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137.(81/365) 川の流れのように。

ティム・インゴルドの「生きていること 動く、知る、記述する」を少しずつ読み進めている。
まだ序章なのだけれど、その中に印象に残る文章があった。

つまるところ、私たちは川の両岸に気をとられて、川を見失っていたのだ。
だが、川の流れがなければ、両岸もそのあいだの関係もありはしない。
「生きていること 動く、知る、記述する」/ティム・インゴルド

昨年5月に、奈良県桜井市で行われたジェネレーター合宿に参加した。
Feel℃ walkを開始してすぐ、駅近くの小川が気になってしまって、みんなで小一時間その小川で気になるものの観察をしていた。
翌日朝、前日を反芻して、模造紙に気になったことを書いていくときに、「川」は「か+わ」で、「か」は「彼」で「わ」は「私」なんじゃないか、つまり、「こっち側」と「あっち側」みたいな意味を持つんじゃないか、そんなことをメンバーに話した。
「三途の川」なんて、まさにそのイメージにピッタリだ。
川が生者と死者の境を表している。
その時ぼくが見ていたのは、川の両岸だった。
その間を流れる川の流れそのものには意識は向いていなかった。
インゴルドの文章を読んで、その時のことを思い出した。

人は両岸があって、それからそこに川があると認識するのが一般的かもしれない。
ぼくは無意識にそういう認識をしていた。
でも、それは実は逆で、流れがあるからこそ、両岸というものや「あっち」と「こっち」の関係性が生まれるとインゴルドは言う。
よく考えてみれば、思い当たる節がある。
晴れた日の運動場は平らであり、そこには、明確な線引きはない。
けれど、雨が降った日、ふと運動場に目をやると、流れ出した雨によって、運動場にいく筋もの小さな流れができている。
その流れは、砂や小石を運び、削り、そうして、川になる。
まさに、流れがあるが故に、両岸やそのあいだの関係性が生まれた物理的現象だ。

人も自然の一部であることを考えると、こうした川に関する一つの見方も、人と同型性をもっているのではないかと思えてくる。
ぼくたちは、日々、無意識に無数の「あっち」と「こっち」の中で生きている。
わたしとあなたが川の両岸だと見た時、その間をどちらの方にも向かわず、わたしとあなたから離れていくように(ドゥルーズとガタリは、これらの線を「逃走線」とか「生成線」とか言ったらしい。そもそもドゥルーズとガタリが何者か、まだ全く知らない…。)流れていくその自動詞的な流れとは一体何なのだろう。
その流れがあるが故に、わたしとあなたそのものやわたしとあなたの関係性が成立するとするならば、その流れとは、文化だろうか、組織だろうか、環境だろうか。
その流れには何という名前がつくのだろう。
そんなことが気になった。
ぼくと子どもたちの関係性もその間にある流れが生み出しているとするならば、そのあいだにある流れとは何だろうか。
川は、遠くから眺めていると、同じ流れで絶えず一定のペースで流れているように見えるが、雨による増水や日照りなどの状況に応じて、流れを変える。
と同時に、長い年月をかけて、少しずつ両岸を削り、その形を変える。
そう、両岸もまた、そのあいだの流れによって固定化されたることなく、ゆるやかに変わり続ける。
この辺りの感覚は、社会構成主義ともつながるのかもしれない。
点と点で捉えることで見えなくなってしまう、その間の流れに目を向けることで、わたしとあなたの関係性もまた捉え直すことができるのかもしれない。

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