら笑った。高卒組が心配する中、「大学生をナメんなよ」といきがっていたのは僕だけだった。彼は『最近、舌が痛い』と言い、普段は揚げ物ばかり食べていたのにその日に限ってサラダしか食べなかった。既におかしかった。
僕らは大学のある街へ戻った。そしてしばらくしてそいつの母親から僕のところへ電話がかかってきた。「ここ数日息子と連絡がつかないから、ごめんやけどアパートまで一度見に行ってくれない?」と。
僕らはお互いの両親ともツーカーの仲だったし、それが逆に恥ずかしかったけど、別に「了解」と思ったくらいで、彼のアパートを見に行った。
僕は彼の“第一発見者”となってしまった。
110.119.
作り話ならよかったのに。僕は十代で喪主となってしまった。
もちろん本当の喪主は彼のお父さんなのだが、お父さんもお母さんも立っていることがやっとのような状態だったので、僕が実質的に喪主を務めてあげることにした。
事故でもないし他殺でもなかったのは”第一発見者”として一目でわかった。体調不良による突発的な何か。ご遺族の意向で詳しい解剖等はなされなかったが、心筋梗塞のようなかたちでの突然死。
周囲は誰しもとてもじゃないけど会話ができる状況ではなかった。立っているのもやっとの状態。僕は幸いにも、誰よりも早く彼の死を目の当たりにしてしまったので、誰よりも先にそれを受け止めざるをえなかったし、周りはボロボロであり、僕はうかうかしている暇はなかった。
彼の携帯を手に片っ端から電話をかけた。知らない人も出たが「失礼ですがどこで彼と出会いましたか?」と聞けばたいてい“繋がり”を感じられた。魂が抜けてしまった彼にできること。そして電話の向こうの見知らぬ人が彼が死んだことを知らずに生きていくことの方が辛いだろうと思ったことから、僕はそういう行動をとった。そして僕自身『彼は亡くなりました。』と何度も何度も口に出すことで、その事実を急いで心に刻んだ。
ご遺族はもちろんのこと小・中・高・大の交友関係を知っていた僕は、“喪主”に最適な人材だった。彼が親に隠しておきたいことはそっと隠しておいた。
僕を選んでくれたのは彼だった。
この馬鹿野郎。
通夜でお坊さんは言った。
『命とは蝋燭のともしびのようなもので、小さくても燃え続ければ何かを照らし続けますが、風が吹き一瞬消えそうになるがなんとか灯っているような状態。それが生。今回彼のともしびはふとした強風によって消えてしまい、それは悲しい出来事ではありますが、あなた方が生き続けている限り世の中が真っ暗になったわけではありません。そこから何を学ぶかです。』
僕というともしびもいつ消えるかもわからないし、”死に順”もそのままいくかなんてわからない。
僕は今、結局、彼の倍も生きてしまった。彼は高校の制服のまま遺影にいるのに、僕だけが生き続けているのは本当に滑稽。僕はおいしいお酒を飲んだり、美しい景色に出会ったり、知らない国に踏み込んだり、好きな人とセックスしたりしている。そんな時いつも思う。「彼はこんな楽しいこと知らずに死んでいって勿体ないなぁ」と。
だから僕は死んだら彼に自慢してやるんだ。お前のできなかったことをしてきたんやぞ、あんなことやこんなこと・・・と。あいつの羨ましがる顔が目に浮かぶ。
彼は生前ずっと言っていた。『いつか京都に住んでみたい』と。
そして僕は今、京都に住んでいる。
生きているだけで彼への自慢話がまた一つ増えてゆく。
社会人12年目の一月
祖父が死んだ。享年95歳だった。
『人生100年時代』なんてお国が言うけれど、僕はそれを知らず知らずのうちに意識しているように思う。
大正生まれで戦争も経験し、シベリアで捕虜になり、戦後の日本で会社を興した立派な祖父。当時は今よりもきっと衛生状態も悪かったろうに、それでも95歳まで生きたのだから(逆にそれが祖父を鍛錬したのかもしれないが)、僕なんてぬくぬく育ってきているし何よりそんな祖父の血筋なので、大きなことがなければきっと100歳なんてすぐに生きてしまいそうな気がしている。
別に長生きして何かを成し遂げたいわけではないが、誰かを悲しませるのは本望ではないし、健康で、いつまでも痛みなくへらへらと生きていきたいので、なんとかそうしようと努力している。
なんなら、死んでも親友や今まで愛した人達には来世できっと再会できると信じているから別にいい。
もうすぐ二月ですね。僕の誕生日です。乾杯しましょう!



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※2020年1月寄稿

クスっと笑えたら100円!(笑)そんなおみくじみたいな言霊を発信していけたらと思っています。サポートいつでもお待ちしております。